「8.6ヒロシマ平和の夕べ」のチラシができました。

今年の「8.6ヒロシマ平和の夕べ」のチラシができました。クリックしていただくと、大きくなります。

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あれこれ悩みましたが、今年もいいメニューになったと思います。

ロシアによるウクライナへの核攻撃が現実のものなりそうな今、平和講演は、最も若い被爆者、ただお母さんのおなかの中にいたというだけで、障害をもって生まれて来た原爆小頭症の人たちと家族の会、きのこ会の事務局長の平尾直政さんに話して戴きます。平尾さんが作られた番組も駆使しながらのお話しになるでしょう。被爆証言は、平和教育の大転換を図ろうとする広島市を中心とする教育界に対して、重度の火傷と放射能を浴びながら、早くから平和教育に取り組んでこられた被爆教師の会の森下弘さんにお話しいただきます。今年も若い人のお話しも聞きましょう。基町高校生で被爆者の話を絵に描いた横山栞央さんには、若い人たちの平和への思いを語っていただきます。そして、福島から。2020年に話して戴いた、ローマ法王に招かれた鴨下全生さんのお母さんに話して戴きます。

 今年もギューギューのスケジュールで目いっぱい勉強しようと思います。ただ学ぶだけでなく、行動につながるようにと試行錯誤し、このようなメニューになりました。

 ぜひお集まりくださいませ。そして、共に考え、行動しましょう。

 

 

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ABCCの内部情報を流出させた日本人職員について③

学校について先に書いてしまいましたが、終戦の日、ラジオで天皇の声を聴いたけれど、良くわからなかった。しかし、大人たちが負けたことを話して。山内幹子さんは、「生きて虜囚の辱を受けず」と聞いて育っています。死ぬしかないと決心。家に帰ると、母親が大事に残していた白米を炊いてくれたそうです。最後の日。「母ば自分で死ぬだろうが、子どもは殺せないだろう。私が包丁で弟らの胸を突き、その後自死を」と考えると、食事が喉を通らなかったと。と、その時、裏に住むおじさんが窓から首を突っ込み、「戦争が終わったで。お父っつあんが帰って来るで!」と怒鳴ったのです。「死ぬ必要はない」と、異常を感じたこのおじさんの怒声によって、山内さんたち一家は、生き延びたのです。そこから、学校の厳しい状況になります。

 山中高女を卒業した山内さんは、広島女学院大学英文学部へと進学しました。卒業後、1955年、政治家の秘書からABCCの職員に転職します。弟たちを養わなければならないという使命から、少しでも給料の多い所への転職です。

 ABCCは、被爆者の調査はしても、治療はしないという評判でした。はじめは連絡員の業務で、毎日20件ほどの被爆者を訪ねて、話を聞きます。はじめはよく話していた被爆者が、10年もたつと、ぴたっと話をしなくなったそうです。「みんな気が付かれたと思うんです。愚痴を言っても、返って来んのんじゃ。言ってもだめじゃと。」そんな時、彼女は人事異動の辞令が出て、医科社会学部受付係。新たな業務はABCCでの調査研究に関しセクション間の調整を行う「スケジュラー」という役割です。

 そんな時、1965年、深川宗俊さんから呼び出されます。

「精神薄弱を伴う胎内被爆の人がいる。普通の被爆者は国が手を付けたが、彼らはだれからも見捨てられている。胎内被爆の人のことを調べたいから、その人たちがどこに住んでいるのか調べてくれないか。」という依頼に、山内さんは、「この仕事は、私にしかできない仕事だ、よくぞ私に言ってくれた」と思い、深川に対してその場で」「わかりました。大丈夫です。やります」と答えました。

 「胎内被爆の情報を伝えるということは、ABCCの内部情報を部外者に漏洩することになり、組織に対する重大な背反行為だ。それでも、山内はこの申し出を引き受けた。」

 彼女は、論文を読んで、そこに出てくる一人ひとりのナンバーを調べ、そしてカルテ庫に入り、それぞれのカルテから住所等を調べました。すでにスケジュラーとなっていた彼女は、カルテ庫に入ることも可能だったのですね。

 そうして彼女が作ったリストは深川さんから秋信さんに渡りました。

 山内さんは、2020年89歳で亡くなりました。亡くなった後、遺品から小頭症の論文のコピーや彼女の手書きのリスト等が出てきました。

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平尾さんの論文には、まだまだ興味深いことが沢山出てきます。山内さんが話す前に、山内さんのことを知ったマスコミの人のこと、ABCCの市民の受け止め方・・。私がはじめに書いたように、読み物としても十分に心打ちます。これは、公にされていますので、興味のある方はぜひ読んで下さいませ。ここにあります。

https://shudo-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=3427&item_no=1&attribute_id=21&file_no=1

 また、今年の「8.6ヒロシマ平和の夕べ」には、平尾さんに平和講演をお願いしています。きっと、平尾さんが作られた番組も上映されることでしょう。

最後に、今日、平尾さんから頂いたメールを転送させていただきます。

「山内幹子さんの長女、原森泉さんは母の幹子さんがお亡くなりになって、「母の思いを受け継ぎ自分でもできる限りのことをしたい・・」と、自宅を開放し、月に一度の勉強会「ミキコ・ピースカフェ」を開いています。被爆者や研究者などをゲストに呼んで、反核平和に関することを共に学ぶ会でして、私も一度ゲストとして招かれました。山内幹子さんの思いは、次の世代に受け継がれています。広島全体で、このような継承の和が広がるといいですね。」

 長々と読んで頂いてありがとうございました。また、貴重な論文を、私のつたないブログ等に転載させていただくことを許可して下さった平尾直政様に感謝申し上げます。

 

 

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ABCCの内部情報を流出させた日本人職員について②

 ABCCの原爆小頭症の名簿を記録して、秋信さんに届けたのは、山内(旧姓楠本)幹子さんと言います。平尾さんは、その山内さんに2017年、お体がもう悪くて、長い間座っていることもできない状況で、でも、記憶はしっかりしていらっしたそうですが、長いインタビューをしていらっしゃいます。この論文は、そのインタビューをもとに書かれました。

 昭和19年に父親がトラック島に召集され、彼女と食べ盛りの三人の弟はたべものがなく、本当に苦しい生活を送っていたそうです。(これについては、彼女自身が「日本民主主義同盟広島支部の「ひろしま24号」に手記を寄せています。空腹と、空襲警報が出た時の恐怖がとてもリアルに描かれています。)


 1945年8月6日、彼女が行っていた山中高女の1年生と2年生の生徒らは、朝から建物疎開の作業に当たっていて、原子爆弾によって雑魚場町(今の国泰寺)でほとんどが死亡しました。

 しかし、弟と共に尾長の下宿に住んでいましたが、8月6日の数日前、食べるものがなく、衰弱している二人を訪ねて来た母親が江田島に連れ帰り、食べ物を口にさせたと。ここのあたりが、多くの人の運命というのでしょう。彼女が学校に帰ろうとした8月5日に、地元の友人が「じゃがいもを分けてあげる」と言い、そのために一日帰るのを遅らせたと。6日に帰ろうとしたときに、空襲警報が鳴り、船の出発が遅れました。その時に、切串港から大きな火球を見ています。急いで防空壕に逃れるも、爆発音と爆風は対岸の島迄届いたそうです。

 その40分後から、重症者たちが船で島に運ばれてきたそうです。同級生の姿もありました。ひどく傷ついたもの、遺体となって帰って来た人もいました。

 「学校は焼けてしまって。江田島から見ると毎晩赤々と焼けているんですね。広島が。それで母が行かせてくれなかった。5日目に広島の火が消えて、ようやく行かせてもらったら、学校も何もなかった。(学友も)全部亡くなりました。全部。もう全然・・・・。2年生で助かったのは2人いたんですけど、早く亡くなりました。1年生でひとりいたんですけど、早く亡くなられました。」

5日目の市内に入った山内さんは、入市被爆者となりました。

実は、私は2017年2月20日のブログで、江田島の切串の港のすぐそばに、慰霊碑があるのを写真に撮って書いています。

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慰霊碑の裏に書かれている文章です。「昭和20年8月6日、世界で初めて原爆が投下されて多数の犠牲者を出しました。その一部の遺体がその後間もなく来襲した枕崎台風により鷹の巣の砂浜に漂着し、その幾多の人々の現状は想像に絶する過酷なものであった…そられの無縁仏のご冥福をお祈りしたい・・・」

戦後学校は安浦に移転しました。同級生が336人だったのが、被爆を免れ再会できたのは、30人くらいになっていました。しかし、その学校では、また、激しい飢え、ノミ、シラミ、南京虫に悩まされました。水道もなく、みんなお腹を空かして、ぼんやりしていたそうです。そして、学校へ自分の娘がいないかと探しにきた家族に、なぜあなただけ生きているのかと激しくののしられたりします。


また明日続けますね。

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ABCCの内部情報を流出させた日本人職員について①

私が、「論文を読んで泣いた」と書いたのは、この論文です。「被爆と敗戦後を生きるーABCCの原爆小頭児に関する内部情報を流出させた日本人職員を中心として」現在の原爆小頭症の被爆者と家族の会・きのこ会の事務局長、平尾直政さんの論文です。

平尾さんは、RCCの記者ですが、修道大学の大学院で学んでいらっしゃいます。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  
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私は、きのこ会の平尾さんが作られた番組について、いくつかこれまでも取り上げています。

http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2020/02/post-7f181f.html

ここから、五回にわたって。この中にも書いているのですが、一番初めはラジオ番組です。

http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2018/03/rcc-0b7d.html

当時RCCの記者である秋信利彦さんがたいへんな思いをして、原爆小頭症の子どもたちの名簿を作り、一人ひとり、家族を説得して「きのこ会」を作られた、そのドキュメントです。このおかげで、「原爆小頭症」が被爆者として厚生省に認められたのは、被爆から22年たった1967年のことだったのです。実は、その名簿をABCCから流出せた一人の日本人職員についての詳細な記録を平尾さんがこの度論文にまとめられました。

 決して流出させてはならない一人ずつの被爆者の名前や住所をメモした人のことを、秋信さんは、45年間何も言わないままに亡くなったのです。このきのこ会のことを「この世界の片隅で」に書かれましたが、「あくまでも匿名の人から名簿が送られた来た」として、決してその名前等は明かすしませんでした。そして、秋信さんが2010年に亡くなって、その忍ぶ会が開かれた時に、それにひっそりと参加していた女性が「私が秋信さんに名簿を渡しました」と皆さんの前で名乗られたのです。マスコミは、大騒ぎとなり、その事実を大きく報道しました。

 彼女は、どんな人だったのでしょうか。彼女は、江田島の人であり、被爆当時、広島女子高等師範学校附属山中高等女学校の学生さんでした。その彼女のことを読んで、私は本当にびっくりしたのです。そんな彼女自身の背景があって。だから、彼女はそんな大変な事を自分の使命としてやってのけたのだと思いました。

明日に続きますね。

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月と金星

えっ、こんな時から?というほど前から、約二か月でしょうか。平和公園に警察官が張り付いていたのは。はじめは一人づつ、あちこちに立ってらっしたのが、その内どこも三人ずつになって、夜通しです。ご苦労な事でした。その内、柵ができて、平和公園に入れなくなって、そして、やっと、警察官のいない平和公園を通れるようになりました。

 そんな今日、帰りが遅くなって。橋の上からふと見ると、月と金星がとてもきれいでした。スマホで撮れるかな?と思ったのですが、以外ときれいに取れたので。

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こっちの方が月がきれいなのですが。でも、どうして赤いのでしょう??

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論文について書きたいのですが、あまりに遅くなったので、また明日にしようと思います。すみません。

 

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朗読劇「蛍火」

 昨日の夕方交通規制でひどい目にあったので、今日の朝、患者さんを待たせることになってはいけないので、結局朝7時に家を出ました。かなりの雨、風も強くて、平和大通りで自転車にさしていた傘が、おちょこになってしまいました。それなりに交通量が多くて、かなり恥ずかしい。警察官も沢山いたし。でも、一切交通規制はないので、スイスイとクリニックに到着しましたよ。スタッフは、みんなそれぞれちゃんと到着して、滞りなく診療ができました。あすもまた早くに出ないといけないでしょうね。今になって気づいたのだけれど、リーガロイヤルホテルからプリンスホテルへの道を、私が通勤する道はどうしても横切らなければなりません。そこの交通規制にかかってしまうと、もう、どれだけかかることか。やっぱり明日も早く行きましょう。

 昨日、午後7時から、朗読劇「蛍火」を観に行きました。舟入高校のOB会が中心となっての演劇です。観音高校OBの板倉さんがこれに出演されるということで、少々気になっていました。ちょうどG7のサミットの前日、このような演劇を見ることができて、良かったです。

 広島の平和記念資料館に展示されている「焼け跡に立つ少女」、その藤井幸子さんの一生を追う形で演劇は始まります。藤井幸子さんの息子さんが、舟入高校の演劇部員であり、この演劇の出演者の一人でもあります。藤井幸子さんは、10歳の時に被爆、腕に重症のやけどを負いましたが、生き延びました。やがて二人の子を産みましたが、42歳で亡くなりました。幸子さんの10歳の時の写真があることが分かったのは、被爆から70年以上たってからでした。

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 私は、朗読劇は正直あまり好きではありませんでした。それなら、自分で本を読んだほうがいいと思っていました。その上、原爆の演劇を観たくもありませんでした。それは、昨年の「劇団民芸」の「泰山木の木の下で」で、あまりにひどい被爆者差別を見たからです。

 でも、今回は、素晴らしかったです。単なる「朗読劇」ではなく、中央にスライドが写され、音楽(フルートやお琴、マリンバ、尺八、朗詠、そしてキーボート)等は生演奏だし、みんなを退屈にさせない工夫がされているし。何より、明るいのがいいです。いろいろと悩むけれど、その中で、明るく生き抜いていく、その姿がいいです。劇団民芸の人たちに見せたいと思いました。よくこれだけの演劇を作り上げたこと。みんながそれぞれお仕事があるでしょうに。さすが舟入高校!!と思いました。

 できれば、これを全国に持って行ってほしいし、アメリカにも・・。大人数ですので、大変かもしれませんが。そう思いました。

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平和公園も原爆ドームも囲まれました。

ここはどこでしょう。びっくりしました。

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答えは、ここ。原爆ドームが囲われています。

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ここは、平和大通りに面した所。

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囲いが透けている所から見えるのは、教師と子どもの碑に供えてある折り鶴の色です。「太き骨は先生ならむそのそばに小さきあたまの骨あつまれり」という正田篠枝さんの短歌が刻まれている碑です。

これは、二中の碑が面している本川を隔てた、平和公園の川向うです。川に沿って、ずっとずっと囲まれています。

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ここには、広島市の花、夾竹桃が並んでいました。これがバッサリ切られて、川向こうの平和公園が丸見えに見えるようになりました。

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そしたら、ここに塀をして、平和公園が見えなくなりました。

一体、何をしているのでしょうか。もう、ほんっとにいい加減にしてほしいです。私たちの日常生活がある程度制限されるのは、仕方がないかもしれないけれど、ここまでする?平和公園も原爆ドームも囲まれて、外から何も見えないようにして、中で何をこそこそするのでしょうか。

中国、北朝鮮、ロシアとの緊張関係を、ヒロシマという地でさらに強化し、戦争への道を歩もうとしているのではないかと、ひたすら怖いと思っています。

 他都道府県から何千人の警察官が来ているのでしょうか。今日は、札幌ナンバーの、青と白の警察官の輸送車を見ました。札幌から広島まで。時間もお金もかかるでしょうに。警察官だらけの広島。今日、これから自転車で家に帰るのに、何十人の警察官に会うでしょう?いえ、見られるでしょうか。

 私は、サミットの間も診療は続けます。おそらく、道路は通行止め、公共交通機関も止められるので患者さんはほとんどんこられないでしょう。それでも、意地でも私は休みません。止められる道路を遠回りしてでも、自転車で職場にたどり着くつもりでいます。

 

 

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再び広島市「平和ノート」について③

教科書ネットの先生たちが、地道に教科書についての分析をしたり、声を上げたりしていらっしゃることは傍から見て知っていましたが。でもここまで熱心に取り組んでいらっしゃるとは。その先生たちの、この度の平和ノートから「はだしのゲン」を削除した問題ついての分析に、目からうろこの思いでいます。確かに、単にはだしのゲンの問題だけでなく、小学校、中学校、高等学校、すべての平和ノートの点検が必要でした。全体を見ると、明らかになっくるのでした。なんの意図なのかと。

教科書ネットの先生たちの長い文章もいただきましたが、ここでは、縮小版をそのままアップさせていただきます。この分析は、まったく正しいと思います。

1.広島の平和教育の大きな財産である『はだしのゲン』をひろしま平和ノートから削除したこと

 『はだしのゲン』は、子どもたちがゲンの言動に自分自身を重ねて、戦争や原爆被害の実相や戦争の不条理さを学ぶことができる優れた平和教材である。特に、作者中沢啓治さんの解説や、作品論などの多数の研究書や資料があり、多面的で多角的な学習課題を工夫して提示できる優れた平和教材であり、先人の実践の蓄積がある特別の平和教材だといえる。そういう意味で、広島市教委が『はだしのゲン』を削除したことは、人々に非常に大きなショックを与えた。オンライン署名change.org20日間足らずで56000人以上の署名が寄せられたことは削除ショックによるやむにやまれぬ切実な行動だったとも思える。なぜ市教委は「大きな話になると思わず」にゲンを削除したのか、その理由を実証的に考えていく必要がある。

2.改訂会議の合意形成なしに『はだしのゲン』が削除された問題性

202328日開催の教育委員会会議での事務局の報告は次のようになっている。

2013年から平和ノートの使用を開始し、2019年に改訂の必要性を検証するために広島市立学校平和教育プログラムと平和ノートの検証会議を開催した。2020年から2年間、検証会議の結果に基づき作業部会で試案を作成し、推進校で試行授業を行い、改訂会議で意見を加えて改訂試案を作った。」

両議事録を読む限りコイや浪曲についての意見はあるが『はだしのゲン』を削除するという合意の記載はないし、差し替え教材の合意の記載もない。しかし、第2回の改訂会議では作業部会からの差し替え教材についての審議が始まっている。

私たちは市教委に作業部会の会議録の開示を求め、作業部会がどのように意思形成を行い、なぜ『はだしのゲン』を差し替えたのかを明らかにしたいと考えている。また、作業部会の権限も明らかにする必要がある。差し替え権限のない組織が、明確な意思形成過程を経ずに『はだしのゲン』を差し替えたのであれば、そこに『はだしのゲン』を削除するなんらかの意思が働いて削除したのではないかという、教育への不当な支配が疑われる問題が生じるからである。

3.削除されたのは『はだしのゲン』だけではなかったことの問題性

 ほかにも削除された重要な教材があった。

 中学3年で教材「第五福竜丸」が削除されていた。「第五福竜丸」の削除は原水禁世界大会誕生の大きな原動力になった反戦反核の市民運動の意義を削除することにもなる。

 高校1年では被爆者である中沢啓治さんのインタビュー記事から被爆体験が削除され、残った部分には中沢さんが原爆をテーマにした漫画を描く理由が短く述べられているだけである。削除された壮絶な被爆体験を読むことで、「…戦争は絶対にしちゃいかん。核兵器を絶対になくしていかなくちゃいけない」という強い思いが伝わるが、削除した記事では反戦反核の強い思いは伝わらない。

 『はだしのゲン』「第五福竜丸」「中沢啓治さんの被爆体験」が削除されたことで、平和ノートから反戦反核を願う市民の思いや運動が削除されたとも言える。

4.代わりに差し替えられた主要な教材の問題性

 差し替えられた主要な教材は、高校1年教材で美甘章子(みかもあきこ)さんが父進示さんの被爆体験を描いた『8時15分~ヒロシマで生きぬいて許す心』と広島市作成「美甘章子さんインタビュー映像」、中学3年教材での美甘章子さんの言葉と活動の紹介である。

 美甘章子さんは現在アメリカで心理療法をする広島の被爆二世である。2020年に『8時15分』が映画化され、202286日には広島大学のイベントで映画の上映会と舞台挨拶をしている。中学3年の教材には次の言葉がQAとして使われている。


Q父の美甘進示さんからの教え

A「戦争ではどの国もひどいことをしていたし、日本も例外ではない。アメリカが悪いのではなく戦争が悪いのであって、立場の違う人たちのことを理解しようとしない、もしくは自分の利益追求に走ってしまう人間の弱さが戦争につながる。どちらが悪いという考え方は全く意味がない」とたびたび説かれ、橋渡しをする人間になるようにと育てられました。

 原爆を落とした「アメリカやアメリカ人を恨まず許そう」という美甘さん個人の意見を補助説明なく平和学習の結論のように生徒に提示することは適切とは思えない。「悪いのはアメリカ人ではなく、戦争だ」という父の言葉をそのまま受け入れ、戦争の原因や仕組みを考えない美甘さんの抽象的な意見も適切な教材とは思えない。なぜなら平和教育は、事実を知ることを通して、戦争の原因や仕組み、非暴力による解決方法などを考え、戦争による「解決」を否定し、核兵器を非人道的な兵器としてその廃絶をめざす学習を進める教育であり、戦争の責任の問題を考えていく力を育てる教育であると私たちは考えるからである。平和教育のこのような性格は、日本国憲法の精神(平和主義など)に基づくものでもある。

この本『8時15分』は高校1年で教材に使用されている。そのあとがきに美甘章子さんは「共感と許す心こそが自分の感情の奴隷となることなく、より自由な物事の捉え方をすることができる」「どれだけ辛い目に遭ったか、どんなに不公平な出来事だったか、どんなにひどい扱いを受けたかについてじっと念じ続けてとらわれている状態から自らを解放できると、その分、自己成長と癒しのためのエネルギーと心の余裕が作り出せる」と主張している。心理学者としての主張が誤っているわけではないとしても、被爆者や被爆者と共に生きる人たちに対して共感と許す心を持つことが、平和を築くために必要な事実を学ぶ意欲を育てるとは思えない。

 さらに、「あの戦争で敵同士であった二つの国が、今は最強のパートナーとしての協力体制により、平和と協調が確立されたことを世界の人々に語りかけ」たいとも述べている。このあとがきは教材にはなっていないが、広島市教委は、日本はアメリカを「許し」「共感」して日米で平和をつくろうという美甘さんの主張を平和ノートのまとめのように位置づけている。この主張は必然的に核の傘の下の日米安全保障体制の肯定につながるので、広島の平和教育の目標である核廃絶とは異質なものだと思える。市教委が美甘さんの主張を是認するのであれば、広島の平和教育の方向が大きく変質したといわざるを得ない。

以上です。

今日のテーマにふさわしくないのですが。一昨日の日曜日の午後は、カープ。誕生日を迎えたわが友、「8.6ヒロシマ平和の夕べ」の大切なスタッフと一緒に行きました。負けたので試合については言わない。この私がかぶっている帽子。ひっくり返すとこのようにお好み焼きになります。エコバッグと同じ仕組みです。「この帽子はお好み焼きなの」というと、はあ?先生、何を言ってるの?とわけがわからない風でしたが、変身させると、とても感激して下さいましたよ。お好み焼きにした表と裏も、アップしますね。

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再び広島市「平和ノート」について②

昨日の日曜日、高齢の被爆者、森下弘先生に会いに行きました。先生には、今年の「8.6ヒロシマ平和の夕べ」でのお話しをお願いし、了承して頂いています。これまでの私たちの活動の歴史や資料等をお送りしていましたが、改めてお会いしてお願いしたかったのと、確認したい事があったこと、チラシに使うお写真を撮りたかったのと、そんな理由があったからです。

先生は、おうかがいしたことには、「ちょっと待って」と立ち上がって、すぐにその件の資料をもって来られます。

 私たちがこの度の平和の夕べでお話しを伺いたいのは、被爆体験だけでなく、重症の火傷や放射線障害に痛めつけられながら、その後、どのように立ち上がり、そして子どもたちへの平和教育に取り組んでこられたのか、そのお話しなのです。これまでも、平和の夕べの中で伺って来たのは、被爆者の方たちの揺るぎない闘いについてです。

 今のように、平和教育がつぶされようとしているこの時こそ、平和教育の原点に立ち返って、初期の頃の先生たちのお話しをお聞きしたいのです。被爆教師の会の先生方が、自らの体がつらい中、「核兵器廃絶」を求めて、血がにじむような活動を続けてこられたことを存じています。でも、今はそのほとんどの先生方が亡くなってしまいました。石田明先生、空辰男先生・・。森下先生に早くお話しをうかがいたいと願っていました。今、先生が持っていらっしゃる沢山の貴重を資料をどうするのか、それも課題になっています。先生は、もうご高齢ですが、でも、会場に来てお話しくださると、言って下さいました。

 私たちのスタッフの一人、Tさんのお兄さんは、森下先生と同じ一中で、一緒に鶴見橋のたもとで被爆したはずとのことを聴いていましたので、そのことをうかがうと、さっと「広島一中の被爆のアンケート」を持って来て下さいました。その中に、まぎれもなくTさんのお兄さんのアンケートがありました。それには、とても詳しく、被爆の前後のことが書かれていました。

 それから、先生たちが苦労して作られた、高校生用の平和教育の副読本も見せて下さいました。

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これに収録されている一つの詩を転載しますね。第二節 長崎の証言から。

  写真の中の友 峡 草夫

三人写っている中で
真ん中に威張っているのが 生きている俺
右と左にかわいらしくくるくる頭で立っているのが
死んだ二人の友
まだ二十前の俺を挟んで
懸命にすましこんでいる
俺より四つ年下の二人の友
一九四五年春の写真。
その一九四五年に二人は死んだ 
一人は八月九日に
一人は十日後に。
八月九日に死んだ一人を
十日後に死んだ一人が
泣きながらかついできた
八月九日。

親もとにいて徴傭されるよりましだろうと
まだのびきっていない柔らかな手を
懸命に力ませながら
機関車の掃除をしていた二人。
三百キロはなれた親もとに
毎日手紙を書いていた
まだ数え年十六歳だった彼ら。
弾丸と兵隊ばかりを牽いて
地ひびきを立てて走っていた機関車
徴傭がこわいばっかりに その機関車を磨いていた
かわいらしいくるくる坊主の頭の二人。

八月九日死んだ一人を
十日後に死んだ一人と俺が
呆けたようにうろうろと
運んで焼いた屍の街
そして
十日後に死んだ一人を 俺一人が
よろよろと運んで焼いた
灰色の街。
一九四五年の写真。

一九四五年に死んだ 俺より四つ年下の写真。
彼等を俺が焼いた 屍の街の灰色の記憶
俺が焼いた 彼等の骨の色のような
灰色の記憶。

しかし さようなら  俺より四つ年下の
写真の中の二人
俺はお前たちに
俺の「決心」をおくろう
それは
お前たちを殺した灰色の
お前たちの骨の色のような
その記憶をくり返さぬためにする
俺の唯一の決心。
さようなら
二人の俺の友だち。

(本名、森年房。国鉄出身で全日自労長崎分会の教宣
部長であったが、一九六二年八月七日、がんで亡くなった)

平和ノートから、どんどん被爆の実相が削られて、そして、何より「核廃絶」ではなく、「核軍縮」へとその教育の方向を変えようとしてる、それがまざまざと見えてくるのです。

この項、まだ続きます。


 


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再び広島市「平和ノート」について①

アッと言う間に一週間がたちました。一週間前の日曜日に「教科書問題を考える市民ネットワーク・ひろしま」いわゆる教科書ネットの総会で記念講演をさせていただきました。その時に、教科書ネットの方たちがこれまで地道に活動なさっているその一端を拝見し、感動しました。そのご報告をしなければと思いながら、時間がたちました。

 平和ノートの「はだしのゲン削除」の問題が、単なる日本会議や宗教右派の「はだしのゲン嫌い」の人たちの圧力で行われた以上の問題を含んでいるということが、その後送って頂いた資料等をじっくり見て、良くわかりました。平和ノートは、なかなか手に入らず、見るのが困難なのですが、当日は、会場に展示して下さいました。

これまでの小学校1年から3年までのだけでなく。中学校や高等学校のも。

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見ている時に、そばでお話しされていて、アッと気づきました。

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基町高校の生徒さんが被爆者の証言を基に絵を描いた、その一人の生徒さんを取り上げています。被爆者の絵、その被爆者について、「李さん」としか書いてありません。その方がどんな被爆をされて、どんな思いで戦後を生きてこられたのか、全く出てきませんし、それどころか、お名前も出ていないのです。「李さん」だけです。「この李さんは誰だろう、じょんぐんさんだろうか」と話をしていらっしゃいました。私は、その輪に加わって、「ジョングンさんです。」と言いました。イ・ジョングンさん・李鐘根さんから、私は直接お話しを聴いています。高校生に、あの原爆が光った、あの光を描いてくれと言って。それは大変で、何度も何度も描き直してもらって。光を絵に描くというのは、本当に大変でしたと。その話を直接聞いているので、「ジョングンさんです。」と自信をもって言いました。ジョングンさんは、被爆前からその後も、被ばくによる大変な思いをされただけでなく、二重の差別を生き抜いた方です。基町高校の生徒さんには、ジョングンさんの首に沸いた蛆虫をお母さんが、アイゴーアイゴーと泣きながら、箸で一匹づつ獲ってもらった、その絵も描いてもらっています。そのお母さんは、大変に苦しむ彼を看病しながら、こんな苦しい思いをするのなら、早く死んだほうがいい、死ねとさえ言われたと。死ねば楽になるからと。

 そんなお話しを聴いているので、この平和ノートに「李さん」とだけ、「被爆体験証言者」としかしか出てこない、被爆の状況も全く出てこないのが、とっても失礼なことで、一体どうなったのかと思いました。李鐘根さんが、名前を出してくれるなと言われるわけがありません。「8.6ヒロシマ平和の夕べ」だけでなく、広島市の証言活動もしていらっしゃいますし、呼ばれればどこに出も出かけて証言されていましたから。それどころか、この「李さん」とか」「被爆証言者」としか書かれていないのを見られると、さぞ悲しまれたことと思います。もう亡くなっていますので、お尋ねすることはできませんが。

 この項、もっと続きます。

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