核兵器禁止条約発効

昨日、核兵器禁止条約が発効されました。広島では被爆者を中心として様々な会が催されテレビでは多くの番組が流されました。私はどれにも参加はできないけれど、ひっそりと喜びました。

この条約は、私が中学生の時、日本国憲法の前文を読んで感動したのと、同じような響きがあります。共同通信発の要旨を転載します。

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それは「全廃こそが核兵器が二度と使われないことを保障する唯一の方法である。」とし、


「核兵器の使用による被爆者と核実験によって影響を受けた人々にもたらされた受け入れ難い苦しみと危害に留意する」ちゃんと被爆者や核実験による被害を受けた方たちへの配慮もしているし。

「平和と軍縮教育、核兵器の危険性への意識高めることは重要」とちゃんと「教育」にも言及しているし。

「被爆者による(核兵器廃絶の)目標達成への努力認識する」と、被爆者の血のにじむような、命をかけた闘いを評価し、ねぎらっているし。

「核兵器の開発や実験、製造、保有、貯蔵、移譲、使用、使用するとの威嚇を禁止する」と全ての核兵器を巡る行為を禁止することだけでなく、

「本条約が禁じている活動をするため、誰かに援助を求めたり、援助を受けたりすることを禁止する」と、核の傘に守られることをも禁じているし。

さらに、「核兵器の使用や実験により影響を受けた個人に、差別なく医療、リハビリ、精神的サポート適切に提供する」と、とても暖かいのです。

そして。「非締約国も締約国会議にオブザーバーとして参加できる」呼び掛けています。

 せめて日本はオブザーバとしてでも参加できないかと、多くのマスコミも論じています。核の傘の下にいる日本も条約を締結することはできるとの論も見受けられます。

 昨日にもカンボジアが締結し、また一か国増えました。じわじわと締結国が増えていくことも期待できます。まだまだ厳しい状況であると分かっていても、それが核兵器保有国の包囲網となるように、希望を持ち続けます。


自分たちのような目に合う人が三度出ないようにと、核兵器廃絶のため、体験を語り被爆者署名を集め続けた被爆者の皆様の努力に敬意を表します。



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男性合唱のためのレクイエム「碑」

昨日の夜、エリザベート音大のセシリアホールで行われた「被爆75周年 平和と希望のコンサートⅢ」に行きました。平和の夕べのスタッフと待ち合わせたのは、エリザベート音大の校舎に入った所のホール。私は、これまで外からしか見ていなかったのですが、中に入るととても美しい環境でした。中庭に向かって並べられた椅子。ちょうどクリスマスツリーもかざってありました。

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セシリアホールも素晴らしい。正面には、ピアノだけでなく、パイプオルガンも設置されています。

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パンフレットを戴きました。これには、とても大切な資料が満載でした。

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何より、私は「Ⅲ」の意味が分かりませんでした。平和と希望のコンサートは、これまで2014年にニューヨークの国連本部で、2015年には国連合唱部を迎えて開催されたそうです。今回「被爆75周年」に「Ⅲ」を開催されるということでした。第一部が県内のいろいろな男性合唱団による「男性合唱団のためのレクイエム「碑」」でした。指揮をして下さったのは、何と40年前、広島メンネルコールの代表で、この曲の制作を依頼をされ、初演で指揮をされた山本定男さん。作詞も作曲も、そして、山本さんも広島二中の卒業生です。すでに89歳の山本さんの指揮、合唱は素晴らしく、最初から、始まってすぐから涙涙でした。(それにしても、89歳という高齢の方が45分も立ちっぱなしで指揮をされる、その大変さ、段に上がるのも、降りるのも大変だということを主催者は配慮しておかなければならなかったと思います。)

 改めて知ったことがあります。第6章「まさちゃん、お母さんよ」は、昨日書いた西村利信さんの弟さんのことでした。当時二中2年生西村さんの手記には、1年生正照さんを探し、瀕死の弟を連れて帰った様子が書かれています。歌詞は次のごとくです。

「朝から昼へ/昼から夜へ/燃えつきる広島の/道を母は走る/土手を走り/名を呼ぶ母/まさちゃん わかる/お母さんがきたのよ/助けにきたのよ/兄ちゃんもきたのよ/助けにきたのよ/家に帰ろうね/家に帰るのよ わかる」

これら、歌詞に出て来る人の碑に書かれた名前の写真もプログラムと共に配って戴きました。

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第8章「全滅」これは、もうたまりません。こんなひどい目に遭った、まだ幼い中学1年生たち。

「渋江くんは/がん木の石段で/二日目の朝/涙の顔で/朝火をおがんで死んだ/手をとりあって/励ましあって/逃げた羽白君は/南くんと道ばたで/並んで息絶えた/お寺の救護所で/坪木くんはいじらしく/夢で親にあうから/いいよと/静かに息をひきとった/ほかの1年生たちは/家路の途中で/たどりついた家で/つぎつぎに死んだ/日がのぼり 落ち/五日目の朝/最後の一人が/桜美くんが死んだ/8月6日が彼の誕生日/13歳と5日を/せいいっぱい生きて/桜美くんは死んだ/父の歌う/好きな軍歌を/ききながら/父を見上げて死んだ/三百二十二の/広島二中の/1年生はみんな/原爆の中に死んだ」

よくもよくもこんなひどいことを!!いくら戦争中とは言え・・。

そういえば、パンフレットには、たくさんの方の挨拶が載っています。この中の広島県合唱連盟会長、今回のコンサートの実行委員長の谷千鶴子さんと、エリザベート音楽大学のの理事長・学長の川野裕二さんのお二人とも、「核兵器禁止条約が来年1月22日に発行する」ということに言及されています。でも、広島県知事も広島市長も全くこのことには触れていません・・。ああ。

この後、小学生、中学生、高校生たちのそれぞれの合唱、一般女性合唱団、一般混声合唱団の合唱があり、それから混声合唱のためのレクイエム「碑」英語版の最終章の合唱がありました。

それから、とてもうれしかったのは、毎年広島二中の後輩、県立広島観音高等学校音楽部OB会の「レクイエム碑」の合唱の指揮をされる益田遙先生も来られていたこと。全てが終わった後、先生は合唱をした人にも観客のたくさんの人にも囲まれていらっしゃいました。先生の温かさでしょうか。

素晴らしい合唱をして下さった方も、この会を準備して下さった方も、皆様、ほんとうにありがとうございました。それから、チケットを手配して下さった穂垣さん、おかげ様で素晴らしい時を過ごすことができました。ありがとうございました。

 

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平和と希望のコンサート・「レクイエム碑」

今日のことで、誠に申し訳ないのですが。本日11月28日(土)午後5時半から、エリザベート音楽大学セシリアホールにて、「平和と希望のコンサートⅢ」が開かれます。今年の6月に開かれる予定でしたが、新型コロナの影響で延期になったそうです。

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ここでは、広島県の男性合唱団の方々により、レクイエム「碑」が歌われます。広島二中一年生、全滅の記録、その男声合唱と最後には、混声合唱で、レクイエム碑の最終章が初めて英語で披露されます。

行かなくては。毎年、広島二中の後輩、県立広島観音高等学校の音楽部OB会が、益田遙先生の指揮で合唱されます。それは、混声合唱です。男性合唱を聴くのは私は初めてです。

そして、今日、小野瑛子さんの炎のメモワールと、西村利信さんの「原爆体験記」を出演される男性合唱団の方々へ渡して下さいとことづけました。もっと早くに渡せればよかったのですが。

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合唱曲「レクイエム碑」の第4章「川の中で」の、「浅瀬に取りつき石垣をよじのぼる生徒に/手を差し伸べる傷ついた先生/君は傷が軽い/頑張って家に帰るんだ/私はもう歩けない/だが君は元気だ/さあ握手して」との歌詞があります。それは、のちに生徒さんの証言から山本信雄先生だと分かりました。小野瑛子さんは、その山本先生の次女です。

あの歌詞の山本先生の遺児が千葉に住んでいらっしゃる、健在だとの情報がもたらされた時、私たちは驚き、そして喜びました。ぜひ来て頂こう。[8.6ヒロシマ平和の夕べ」で話して頂こうと。そして、連絡を取り付けて。2017年の平和の夕べに来て頂いたのです。

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この時、肺がんで闘病中の小野さんは、懇親会の席でウィグを取られました。そのおぐしも素敵ですよと言うと、それからはそのままで、一緒に写真を撮って戴きました。

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夫と長女を原爆で亡くしたお母様は、原爆の惨状を英文で書き、「Time」誌に送ったそうです。そしたら、GHQに見つかり没収。そしてひどく叱られたそうです。その英文の手記は、お母様が亡くなって遺品を整理していた時に瑛子さんが見つけられ、それを翻訳して、「炎のメモワール」として出版されました。その一部、原爆の惨状の部を別刷りして、私たちに寄付して下さったのです。

また、山本信雄先生の教え子の西村利信さんは、小野さんと同じ千葉在住でした。一年生の弟を亡くし、ご自分はやはり二中の二年生で、ひどい被爆をしながらも、生き延びられました。小野瑛子さんの炎のメモワールを朗読した方があり、それを聴いた方から教え子の方がいるとの情報が入りました。しかもその方、西村利信さんは、被爆後二年して千葉に転居、そこの高校で原爆の手記を書き、文学クラブの機関誌にそれを掲載されたのです。厳しいプレスコードをかいくぐるようにして残ったその手記が、小野瑛子さんと俳優の岡崎弥保さんのお二人の手で、改めて冊子として発行されました。書かれている原爆の惨状はそれは生々しく、あまりに過酷な状況でした。

それが発行されたのが2018年5月31日。そして、小野瑛子さんは、肺がんが悪化してその年の10月30日にお亡くなりになりました。そして。何とその翌日、10月31日に西村利信さんも亡くなったのです。

この二つの手記は、合唱をされる皆さんが読まれると、きっと歌われる上での思いもさらに違ってくるでしょう。そう思ってお渡ししたのですが。遅すぎると思いながら・・。今日、聴きに行きます。

 

 

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神田山荘にて「8.6ヒロシマ平和の夕べ」の会議でした。

昨日、から今朝まで一泊で、被爆者保養施設神田山荘にて「8.6ヒロシマ平和の夕べ」のスタッフ会議をしました。牛田の神田山の上にある神田山荘。被爆者の保養の目的に作られましだか、今では一般に開放されています。きれいで広いお風呂やジムがあり、宿泊も日帰りもあります。

 私は、以前福島からの保養に来られた母子と共にここに宿泊したことがあります。以来、約10年ぶりです。変わらずきれいないい施設でした。

見晴らし。正面の少し左にある瀬戸内海の島は宮島です。

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会議を済ませて(会議の写真は撮りませんでした)食事。ソーシャルディスタンスで。

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会議では、それぞれが今年の会についてどうだったか、その反省を踏まえて、来年をどうしたいと思うか等を自由に語り合いました。この会をすることの意義、意味等の本質に迫る会話も。

今年は、コロナの心配もありながらでしたが、それは75周年ということもあり、換気が十分な会場が見つかったことで実行したものです。結果的には、皆さんに良く開いて頂きました、分かりやすくて良かったとか、言って頂きましたが。でも、思いのほか沢山の方が来られて、席も空けていたのが、段々埋まってしまって・・。心配された方もおありでした。消毒、検温だけでなく、一番気をつけたのは、窓を両側すべてしっかり開けること、大型の扇風機でガンガン空気を回したこと、結果、コロナの発症もなくってホントうに心底ほっとしました。

さて、来年はどうする?いろいろとアンや心配が出ましたが、やはり何とかやりたい。しかし、コロナの状況で中止になることはあり得て、でも、それは仕方がないこと。一応開催に向けて準備に入りましょうということにしました。いろいな方の候補も具体的に上がりました。

これから会にむけてがんばりましょう。

ご飯の後、一室で雑談。それも窓とドアを開けて。マスクをしながら。

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部屋からの夜景です。

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私が朝いちばんにお風呂に入った時にはどなたもいなくて、ずっと一人。露天は朝のピリリとした空気、熱めのお湯にのんびりしました。

朝ごはんも豪華。追加の会話をしながら。

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気の置けない仲間と充実した楽しいひと時を過ごしました。皆様、そのうち、来年の8月6日についてご案内しますね。中止になったらその時はごめんなさい。

今から、昨日の議事録を作ります。

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吉舎の慰霊碑

吉舎中学校を辞し、教育委員会の担当の方に慰霊碑に連れて行って頂きました。原爆慰霊碑があるはずと。ところが、行ってみると、碑が二つ並んでありました。

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よく見ると、「原爆慰霊碑」と「慰霊碑」。後者は戦争慰霊碑でした。原爆慰霊碑の書は、森滝市郎さんです。戦争慰霊碑の書は、どなたなのか、読めませんでした。

そして、気づくと、もう一つ変わった碑がありました。この碑の向こうに戦争と原爆の慰霊碑が見えます。

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この碑の前に埋めてある説明文です。「吉舎の平和祈念像」「和の目門」だそうです。

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『このモニュメントは戦後50周年にあたり太古からの石50個と黒の石核20個で平和への願いと21世紀への飛躍を祈念して制作した。地の「輪」と人の」「和」を刻み、組み合わせ、積み上げていくと、静かに石は囁いた。「もう、戦争などすることはないよな。」と。製作者空充秋 平成8年吉舎町』と記されています。

しばらくこの静寂の地でのひと時を過ごさせて頂きました。生徒さんの「NO MORE HIROSHIMA NO MORE OOKUNOJIMA」もよかったし。慰霊碑も見させていただいたし。

吉舎中の保護者の方に頂いたきれいなお花と何と、アップルパイです。

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お花は、車の中がいい香りでうれしかったし。横長の大きなアップルパイは、4分の1のリンゴがずらりと並んでいます。びっくり。パイ皮もリンゴも猛烈美味で。吉舎の後藤ベーカリーの作だそうです。やしゃれ!!大変ありがとうございました。

私は、行きはおむすびを作って持って行って、途中車の中で食べました。帰りは教委の方がパンとコーヒーを下さって、かじりながら帰りました。途中、千代田の道の駅に寄って、そうめんうりとワサビ菜を買いました。充実した一日でした!!一週間前の倉敷に続いて、やはり講演に出ていけるといいなあと思いましたよ~。

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森達也さんの記事のご紹介です。

生活クラブ生協連合会が発行する月刊誌「生活と自治」10月号に、「8.6ヒロシマ平和の夕べ」の平和講演をしてていただきました森達也さんの原稿が掲載されています。クリックして大きくして読んで下さいませ。

8月6日の翌7日、スタッフの一人の竹田雅博氏は、平和の夕べに参加された方々の内の何人かを資料館にご案内し、広島二中の生徒で、学徒動員されて爆死したお兄さんのお弁当箱を見て頂き、お兄さんやお父様のことをお話することを続けています。今年は、森達也さんも一緒に来て下さって、そのルポをして下さっています。



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やはり読みにくい様ですので、一段ずつに分けて大きくしますね。

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ブログに掲載させて頂きたいと「生活と自治」の編集部にお願いした所、先週一杯は待ってほしい、そしたらすべての地域に配り終えるからということでしたので、週明けの今日、掲載させて頂きます。

竹田さんの今年のツアーは、中国新聞にも掲載されました。

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皆様にも読んで頂きたくご紹介しますね。

 

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修学旅行生が戻って来た!

今日お昼休みに、ちょっと用があって自宅に帰りました。平和公園を通っていると、修学旅行生がいました。コロナ以来、全く訪れる人がない平和公園で、もちろん修学旅行生もいなくなっていました。最近、ボツボツ子どもたちの姿が見られるようになったなあと思っていましたが。

黄色い帽子と白い帽子の子どもたち。違う小学校の子どもたちですね。

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そこに中学生たち。(多分高校生ではないみたい)

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資料館の下には、グレーの帽子の子どもたち。

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バスの駐車場も、いろいなバスが停まっていて。

修学旅行生が戻ってくるというのは、やはりうれしいですね。

新型コロナで失う物はとても多いけれど。中でも教育。学力だけでなく、友達関係をどう作っていくか(結局は人権教育なのですが)、性教育、そして平和教育。これらが授業時間の減少と共に削られがちな今、こうして子どもたちを広島に連れてきて下さる先生方かせいらっしゃるということが、ありがたいですね。きっと、いろいろと悩み、議論し、保護者とも話しあい、やっとの思いで広島行きを決められたことと思います。広島の代表でもなんでもないけれど、ありがとうございますと思いながら自転車を走らせましたよ。

今日のお昼は家でチキンラーメンです。

東京の孫ちゃんからお手紙が来ました。敬老の日のプレゼント、手作りのノートです。表紙や中紙やリングなどを私に似合うのを選んでくれて、私だけのノートを作ったのだと。素敵なノート。きれいに折れた鶴も一緒です。もう長い間会えてないけれど、元気にしていてこうしてプレゼントまで贈ってくれて、ありがたいことです。それから、手紙に漢字が増えたのがびっくりです。「楽しみ」までチャンと感じで書いてくれてました。どんどん成長しますねえ。また、いつか近い内に会えます様に。

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「8.6ヒロシマ平和の夕べ」「私が大飯原発を止めた理由」樋口英明さん②

「8.6ヒロシマ平和の夕べ」、樋口英明さんの講演「私が大飯原発を止めた理由」の続きです。


 つまり原発は、ずっと電気と水が必要だ。去年亡くなった中曽根元首相の最大の影響は、1955年原子力基本法を作ったことだとされる。「原子力はかつて猛獣だったが、今は家畜になっておる。日本国民は、まだこれを猛獣だと誤解している」と。猛獣というような可愛いいものではない。核兵器、原爆はウラン、プルトニュウム燃料を10万、100万分の1秒という一瞬にエネルギーを解放する。原発はそのエネルギーを水と電気でコントロールしながら1年余をかけ、ゆっくりと解放する。水と電気を与え続けなければ、原爆と同じ。核兵器は倫理にも、理性にも反する。しかし最後はボタンを押すか押さないか、人間性に期待できなくもない。原発は、水か電気どちらかが断たれれば「爆発」する。水、電気が断たれる原因は戦争、地震、災害、疫病いくらでもある。


 核の平和利用と言われるが、「核の平和時」利用に過ぎない。水と電気が安定的に供給されれば、という話、自国に向けられた核兵器である。そんな危険なものなら、それなりに安全に造られていると思われるかもしれないが、そうではない。事故発生確率と被害の大きさは一般的に反比例する。新幹線と広島の路面電車では、発生確率では路面の方が高い。新幹線が車と衝突する確率はゼロ。だけど被害の大きさが違うから、新幹線は発生確率を抑える設計、運行になっている。

 自然界にM9の地震はめったにないが、M5程度はよくある。推進勢力は、「原発の敷地に限っては、将来にわたって震度6、7の地震はこない」と言う。信用できますか。地震学者は、地震学の3重苦として「観察不可、実験不可、資料なし」と言っている。全国に地震計を配置したのは、阪神淡路の後から。せいぜい20年くらいの資料しかない。地下30キロの震源の観察はできない。それでなぜ、多くの裁判長が原発を止めないのか。700ガルが震度6なのか7なのか、裁判官は知らない。過去に何回起きたかも知らない。実際に起きている地震に比べ、原発の耐震性が高いか低いか重視していない。


 止めるべき理由は簡単だ。事故のもたらす被害は甚大、地震大国日本では高度の安全性ということは、高度の耐震性ということ。54基もつくり、しかも耐震性は極めて低い。3・11を経験した私たちは、どうするべきか。死の灰は科学的に処理できないことが明確になった。原発事故はめったに起きない、起きても30キロ範囲の影響というのも違った。原発は、それなりに丈夫。しかし阪神淡路の後の資料で見ても、見当はずれの低い耐震性で造られている。私たちの世代で解決しなければならない。私たちは、知ってしまったのだから。(要旨)


講演の要旨は以上です。最後の「知った者が解決しなければならない」と。そして、「ここにいる皆さんはもう知ってしまったのだから、原発を止める義務がある」と言われました。

これは、昨年、樋口さんが広島の「福島と広島をつなぐ、もみのきの会」で講演された時の講演録です。8.6の当日に販売させて頂きました。アッという間の完売でした。

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この冊子には、私たちが時間がなくてできなかった聴衆との質疑応答が載せてあります。そのしょっぱなに興味深い問答がありますので、それを引用させて頂きます。

問  質問は2点あります。1点は、昭和30年に制定された「原子力基本法」という法律について、貴殿はどのような認識でおられるかということ。もう1点は、原子力規制委員会ですが、これは国会で承認されたもので、要するに原子力を止めるか止めないかの権限は、この規制委員会に委託したわけです。にもかかわらずなぜ原子力を止めるという訴訟を裁判所が受けるに至ったのか、と。これは、日本国憲法の立法・行政・司法の領域のなかで言えば、司法が行政の領域に入り込んでいるのではないか。だから、それは日本国憲法に違反しており、止めるとか稼働するとかいう判断も、本来は、司法でなくて行政がやるべきことだと思います。しかも国会で承認した原子力規制委員会というものがあるわけで、この委員会の5人に、国会は委託したのだから、裁判所はむしろ「そういう訴訟はうちではない、原子力規制委員会に行って話をしなさい」と振り分けるのが筋ではなかろうかと思いますが、いかがでしょうか、以上です。

答え(樋口さん)  お答えします。「原子力規制法」は法律の問題、「安全な原発しか動かしてはいけない」というのが、法律の規定です。原子力規制委員会に一定の権限を与えていますが、「ひの審査がおかしければ、裁判所が判断できる」、ということについては、全く争いがありません。法的には問題ない。ですから、「規制委員会に権限を任せているんだから、裁判所は口出しするな」という考えは、ごく一部の評論家が言っているだけで、司法の世界(裁判所、弁護士、検察官)では、そういう説をとっている人は、ほとんどいないと思っています。私は、おかしければおかしいと判断できることが、憲法から来る「裁判所に対する当然の要請」であると理解しています。以上です。

それから、この度の講演の中で、なぜ裁判官は(最高裁判所の裁判官も)、こんな危ないものを止めろと言わないのかというお話で、「原告の弁護士がちゃんと裁判官を説得しないからだ」と言われました。裁判官というのは、自ら調べたり考えたりするのでなく、法廷に出された資料や弁論から判断するので、その裁判官をいかに説得するかが、勝負なのですね。私は、このところ、性暴力の法廷に立ちことが多くて、検事さんや裁判官が、いかに物事を知らないのか、特に女性の体や心理をほんとうにわかっていないというのを痛感しています。原発の難しい仕組みを知らなくとも、単純に「こんなにアブない」ということを説得すればいいと思うのですが。ですから、樋口さんの「あぶないものは止める」という言葉が、大変力強くて、頼もしく思いました。

 それから、「原発は自国に向けた核兵器である」という言葉も重いです。政治家の中には、将来日本も核兵器を作るために、原発を続けなければならない」と堂々という人もいます。将来の核兵器の話でなく、今、ここにある原発が、水と電気が供給されなければ、即核兵器となるのだと、ゾッとする、鋭いお話でありました。


 


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「8.6ヒロシマ平和の夕べ」「私が大飯原発を止めた理由」樋口英明さん①

「8.6ヒロシマ平和の夕べ」での、樋口英明さんの講演「私が大飯原発を止めた理由」の要旨を掲載いたします。遅くなりましたが、講演を録音をしたのを、スタッフの一人の竹田雅博がテープ起こしをし、要旨をまとめました。それを少し私が短くしています。樋口さんのお話は、とても分かりやすく、明快でした。

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私が大飯原発を止めた理由
               


 私が大飯原発3、4号機差し止め判決を出したのは14年5月。裁判というのは、判決内容を事前に知っている者は3人の裁判官と書記官1人だけ。私は、訴訟の当初から原告・住民にも被告の関西電力にも厳しい態度で臨んでいた。判決当日、原告側も「勝つか、どうか」わからない。それでも代理人・原告、傍聴者は詰めかけた。他方、関電側は1人も法廷に来なかった。彼らは負けるとわかっていた。 


 私は当初から、「大飯原発が危険だと思ったら止める、危険じゃないのなら止めない」と宣言し、訴訟を進めてきた。関電側は「危険か危険でないかで決められたら、勝てない」と思っていた。みなさんは、原発裁判は、原発が危険かどうかで判断されると思っている。ところが実際、多くはそれで決めていない。私は、「危険であれば止める」とした。止めた、止めない裁判官の違いは、そこにある。


 危険とは何か。お母さんが子どもに、「そこの交差点は見通しが悪く危ないから気をつけてね」と言う。見通しが悪く事故発生率が高いから、危ない。「自転車に乗るとき、危ないからヘルメットを被ってね」。被っても被らなくても、事故発生確率は変わらない。お母さんは、頭を打って大けがをすることを心配している。ここでの危ないは、被害の大きさ。一般的に、危険というのは事故発生確率と被害の大きさ。両方を言うこともあるし、一方だけの場合もある。原発の危険を聞くと、9割以上の人が危険と答える。しかし、それは発生確率のことか被害の大きさのことか、分析してみなければわからない。被害の大きさだけ考えている人が案外に多い。


 大方の人が、被害の大きさは福島事故でわかったと思っている。福島事故はどういう事故だったのか。11年3月11日、午後2時46分に三陸沖約130キロでM9の地震が発生した。M9は地震の強さではなく、大きさの単位。大きな地震でも、離れていれば震度は弱くなる。福島第1原発は150キロ離れており、震度6強だった。それにより外部電源が、津波により非常用電源が断たれ、事故になった。それは原発の仕組みと関係する。原発は非常に単純な構造ですね。ウラン燃料の熱で水から蒸気をつくり、タービンを回し発電する。自転車の発電機も回すのは同じ。蒸気は、水(海水)で冷やし水に戻し、それをモーターで回す繰り返し。石炭、石油を燃やすか核燃料か、仕組みは火力発電と同じ。違いは燃料の毒性である。核燃料がある圧力容器には、広島型原爆の約千発分の「死の灰」が溜まる。


 もう一つの違いは、火力発電は大地震があると火を止める。すると沸騰が止まる。ところが原発は制御棒を入れ核反応を止めても、エネルギー量が大き過ぎ沸騰が続く。冷やすために水を循環させなければならない。送電鉄塔が倒れるなど電源が断たれると、モーターが回せない。福島の場合、非常用電源も津波に襲われた。


 原発には「止める、冷やす、閉じ込める」という安全3原則がある。制御棒を入れ止めることはできたが、冷やし続けることができなかった。そして閉じ込められなかった。冷やし続けるためには電気と水が必要だ。火力発電所、普通の工場、みなさんの家でも火を止めれば、断水してもかまわない。原発は停電しても断水してもだめ、電気が遮断されただけで、あの大事故になった。


 格納容器内に水蒸気と水素ガスが溜まり、爆発の危険があった。当時の吉田所長は水蒸気と水素ガスを抜くベントを人力でやろうとした。ベントを行なえば放射能が大気中に出る。格納容器が爆発して全部出るよりまし。しかし、強い放射線のため作業することができなかった。15日になり、2号機の圧力が限度になってきたが、なぜか抜けた。4号機は運転休止中で燃料が抜かれ、プールに貯蔵されていた。プールの水が減ってきたが隣のプールの隔壁がずれ、水が入ってきた。2号機が爆発しても4号機のプールの核燃料がメルトダウンしても、東京圏を含む東日本壊滅だった。それは、まさに奇蹟と言っていいのではないか。


 明日に続きますね。

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森達也さんの「平和講演」についての私見です。

昨日の続きなのですが。私が学生時代に被爆者や被爆二世で被爆者青年同盟を作り、その一員として、そのころからずっと引っ掛かっているのは。何しろ、当時何もお手本があるわけでなく、私たち自身が議論し、考え、決め、行動していくしかなかったのです。そして、私たちは子ども時代の被爆、または被爆二世であり、先の侵略戦争の責任はどこにあるのかと言われても。また、私たちは親の苦労を散々見てきているわけです。そんな時、自ら被爆したわけでもなく、親が被爆したわけでもなく、戦争の被害もさほど受けなかった人達から、「被爆者だって、戦争をした責任があるだろう」と言われると、それなら、あなたはどうなのか」と言いたくなるわけです。

ここで森達也さんが言われる「僕たちは」というのは、森さんはどこに立ち位置があるのだろうと思うのですね。森さんは「被害者でもあり、加害者でもある」のですか?「どう被害者なのですか?」と聞きたくなるのです。「日本人」というくくりの中で自らを被爆者と同じ立ち位置にして「僕たちは」と言われているのでしょうか。

以前、あるアメリカ人から、「広島の運動には原発がなかった」と言われたことがあります。広島では、反原発の運動を命をかけて闘い、そして実際過労で亡くなった方、ガンに倒れ亡くなった人もいます。そして、森滝市郎さんも高齢の病んだ体を押して、青森の六ケ所村や伊方原発の現地や訴訟にも出かけていき・・・。そんなことをしっかり見ていますし、私たちも伊方原発、島根原発など現地にも行き、反核は反核兵器だけでなく、反原発も当然のこととして、福島よりずっと以前から闘ってきました。しかし、私たちの力が弱いからこそ、今だに原発をゼロにすることはできないままでいます。彼が知らないだけです。そしたら彼はなんと、「原発の廃炉になった炉を原爆ドームの後ろの旧市民球場の跡に置くといい。そしたら、初めて広島は反核の運動の場になりうる」と言いました。私は怒りましたね。こんな場でどうしてそんなジョークをいうのかと、そしたら「これはジョークではない。真面目な考えだ」と彼は言いました。

その時、彼は自分のことを原爆を落としたアメリカの人ではなく、「広島市民として受け入れもらっていると思っている」と言いました。だから、広島市民としての反省のつもりなのでしょう。

 これまで被爆者は語るだけではありませんでした。全て焼かれて、食ことも十分でなく、寝る所もないような状況で、ケロイドの顔をさらし、予行列車で東京に行き、東京駅で顔を洗い、国会へ、厚生省へ、首相官邸へと訴えに行き、座りりこみをしたと。それはすさまじい体・命を懸けての闘いでありました。その闘いを経て、やっと被爆者への様々な補償が少しずつなされてきたのです。いまだに被爆者と認められず、裁判に勝っても、また控訴審を闘わなければならない老いた「黒い雨」の地域の人もあります。

 私は、今、被爆者はしっかりその被害を語ったらいいと思います。被爆者に被害と同時に加害の謝罪もさせようとしないで下さい。加害については、また別の人が謝罪をすればいい。被害がわからないからこそ、アメリカ人はいつまでもその加害性に気づかないのだと森さんも言っています。私たちだって、朝鮮半島の人達からの告発を受けて、初めて日本人がどんなにひどいことをしてきたかを知って来たのですね。(勿論、戦後の教育の中で、特に私は中学校で、侵略や差別の歴史や人権について、しっかり教えてもらいました。その教育の下地があったからこそと思っています。)

その意味で、私は語って下さる被爆者が存命の内に、たくさん話を聞いておきたいのです。

取り留めのないことを言いました。私の中では「加害と被害」が混とんとしていたのが、今回の森さんの講演で、少しだけ整理されたような気がします。とりあえずみんなで加害も被害もしっかり語れと言うことでしょうか。

今日、そごうで開かれている「私の針仕事展」に行きました。売っていたこれが、どうしても欲しくて買いました。小さいころにおんぶしたり抱っこしたりしてボロボロになるまで遊んでいた私の人形とそっくりなので。

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