「8.6ヒロシマ平和の夕べ」のフライヤーができました。

お待たせしました。

「8.6ヒロシマ平和の夕べ」の2024年版のフライヤーができました。いつもより遅いです。例年だと、5月3日の憲法記念日のイベントの際には、会場前で配るのですが。ま、いろいろと都合があって、今になりました。例年皆さまのお宅に郵送するのは、もう少しかかります。すみません。でも、今年もとてもいいメニューができたと思います。見て下さいませ。

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 年々亡くなる方が続き、証言をお願いするのも困難になった被爆証言。今年は、関西から千葉孝子さんが来て下さいます。兵庫の被団協の代表をなさっていたお母さまの後を継ぎ、核廃絶の闘いを続けていらっしゃいます。灼熱の広島にお出で頂いて証言してくださいます。ありがとうございます。

 今年の平和講演は、長年お出で頂くことが悲願でありました前長崎市長の田上富久さんですよ!!これまで三年に渡り、熱いお手紙を書き続けてまいりました。やっと願いが叶います。毎年、柔らかな口調で、でも情熱のこもった長崎平和宣言には、胸を打たれてきました。広島の秋葉市長の引退の後、平和首長会議の中核を担って活躍されました。今も戦争が続き、核兵器が脅しとして使われるという状況をどう打開していけばよいのか、提言して頂けるのではないかと期待しています。

 東電の原発による被曝のために特に福島の子どもたちにどのようなことが起こっているのか、これまでも水戸喜世子さんなどからお伺いしてまいりましたが、今年は311子ども甲状腺がん裁判の弁護団副団長の杉浦ひとみさんにお出でいただきます。様々な人権にかかわる活動でお忙しい中、お出で頂く事、ありがとうございます。

 また、若い人たちへの運動の継承が課題である現在、今年も学生さんが来て話して下さいます。Hiroshima Young Peace Builders を立ち上げ、さまざまな活動をしている佐藤優さんです。毎年若い人たちの活動には胸を打たれていますが、今年も叶いました。感謝しています。

 この様な方たちのお話し、どうぞ皆様参加して下さいませ。会場は、昨年と同じ川沿いのビルの7階。風遠しの良い所です。まだしぶとく生き続けているコロナ対策も万全を期して開催いたします。よろしくお願いします。
 

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2013年3月7日のブログです。

3.11が近づいて来て、マスコミにも徐々にいろいろと載ってきました。そんな今日、「8.6ヒロシマ平和の夕べ」のスタッフの一人、山下氏のフェイスブックの11年前の記事が、11年前のあなたの記事として載っていました。その中に、私のブログのことが書かれていました。うん?山下氏のフェイスブックに出るのなら、私のフェイスブックになぜ載らないのかなあと不思議でした。で、よく考えると、私はまだその頃はブログはせっせと書いていましたが、フェイスブックはしていませんでした。出ないはずです。

2013年3月7日のブログ、こに再現しますね。

3.8の「お好みワイド」と3.11の「あさイチ」を見て下さい。

 もうすぐ、3.11がやって来ます。あの本当に信じられないような惨事からもう二年。現場からはまだまだ復興には程遠い状況が伝えられてきます。

 安全な場所にいて、何らの影響も受けなかった私たちに何ができるのでしょうか。日々の生活を送りながら、何かを!というのは、とても難しいことではあります。自分のできる範囲で、自分のできることを。いつも東北の人々のことを忘れないこと。そう心がけて来たつもりです。

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福島の親子や若い女性たちがこの間何度も広島にやって来ました。室元さんや平木さんたちが中心となって広島での受け入れに尽力してきました。私はほんの少しのお手伝いをしただけですが。

 写真は一緒に宮島に行った時の物です。たくましいお母ちゃんたちの姿と、外で思いっきり遊ぶ子ども達の姿です。

 その時に一緒に来た若い女性、日塔さんとのふれあい、その後、8月6日を中心に、日塔さんが広島に多くの若い女性たちを連れて来て、私とのお話し合いをしたことなどをここ ここ などに書いています。

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それらの動きを最初っから追いかけているNHKの女性の記者がいます。福島と広島を行ったり来たりして、とても丁寧に取材をする態度に好感を持っています。

 この度 、明日3月8日の夕方の「お好みワイド」6時10分から7時までの間に「福島と広島~女性の絆」として放映されます。

 もう一つ。3.11当日の「あさイチ」、8時15分から9時54分までの全国放送ですが、3.11特集の中の一部として放送されます。

 これらの放送に、もしかすると私も一部顔を出すかもしれません。でも、メインは、あくまでも頑張っている福島の女性たちです。

 お時間があれば、ぜひ見て下さいませ。放射線濃度が高い中、さまざまな困難がある中、自分たちの足でしっかり歩き始めている彼女たちの生き様を見て下さい。そして、ぜひ彼女たちを応援して下さい。

 彼女たちへの支援についてここに 書きました。これを書いた時点では、彼女たちの行動が実行される100万円にはほど遠かったのですが、もう100万円を突破しています。これで、会津木綿のストールやピアスの作成、販売が可能になります。感謝です。

 では、また番組を見られたら(私もどんな番組になるのか全く分からないのですが)感想などを寄せて下さればうれしいです。それをそのまま彼女たちに伝えられます。彼女たちがさらに元気になれるように・・・。

この日ではなく、他の日のブログに載せた福島の親子さんの写真も少し載せますね。皆さん、もうしつかり大人になっているでしょうね。

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この後、ここに大きな鹿が来て、食べ物を食べられてしまって、大変でした。
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今日の報道特集で、いまだに福島の自宅が帰還困難区域の方が、涙ながらに話していらっしゃいました。もう13年経つのに・・。一方、大変な嫌がらせを受けながらも、それでもがんとして反原発をやりぬいて、原発を作らせなかった石川の珠洲の住民の方たちも。

 

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和泉さんと原爆資料館へ。

 今日は、沖縄からの和泉かおりさんと一緒に原爆資料館に行きました。目の不自由な和泉さんを一人で案内するのは不安だったので、山口さんにお願いしました。山口さんは、目の不自由な患者さんにクリニックに付き添って来たり、点字の翻訳をしたりのボランティアをずっと前から続けている方です。本当に助かりました。山口さんに来て頂いて、大正解。山口さんがずっと和泉さんに腕を貸して歩き、私が音声ガイドを操作をしたり解説を読み上げたりすると役割分担でしたが、それだけでなく、私が見逃がしていた所をずいぶんしっかり指摘して下さったり。本当に助かりました。

 朝10時にホテルで待ち合わせをしていましたが、5分前に行った時には、もうお二人が並んで座って待っていらっしゃいました。そこから歩いて平和公園、資料館へ。資料館はまだ行列は少しで、すんなりと入ることができました。障がいの手帳をもっている方と付き添い一人が無料。私は普通に200円払ってチケットを買いました。ところが、後でわかったのですが、65歳以上は半額、100円でいいと、小さく書いてありました。あらら、昨日も今日も気づきませんでした。もっと大きく書いて下さいませ。

 所々にある点字の解説、山口さんが和泉さんの手をもって触れさせてあげると、和泉さんはすごいスビートで読まれます。

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館内は沢山の人です。和泉さんと山口さん。山口さんは、顔を出したくないとのことでしたが、これなら、帽子とマスクで分からないからいいと。

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手で触れるものは他にもありました。広島に落とされたリトル・ボーイと長崎に落とされたファットマンの縮小したもの。それから、被爆前の
産業奨励館と被爆後の原爆ドーム。瓶と被爆後の瓶。

これは、触った後、スマホで写真を撮っている所。和泉さんは、本当に素晴らしくスマホを使いこなしています。まるで見えているかのようです。動画も写真も記事もどんどんアップされているので、本当にすごいです。

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3時間かかって資料館を出ると、入場の列はずっと向こう、資料館の向こう側まで、そうですね、200メートルはならんでいて、朝に入ってよかったと思いました。喫茶で人心地ついて、それからお昼ご飯、何が食べたいかを聞いた所、お好み焼きと。そう、それもちゃんとリサーチしています。私の好きな長田屋は、4日までお休みと。はい、残念だけど、休むのはいいこと。行ったことはなかったのですが、長田屋の近くの星乃珈琲の地下に、お好み焼き屋さんが数店舗集まってオープンしています。そこは、今日はやっているとのこと。でも、きっと行列だから。持ち帰りを作ってもらって、私のクリニックで食べましょうと。人はいっぱいでしたが、早くに作ってもらえました。

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お話しをしながら食べました。資料館はよくできているけれど、ウーン、日本の戦前からのアジアの国々への加害の問題が弱い。それから、原爆投下迄の日本への上陸作戦にいたる前の戦況について、沖縄が全く出てこないのはどうして?おかしい。これらが三人一致しました。和泉さんの感性も本当に素晴らしいと思いました。

 それから、和泉さんのお土産を買いに、うろうろ。長崎屋は閉まっていました。夢プラザも駄目でした。で、結局折り鶴タワーへ。全部買うことができて、これで安心です。その後、またホテル迄。みんなよく歩きました。私は、何年ぶりだろうというくらい歩きました。

 明日の朝は、和泉さんを広島空港のリムジンまで送って行くことにしました。私は、明日はその後鳥取まで行きます。ということで、5時前に家に帰りました。テレビを付けていて、マッサージ器にかかっていたら、なんと、羽田空港が何とか・・と言っています。ええっ?何と滑走路で大惨事。日航のエアバスと海保の飛行機がぶつかって炎上と。日航のお客さんは無事脱出ということでホッとしましたが、海保の方が5人も亡くなっていると。お正月早々、本当に毎日ひどいですね。明日は何事もありませんように。ニュースから、自民党のキツクバックなどすっかり消えています。

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原爆資料館

お正月初日。原爆資料館に行きました。明日、沖縄からの和泉かおりさんを資料館に案内します。和泉さんは、目が不自由です。どうしたらちゃんとご案内できるか、その下調べです。ピースボランティアは、今は平和公園の案内だけで、資料館の中は案内しないそうです。入口では、音声ガイドを貸しています。様々な言語なのですが、日本語の機器がたまに足りなくなることがあるとのことでした。予約が可能ということでしたので、予約しておきました。今日は、私が借りて、操作の方法、どこでどんな案内をしているのか、すべて聞きました。やはり案内は、掲示してあるのを読むだけでなく、音声で聞くほうがはるかによくわかります。案内の女性は吉永小百合さんです。耳には和泉さんに入れてもらって、私が機器の操作をします。

館内は沢山の人です。

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あっ、吉川さん。ケロイドが痛くて痛くてと解説にありました。何度も何度も手術はしたと。

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あ、藤井幸子さんの解説。入口で来る人たちを迎える少女、この少女の事を昨年、サミットの時に舟入高校の演劇部OB会の方たちが「蛍火」という演劇を上演されました。それを観に行って痛く観劇したものです。今、この演劇はYOU TUBEで観ることができますし、英語の翻訳付きのもあります。


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資料館の途中から見る平和公園です。

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遺品間などの実物や写真や絵画などで、よくできています。何か所か涙が抑えられませんでした。佐々木禎子さんが折った小さな折り鶴もなど。が、やっぱり以前あった、被爆直後のジオラマはあってほしいと思いました。

事前に行って私一人で観てよかったと思います。明日は、ちゃんとお話しできると思います。でも、案内としゃべることと両方はちょっ不安だったので、目の不自由な方のボランティアをずっと続けている友人の山口さんにご一緒して頂くことにしました。これで、安心です。


 夜には、白神さんに初詣に行き、そのままドリミネーションを見て回りました。

 資料館にいる時に、娘から電話があり、石川県中心に大きな地震があったと知りました。帰ってからテレビを見て、大変な事だとわかりました。早く被災された方たちの救済がなされますように、そして、原発、心配です。

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映画「ヒロシマ・モナムール 24時間の情事」

やっと広島の家に帰りつきました。必死で早く帰りたくて。2時間半走って美東で休んでコーヒーを飲んだら、すっごく効いて、頭もスキッと体も楽になって。恐るべきコーヒーパワーで、その一回休んだけでした。パソコンができなくなっていないか心配で。家に帰って、家のWi-Fiでちゃんとつながりました。ああ、よかったです。映画ヒロシマ・モナムールについて、早く書きたかったのです。これで書けます。

 1959年作、アラン・レネ監督の日仏合作映画です。10月3日から3回に渡って私のブログに書いた、私も出演した映画「ヒロシマ1966」を調べていて、監督の白井更生さんが、この「ヒロシマ・モナムール・日本の初期の題名は24時間の情事」のチーフ助監督であったと知りました。何しろ、出演した当時は私はまだ18歳の本当に子どもでした。被爆者運動や学生運動に関わっていったのは、それからあとの事ですから。で、24時間の情事について調べていたら、映画「ひろしま」のいろいろな場面が使われていることも知りました。

その時に「ヒロシマ・モナムール」のDVDを買って、観るつもりだったのですが、ずるずると今になってしまいました。ちよっと億劫だったのもあります。こういう原爆の映画を観る時には、やはり覚悟がいります。

そして、この度東京の講演から帰る時に新幹線の中でこれを観ました。観始めて、すぐに「あれっ」で、周りを見渡しました。映画はいきなり濃厚なラブシーンから始まったのです。もしも周りに人がいたら、あのおばさん、何をみてるんだと思われるかもと。幸い、隣には人はいませんでしたし、通路を挟んだ向こうに座っている人からはパソコンの画面は見えないでしょうから。で、安心して観続けました。フランスから来た女優と広島の男性とのラブシーン。すべてフランス語の会話だけで成り立っている、字幕の映画です。まあね、日本の題名は「24時間の情事」なのですから、さもありなんなのですが。あの、「ドライブ・マイ・カー」の時もそうでした。広島や瀬戸内海の美しい景色がふんだんに出てくる映画と思ったらいきなりのラブ・シーンで、これは、気合を入れてみなければと思ったものです。それと似たような感覚でした。

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しかし、これは単なる情事でなく、二人がそれぞれ深い戦争の傷を背負っていることが分かってきます。彼女は、フランスで敵兵であるドイツの兵と愛し合います。しかしそれは許されないことで、地下室に閉じ込められたり頭を丸刈りにされたり。それでも、二人で駆け落ちをしようとしたところで、彼は何者かによって撃ち殺されます。彼を失った彼女の苦しみ、それは壮絶でした。再び閉じ込められた地下室で壁をがりがりと搔きむしり、指先から噴き出す血を嘗め回したり。これは、彼の血だと。そんな苦しむ彼女を母親がパリに逃がします。その時に広島の報道がされます。彼女はそこで徐々に立ち直って行きます。


 彼女と愛し合う日本の男性と、その殺されたドイツ兵とが彼女の中で重なります。そして、彼女は彼の記憶が消えて行くことを恐れます。


一方、彼の原爆の記憶も壮絶です。その原爆のシーンが、映画「ひろしま」からの映像です。

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あ、吉川清さん。背中のケロイド。そうか、吉川さんはこの映画に出演されていて、白井更生さんとここでもうつながっていたのですね。

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壮絶な被爆の実相だけでなく、立ち上がるこんな市民の姿も。

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当時、日本での上映の実績は全く芳しくなかったそうです。そうでしょうね。まだ被爆からそれほど時間が経っていない時に、「情事」というタイトル、ちょっと見に行けなかったでしょう。

でも、これは世界中の人に観てもらいたい映画です。今からでもおそくはありません。いえ、こんな今だからこそ。

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そして、私は、今、白井更生さんに会いたいと、もう亡くなっていてかなわないことなのに、熱望してしまいます。

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劇団民芸に手紙を書きました。続き

 今日は、電話当番でした。朝から午後2時までの予定で、その後は、県民文化センターでの観音高校音楽部OBによる「レクイエム碑」を聴きに行く予定でした。「ひろしま二中一年生の全滅の記録」の混声合唱です。でも、終わり近くにかかって来た電話がとても長引いてしまって、遅くなってしまいました。結局碑にはいくことができませんでした。とても残念です。

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その電話の事もあって、今日はひどく疲れています。好きな「ぽつんと一軒家」を観ながら、座ったまま居眠りをしていました。居眠りは私は珍しいです。

 では、昨日の劇団民芸への手紙の続きです。私の昨年12月のこの演劇についてのブログの二日目です。これには、はじめに私の講演の事を書いていますので、その部分は省きますね。それでは、ブログを再現します。

 (略)
ということで、さて。昨日の続きです。多くの皆さんが一緒に怒ってくださって、少しほっとしました。

「被爆者から奇形児が生まれる」という偏見について。特に、劇にあるような「無能児」について。これは、母親の胎内で、期間形成期、それも大脳が作られる16週までに強い放射線を浴びた場合に起こる可能性があります。しかし、木下刑事のように被爆者が後に妊娠した場合は、胎児が被爆したわけではないので、その頻度が上がることはないのです。胎内被爆児の中には、頭が小さくて知的障害のあるいわゆる「原爆小頭症」の子たちが生まれたことは知られています。しかし、それも、母親が妊娠中に原爆による被爆をした場合であって、被爆者がのちに妊娠して同じような障害のある子が生まれる頻度が上がるという証明はありません。それを混同して、まさに小山氏が書いたようなことをするから、それが被爆者差別につながっているのではないでしょうか。ちなみに、無能児は、被爆のためだけに起こる障害ではありません。その頻度は、日本では1500の妊娠に一人の割合で起こるとされています。

劇中の歌は、これです。「泰山木の木の下で・主題歌  わたしたちの明日は」と書かれいます。

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 明日には何があるのでしょう。これだと、何もない。絶望しかないということでしょうか。

宇野重吉さんが書かれたものを読むと、この歌は、宇野重吉さんがまず忘年会で歌うと。そして、小山祐士さんも加わって二人で歌うと。転写します。

『「小さな汽船のなかで—」という劇中の歌は斎藤一郎さんの作曲だが、この曲も小山さんの気に入ったらしい。毎年忘年会のたびに私たちはこの歌を歌う。先ず私がおだてられて真ん中へ出て歌い出す。みんなが唱和する。その中に小山さんの白髪が見える。私は寄って行って小山さんを引っぱり出す。「小さな町でも、大きな町でもー」のあたりからは、したがって私と小山さんとのデュエットになる。これを歌わないと忘年会の感じにならないのである。』

 その昔、私が大学生の時。被爆者や被爆二世の会の一員で、みんなといろいろと考えたり、議論しました。まだまだ結婚や出産に社会の差別も厳しかった頃。その中で、「私たちは産もう」という結論を出して、すっきりしたことがあります。

 それについては、ここに書いています。福島の若い女性たちが、かつての私たちと同じような悩みで苦しんでいることを聞いて、ああ、広島と同じような差別が繰り返されていると、胸が痛みました。そして、私たちのかつてのことをお話ししたのです。

http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-01e8.html

そして、その後もっとたくさんの若い人が福島から来て、8月6日を中心に広島で過ごしました。その中で、みんなに向けて私が話をしました。そして、そのことを密着取材したNHKの番組になりました。

http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-99aa.html

私は福島で起こったことは、隠すのではなく、きちんと情報を開示して、何より当事者が自分のことを自分で決めていけるようにすべきと思っています。差別があるなら、それこそ冷静にその差別に向かっていかなければ、と。

作者の小山氏は泣き虫で、これも宇野さんも演劇評論家の尾崎宏次さんも書かれていますが、芝居の練習の時も、演劇が上演される時も、ずっと泣いていたと。誰のための涙か知らないけれど。自分がかってに作り出した「売春をして生きるしかなかった顔にケロイドのある女性」が可哀そうだったから?「奇形児」が生まれた警察官が気の毒だったから?被爆者を憐れんでいるのですか?

それにしても、その女性から「奥さんのところに帰るように」説得されて、彼はその気になるのですが、それでもその説得の後、わざわざ敷いてある布団に抱き合って倒れこんでという場面、売春婦と悩める男のそのような恋愛や情事があってはいけないとは言わないけれど、それを広島の地でする?観客の中には被爆者も、なかでも、人知れず背中のケロイドを隠して生きている人もいたかもしれません。

 この演劇が作られた当時はまだ分からなかったから、そんな劇を作ったのかもしれない、でも、今はもういろいろと分かっているし、まだ差別がなくなっていない今、それを強調して、差別されている人たちの傷口をひろげるようなことは、もうしないでほしいと思うのですよ。すなわち、この演劇はもう封印してほしい、そう強く願います。

昨年12月のブログは以上です。

このブログは、フェイスブックにも同じものを載せています。昨日のフェイスブックに早志百合子先生がコメントを寄せて下さいました。フェイスブックをされない方は、読むことができませんので、ここにそりコメントを転載させて頂きます。なお、早志先生については、やはり昨年の12月にブログを書いています。

http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2022/12/post-31873d.html

早志さんのコメントです。

早志 百合子



私も劇団民藝のファンですし、長く市民劇場に入って2ヶ月に一度、色んな劇団の演劇を観ていました。
でも この演劇は観ていません。
が、先生のお手紙から私も悲しさ、怒りが込み上げてきました‼️
このシナリオを書かれるにあたって、何人の被爆者に会われ、その生き方を聞かれたのでしょうか?
私も長女を出産する時いわれなき差別に苦しみました。私はそれらと闘い難産の末出産し、その子は立派な人間として今は私にとって居なくてはならない存在になっています(先生もご存知のように)
しかし、その娘が初めての妊娠の時、産婦人科の医師に言われた言葉は今も鮮明に覚えています😡
まだまだ、そんな無知から来る誤解が存在することに憤りを超えて
虚しさを感じています😰
先生の実行力に感謝致します🙇‍♀️

早志先生、本当にありがとうございます。

 

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劇団民芸に手紙を書きました。

劇団民芸に手紙を書きました。

 昨年12月に民芸の「泰山木の木の下で」を見て、怒りに震えて、そのことを二日にわたってブログに書きました。でも、そのブログをそのままにしていたことを深く後悔しました。私は、その古い演劇を市民劇場で全国に持って回って、広島がほぼ最後でしたので、これで終わりだろう思ってしまったのでした。でも、民芸は、これを今もなお地方に持って回っている事を知りました。これは被爆者差別の演劇です。もうこれ以上差別を広げないでほしい、この演劇はもう古いものとして封印してほしいと思います。

 この手紙は郵送と共に公開します。もしも、返事が来れば、それも公開します。ごまめの歯ぎしりかもしれませんが、このようなことをこのまま放置することはできません。以下、郵送した手紙です。

劇団民芸の皆様へ

 突然のお手紙失礼いたします。私は、広島で産婦人科医をしています河野美代子と申します。かつて、演劇少女だったこともあって、ずっと観劇しておりますし、劇団民芸のファンでもあります。中でも、市民劇場では、二か月に一回の観劇を欠かしていません。

 昨年12月、劇団民芸の「泰山木の木の下で」も観ました。そして、そのことを私がここ16年以上続けているブログに書きました。そして、そのブログをそのままにしていたことをこの度深く後悔しました。私は、このブログを民芸の方たちに見て頂くべきでした。というのも、こんな古い劇は、もう昨年の一連の市民劇場で終わったもの、もうされないことだろうと勝手に思ってしまったからです。でも、それを持って今も地方回りをしていらっしゃることを初めて知りました。まさか。

 この演劇は、被爆者差別です。全国に被爆者差別を振りまいています。私は、観劇して、たとえようのない怒りでいっぱいでした。その後、小山祐士氏の台本も読み、さまざまなこの演劇について書かれている文章も読みました。その上で、差別であると確信をもっています。その理由を、ブログに書いていますので、ぜひお読みください。ここにプリントして同封します。

 私は、被爆二世の医師としてどのような医師となるか、さんざん考えたあげく、大学病院時代、染色体研究室に入り、沢山の被爆者や被爆二世の染色体分析をしました。以後も一貫して、被爆者医療や反戦、反核の市民運動を続けています。私のブログを載せたフェイスブックにコメントをしてくださった方は、被爆者で今も証言活動をしていらっしゃる方です。また市民運動を通じて、顔にケロイドを負い、なんども手術をしながら、多くのことに迷いながら、それでも強く立ち上がって生き抜いている被爆者の方たちにもたくさん出会っています。

 そのような立場から、この演劇はもう過去のものとして封印してほしいと思っています。
 どうぞ、御健闘下さいますように。劇団民芸のどなたにこの手紙が渡るのかわかりませんが、ぜひお返事を頂きたいと思います。この手紙は、郵送すると共に、私のブログに公開するつもりでいます。お返事も公開したいと考えています。
 どうぞよろしくお願いします。

  20231021日           
                〒730-0031 広島市中区紙屋町二丁目2-25
                               
医療法人河野産婦人科クリニック
                             河野美代子

今日、ここに書いているブログの二日の内、一日目のを、明日二日目のをここに転送します。ダブって読まれる方には申し訳ございません。

劇団民芸「泰山木の木の下で」に怒っています。①

11月27日、日曜日の午後、「広島文学資料保存の会」主催の朗読劇「神戸ハナという女の一生」を観たと、その日のブログに書きました。

http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2022/11/post-e0818b.html

そのブログの最後に、「ちょうど時を同じくして、この「神戸ハナという女の一生」を発展させた「泰山木の木の下で」の劇団民芸公演が市民劇場で上演されます。私は、3日の土曜日に観に行きます。」と書いています。小山祐士作のこの演劇。私の好きな劇団民芸。主演の日色ともゑさんは、若い時の「アンネの日記」でその演技を見ています。「神戸ハナという女の一生」がとてもよかったので、私は期待して観に行きました。

しかし、その演劇を見終わったとき、いえ、その上演途中から、私には何とも言えない不快感、もやもやが残りました。最後には、怒りともいえる気持ちにもなりました。以来、「泰山木の木の下で」について書かれたものを読みあさりました。もちろん、当日のパンフレットも買って読みました。

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「神戸ハナという女の一生」の時に第二部で講演して下さった岩崎文人広島大学名誉教授が「小山祐士戯曲集をぜひ読んでみて」と言われたのを覚えていましたので、その全集も買いました。アマゾンでの中古ですが、それでも高価でした。それは、泰山木の木の下でについて、私が間違えた思い込みをもってはいけないという思いもありました。全集の第四巻に「泰山木の木の下で」が収録されています。その台本を読みました。

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「神戸ハナという女の一生」は、元はラジオドラマとして書かれたものです。それをこの度、朗読劇として上演されました。それと泰山木との違い。それは、なんといっても、木下刑事の描き方の違いです。泰山木では、その刑事は、被爆者で、両親が爆死し、彼は施設で育ち、しかも子どもが「奇形児」であると。その奇形児を彼は育てることから逃れ、江田島で妻一人が育てています。私は、まず「奇形児」に引っ掛かりました。奇形児は、せめて障害児に言い換えはできないものかと思いました。劇の中で、何度も何度も「奇形児」と言われ続けました。さらに彼は、妻にその子を押し付けておいて、売春婦の元に通います。その売春婦は、顔にケロイドを負っています。その設定も、私はすごくいやでした。

 もやもやした私は、板倉勝久さんに電話をして尋ねました。板倉さんは、高校の演劇部の先輩で、RCCドラマグルーブでもご一緒していました。そして、この度の朗読劇では木下刑事の役を演じられました。

板倉さんは、泰山木は見なかったと言われました。私が尋ねたのは、朗読劇には、木下刑事が被爆者でかつ「奇形児」の父親であることは書かれていたのかということです。それを、あえて削られたのか、又ははじめっから書かれていなかったのかと。そしたら、はじめから書かれていなかったそうです。それに、演出かつハナの役をされた土屋時子さんが「木下も被爆者としたらいいのではないか」と考えられたと、でも、それは岩崎先生が強く反対されて、結局それは採用されなかったと。それで、小山祐士さんが、ラジオドラマをたたき台にして戯曲を書く時に木下刑事の役をそう設定されてのだとわかりました。

さらに、私が観劇中にはきっと聞き逃していたのでしょう。台本を読んで、木下刑事の「奇形児」は、実は無能児であると知りました。であるのなら、なおさらです。劇中では、その子は「5歳」でした。その時代に無能児がそこまで生きていたら、それは世界中の奇跡です。私は大学病院時代に何人もの無能児の赤ちゃんを見てきました。が、その子たちはみんな数日以内に亡くなりました。今、無能児の子をなんとか生かして、臓器移植のドナーとしたらどうかという論議もありますが。

そして、被爆直後には、無能児があちらこちらで生まれたという話も聞きます。でも、その子を育て続けることは不可能です。台本には、その育てている子のことを「サル顔」という言葉も出てきます。

 わかっていただけるでしょうか。被爆者がなぜ社会から差別され続けてきたか。被爆者と結婚すると「奇形児がうまれる」というこの偏見にどれだけ被爆者やその子たちが苦しめられてきたか。

 せっかく「岩崎夫人」が、中絶を思いとどまって元気な赤ちゃんを産んだという、暖かい設定もあるというのに。

 被爆者や二世が、とたんの苦しみの中で産む選択をしてきた、私も含めた多くの人の歴史があります。今、この現代に、この演劇を全国でして回って、それがいまだに続く被爆者差別を扇動することにならないでしょうか。

 私は、観劇から10日経った今もなお、怒りがふつふつと沸き上がるのを抑えられません。まだまだ言いたいことがたくさんあります。それは、パンフの中にもあるような、この演劇をほめそやす人たちについても。「広島の人々が背負った「罪」」というタイトルで、劇評を書いた人。顔一面にケロイドのある女性が「売春してしか生きていくことができない女性」と書いています。それを何十回も顔の手術を受けながら、強く生き抜いてきた女性たちに向かって言えることでしょうか。また、彼はこうも書いています。「人々は、原爆の呪いにかかった時から、白黒つけることができないグレーの世界を生きていかなければならなくなる。それが原爆の十字架を背負いながら、戦後を生きるということなのだ。」「原爆と関わった人々は、罪を背負ってグレーの世界を悶えるように生きていかなければならない。社会はその生き方に黒白をつけるより先に、抱えているものの重さを知れ。」何が罪を背負ってですか。大きなお世話、あなたに言われたくないわ。下品だけど、私はそう思いました。

劇中にうたわれた「救いのない歌」についても。

また、明日に続きます。

 

 

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兄の文章から②

兄の文章を続けます。小さいころから、私にとって兄は怖い人でした。それなのに花や小鳥が好きで、それが不思議でした。これらの文章を読んで、やっぱりするどく怖い人だと思います。その一方、子どもやお年寄り、障害のある人などには、とことん優しい人でした。その根底には、幼い頃に分かれたままの三人のわが子の存在があると私は思います。パソコンの中に、子どもと孫の写真のぺージがひっそりとありました。どうやって手に入れたのでしょう。


論理のすり替え         香住ケ丘バプテスト教会壮年会


                      2010.4.18 長谷川康行


. 論理のすり替え


1.    49日、日米密約訴訟の判決で東京地裁は、外務省の対応を「国民に対する裏切り行為」と断罪し原告全面勝訴の判決を下した。


1971年毎日新聞記者の西山太吉氏が日米間の密約の存在を示唆する記事を掲載。


「知る権利の侵害」に対して世論が噴出した。


当時東京地検特捜部で起訴を担当した佐藤道夫氏(のちに参議)は[空気を変える方法はないか考えた]と証言した。


国民に対する裏切りである国家的謀略を、男女関係のスキャンダルにすり替えることによってうやむやにしたのである。


2.  よくある話。交通違反で検挙された者が、違反の事実でなく「取り締まりのやり方が悪い」と抗議をする。いわゆる「逆切れ」であり、「すり替え」である。


.  私は最近2度この体験をした。


    委員会に疑問を呈したところ、委員は一所懸命にやっている。批判は間違っているとの異議であった。一所懸命にやっているかいないかの問題提起をしているわけではない。まさにすり替えである。


  また、転入会希望者に対する対応に疑問を感じて、問いただしたところ「物の言い方が悪い」とのおしかりをうけた。質疑の内容に関し         てではない。これもすり替えである。


.  このような論法は問題の本質を見えなくする。論点が2つになってしまう。だからそのような指摘は時を改めて別途検証すべきである。


.  何のために話し合いをするのか。


 「現時点の結論は正しいか。もしかして間違えていないか。もっと良い考えがありはしないか。人間は間違える存在であるから、確認が必要ではないか。」


   他人は自分の気付かなかったことを教てくれるありがたい存在であると思って、他人の意見を聴いているか。


   自分と異なる考えを吟味しないなら話し合いの意味もないし、進歩も無い。別紙、新宮文化に掲載した「全会一致は良いことか」は、そのよ   うな問題提起である。

次の文章です。

 私が生まれたのは1941年で
ある。


 序  


先の戦争は全国民を総動員したものであった。兵士とか戦場だけの話ではない。


女も子供も一般国民の多数の命が失われた。日本人では死亡した兵士は230万人、一般市民も80万人が死亡している。一例を上げると1945年3月10日の東京大空襲では27万戸の家が焼かれ8万4千人が死んだ。沖縄では兵士と同数の9万4千人の住民が死んでいる。


したがって兵士だけではなく当時生きていた全ての国民が戦争体験者である。


 
私が生まれたのは1941年である。


島根県松江市に生まれ、まもなく広島市に移り高校まで過ごした。


 1931年、日本軍の謀略によって端を発した満州事変以来、中国との長い戦争で国が疲弊し、遂に太平洋戦争に突入した年である。


したがって記憶にあるのは、物心ついた終戦間近以降である。


各地がアメリカの無差別爆撃に更されるに至って、山奥の親戚に避難していた。


爆撃から身を守るために、庭に掘られた穴(防空壕)の記憶があるくらいで、緑豊かで平穏な日々であった。


私の原風景であり、植物と土が好きな田舎志向はこの時期に刷り込まれたものだと思う。


  骨        


 戦争が終わって山奥の疎開地から広島市内に戻った。


当時遊び道具などは何もない。サッカーボールなどあるわけもなく、テレビも無ければゲームも無い。縄跳びや鬼ごっこ、唯一の道具と言えば空き缶くらいのものであった。


庭のあちこちに瓦礫の小山。そこらに転がっている真っ白い骨。それを蹴飛ばして遊んでいた。街なかゆえ大動物は考えられず、人間の骨であったに違いない。


 子供は土いじりと穴掘りが好きだ。小学校の校庭を5センチも掘れば小さな骨が無数に出てきた。それを両手にいっぱい乗せて遊んでいた。人間の指の骨であっただろう。それが何であり、何故そこにあるのか等考えたことも無い。ごく日常的な行動であった。


   同級生や教師で首から上半分がケロイド状になっている人が複数いた。耳はふさがっている。首から下は衣服で見えない。それが被爆によるものだということは皆分かっている。


  誰もことさら話題にしない。からかったりいじめたりすることも無い。


Img_6529


父の遺品の中から被爆直後の焼け野原に立たずむ写真が出てきた。広島市中心部で右後ろはキリスト教会と思われる。


当時父は旧制中学の教師をしていたが当日はたまたま伝令を持って観音の三菱軍需工場に行っていたので助かった。


教え子は全滅した。


原子爆弾爆心地の地上温度は3000度から4000度。


1㎡当たり19トンの圧力、


風速毎秒280メートル。


年末までの死者14万人。


太き骨は先生ならむ   


  そのそばに小さきあたまの骨あつまれり       正田 篠枝


2001.8 第6回アジア工芸展  「暁光Ⅱ」 小坪亭の玄関にあります。

Img_6523


 


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映画「ヒロシマ1966」④

「ヒロシマ1966」の監督、白井更生さんが、アラン・レネ監督の「ヒロシマ・モナムール(24時間の情事)」のチーフ助監督だったというのを知って、「ヒロシマ・モナムール」を観なければと思いました。昔の映画ですが、沢山の賞を取っています。実は、韓国の映画「四月の雪」の監督、ホ・ジノさんとソウルで会った時に、ジノさんが、「ヒロシマ・モナムール」の事を話していらっしゃいました。ちょうど広島で「ヒロシマ・モナムール」の女優さんが広島で撮影した時、個人的に撮った写真の展示会が開かれていたのを知っていたので、その話をしました。しかし、私はその映画を見ていなかったので、ちょっと後悔しました。

余り関係ないけれど、ホ・ジノさんの奥様とその姉妹と、私の家族が一緒に食事をしたので、その写真を貼っておきます。一番右がホ・ジノさんで隣がその奥様、そして私です。

Photo_20231005171001

しかも、その映画「ヒロシマ・モナムール」には、映画「ひろしま」のシーンが沢山挿入されていると知りました。で、DVDを調べてみたら、ありました。即、新品を買いました。

Img_6285 Img_6286

 二週間後に東京に行きますので、その新幹線の中で観ることにします。とっても楽しみです。それにしても、「ひろしま」がこの映画に挿入されて、全世界に発信されたこと、素晴らしいです。いろいろな経緯があったのでしょうね。

 「ヒロシマ1966」には、何度も言うように、加藤剛さんと松本典子さんが演じている二人の医師が出てきます。樺美智子さんが亡くなったあの60年安保のデモで、彼が瀕死の重症を負ったのを彼女が引っ張り出して助けた、それが縁で二人は恋人同士になります。佐世保でベトナム戦争で傷ついた米兵を治療している彼と、広島で被爆者を診ている彼女は、これからも決して結ばれないのでしょうが。二人の安保闘争での挫折の評価と、悲しいけれど熱い会話をシナリオで読んで、これは、やっぱり観なければと思うのです。が、この映画はDVDにはなっていないし、観る手段も分かりません。とても残念です。

 これで、映画「ヒロシマ1966」については終わります。ふとしたことから調べてみたのですが、いろいろと知れてよかったと思います。あ、白井更生さんも吉川清さんもずいぶん前に亡くなられていますが、広島大学の映画研究会の方たちはどうしていらっしゃるでしょうか。青春の一時期をかなり濃密にご一緒したのも懐かしいです。それから、これは思い上がりですが、その役、絶対私がやった方がよかったと思いました。だって、就職試験がうまくいかないその頃、彼女は猛烈に、後輩が音を上げるほどバスケットに打ち込むのですが、スクリーン上の彼女は、まるで幼い子どものまりつきでしたもの。それくらい、練習をすればよいのにとあの頃私は思ったものです。もちろん、撮影の間、私はずっと彼女と仲良くしていたし、旅館に行って一緒に演技の練習をしたり、方言の指導もして過ごしましたよ。望月優子さんには、ご挨拶をしても、じろりとにらまれて、一言もお声をかけて頂けませんでしたけれど。

 読んで戴いてありがとうございました。

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映画「ヒロシマ1966」③

映画「ヒロシマ1966」のストーリーはこんなの。ネットにいろいろとありましたが、これが一番まともに思えたので。


一九六六年、広島。平和公園で、みやげものの屋台を並べる、被爆者の一人川村しのは、何か落ち着きがなかった。それというのも、娘真弓の入社試験の発表が追っていたからだ。「芸備工業」は、被爆の後遺症で死んだ夫が勤めていた大会社で、この会社に真弓が合格すれば、原爆病の恐怖に戦きながらも、二十年間頑張り通したしのは、安らかに死んでいけると信じていた。

 そして父の悲惨な記憶から逃れようと、上の娘恵子が家出した今、頼るすべは真弓だけだった。矢も盾もたまらなくなったしのは、亡夫の友人、「芸備工業」牧田経理部長を訪ねた。必死なしのの願いも空しく、牧田はしのを冷くあしらった。真弓の担任の松本先生が、大会社は片親の子供は採用しなくて、決して真弓の成績が悪かったのではないと励ますが、しのの気持は閉ざすばかりだった。

 --一方、ベトナム戦で負傷したアメリカ兵を扱う佐世保病院に勤める、青年医師田岡一夫と、広島原爆病院の女医内山淳子が広島の雑踏の中を歩いていた。将来を誓った二人だったが、安保闘争の挫折から二人の愛に亀裂が生じていた。田岡は、時々淳子のもとを訪れ、互いに満たされぬ一夜の交歓にひたり、そそくさと佐世保に帰る、そんな状態がもう長く続いていた。

 --すっかり働く意欲をなくしたしのは、原爆病だから国が面倒みてくれるとふてくされ、床を離れようともしなかった。数日後に漸く床を離れたしのは、真弓と共に亡夫の眠る木次に墓参りにいった。田舎の澄んだ空気は、しのに再び活力を与えた。真弓も零細企業だが、町工場に就職できたし、川村母娘に明るさが蘇った。

 そんなある日、しのは真弓の運転する自転車に乗せてもらった。自転車が平和公園の前を通る時、突然しのの脳裡に原爆の閃光が現れ、自転車から転げ落ちた。しのは、心身ともに限界にきていた。

 驚いた真弓は恵子に援助を頼んだか、恵子は涙を浮かべながらも、かたくなに拒否するのだった。母に代わり、屋台をひいて家路を急ぐ真弓、背後に、電光ニュースが、正月休戦を終え再開したベトナム戦争の激しさを伝えていた。

まあ、言ってみればこれだけのことなのですが。

実は、私はネットをうろうろしていて、こんなのをみつけたのです。すぐに頼みました。映画と同じ58年前の本です。そしたら、今日、書留で届きました。びっくり。頼む時には、この映画の何かがあるらしいということだけだったのですが、開いてみて、本当にびっくり。「ヒロシマ1966」のシナリオが載っていたのです。それと、白井更生監督の文章も。

Img_6284 Img_6281 Img_6282 Img_6283

 読んでみて、改めて感じ入りました。白井さんも、それから映画の登場人物も、みんな戦争を体験しており、それからこの時代は安保闘争の後、そしてベトナム戦争の真っただ中であるということです。そんな時代の中でこそ、白井さんが言いたかったことがぼんやりとわかってきました。今日でこれについては終えようと思っていたのですが、こんなものが手に入ったので、もう一回、あすにも書きたいと思います。

 明日は、木曜日の休診日。年一回のドックです。胃カメラやマンモグラフィーや、苦痛なのもいろいろ。何もありませんように。

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