映画「ヒロシマ・モナムール 24時間の情事」

やっと広島の家に帰りつきました。必死で早く帰りたくて。2時間半走って美東で休んでコーヒーを飲んだら、すっごく効いて、頭もスキッと体も楽になって。恐るべきコーヒーパワーで、その一回休んだけでした。パソコンができなくなっていないか心配で。家に帰って、家のWi-Fiでちゃんとつながりました。ああ、よかったです。映画ヒロシマ・モナムールについて、早く書きたかったのです。これで書けます。

 1959年作、アラン・レネ監督の日仏合作映画です。10月3日から3回に渡って私のブログに書いた、私も出演した映画「ヒロシマ1966」を調べていて、監督の白井更生さんが、この「ヒロシマ・モナムール・日本の初期の題名は24時間の情事」のチーフ助監督であったと知りました。何しろ、出演した当時は私はまだ18歳の本当に子どもでした。被爆者運動や学生運動に関わっていったのは、それからあとの事ですから。で、24時間の情事について調べていたら、映画「ひろしま」のいろいろな場面が使われていることも知りました。

その時に「ヒロシマ・モナムール」のDVDを買って、観るつもりだったのですが、ずるずると今になってしまいました。ちよっと億劫だったのもあります。こういう原爆の映画を観る時には、やはり覚悟がいります。

そして、この度東京の講演から帰る時に新幹線の中でこれを観ました。観始めて、すぐに「あれっ」で、周りを見渡しました。映画はいきなり濃厚なラブシーンから始まったのです。もしも周りに人がいたら、あのおばさん、何をみてるんだと思われるかもと。幸い、隣には人はいませんでしたし、通路を挟んだ向こうに座っている人からはパソコンの画面は見えないでしょうから。で、安心して観続けました。フランスから来た女優と広島の男性とのラブシーン。すべてフランス語の会話だけで成り立っている、字幕の映画です。まあね、日本の題名は「24時間の情事」なのですから、さもありなんなのですが。あの、「ドライブ・マイ・カー」の時もそうでした。広島や瀬戸内海の美しい景色がふんだんに出てくる映画と思ったらいきなりのラブ・シーンで、これは、気合を入れてみなければと思ったものです。それと似たような感覚でした。

Img_7043_20231203234501

Img_7044

しかし、これは単なる情事でなく、二人がそれぞれ深い戦争の傷を背負っていることが分かってきます。彼女は、フランスで敵兵であるドイツの兵と愛し合います。しかしそれは許されないことで、地下室に閉じ込められたり頭を丸刈りにされたり。それでも、二人で駆け落ちをしようとしたところで、彼は何者かによって撃ち殺されます。彼を失った彼女の苦しみ、それは壮絶でした。再び閉じ込められた地下室で壁をがりがりと搔きむしり、指先から噴き出す血を嘗め回したり。これは、彼の血だと。そんな苦しむ彼女を母親がパリに逃がします。その時に広島の報道がされます。彼女はそこで徐々に立ち直って行きます。


 彼女と愛し合う日本の男性と、その殺されたドイツ兵とが彼女の中で重なります。そして、彼女は彼の記憶が消えて行くことを恐れます。


一方、彼の原爆の記憶も壮絶です。その原爆のシーンが、映画「ひろしま」からの映像です。

Img_7049

Img_7051

あ、吉川清さん。背中のケロイド。そうか、吉川さんはこの映画に出演されていて、白井更生さんとここでもうつながっていたのですね。

Img_7047

壮絶な被爆の実相だけでなく、立ち上がるこんな市民の姿も。

Img_7053 Img_7056 Img_7055_20231203234501

当時、日本での上映の実績は全く芳しくなかったそうです。そうでしょうね。まだ被爆からそれほど時間が経っていない時に、「情事」というタイトル、ちょっと見に行けなかったでしょう。

でも、これは世界中の人に観てもらいたい映画です。今からでもおそくはありません。いえ、こんな今だからこそ。

Img_6285

そして、私は、今、白井更生さんに会いたいと、もう亡くなっていてかなわないことなのに、熱望してしまいます。

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

 

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。広島ブログ

| | コメント (1)

劇団民芸に手紙を書きました。続き

 今日は、電話当番でした。朝から午後2時までの予定で、その後は、県民文化センターでの観音高校音楽部OBによる「レクイエム碑」を聴きに行く予定でした。「ひろしま二中一年生の全滅の記録」の混声合唱です。でも、終わり近くにかかって来た電話がとても長引いてしまって、遅くなってしまいました。結局碑にはいくことができませんでした。とても残念です。

Img_6544

その電話の事もあって、今日はひどく疲れています。好きな「ぽつんと一軒家」を観ながら、座ったまま居眠りをしていました。居眠りは私は珍しいです。

 では、昨日の劇団民芸への手紙の続きです。私の昨年12月のこの演劇についてのブログの二日目です。これには、はじめに私の講演の事を書いていますので、その部分は省きますね。それでは、ブログを再現します。

 (略)
ということで、さて。昨日の続きです。多くの皆さんが一緒に怒ってくださって、少しほっとしました。

「被爆者から奇形児が生まれる」という偏見について。特に、劇にあるような「無能児」について。これは、母親の胎内で、期間形成期、それも大脳が作られる16週までに強い放射線を浴びた場合に起こる可能性があります。しかし、木下刑事のように被爆者が後に妊娠した場合は、胎児が被爆したわけではないので、その頻度が上がることはないのです。胎内被爆児の中には、頭が小さくて知的障害のあるいわゆる「原爆小頭症」の子たちが生まれたことは知られています。しかし、それも、母親が妊娠中に原爆による被爆をした場合であって、被爆者がのちに妊娠して同じような障害のある子が生まれる頻度が上がるという証明はありません。それを混同して、まさに小山氏が書いたようなことをするから、それが被爆者差別につながっているのではないでしょうか。ちなみに、無能児は、被爆のためだけに起こる障害ではありません。その頻度は、日本では1500の妊娠に一人の割合で起こるとされています。

劇中の歌は、これです。「泰山木の木の下で・主題歌  わたしたちの明日は」と書かれいます。

Img_1186

 明日には何があるのでしょう。これだと、何もない。絶望しかないということでしょうか。

宇野重吉さんが書かれたものを読むと、この歌は、宇野重吉さんがまず忘年会で歌うと。そして、小山祐士さんも加わって二人で歌うと。転写します。

『「小さな汽船のなかで—」という劇中の歌は斎藤一郎さんの作曲だが、この曲も小山さんの気に入ったらしい。毎年忘年会のたびに私たちはこの歌を歌う。先ず私がおだてられて真ん中へ出て歌い出す。みんなが唱和する。その中に小山さんの白髪が見える。私は寄って行って小山さんを引っぱり出す。「小さな町でも、大きな町でもー」のあたりからは、したがって私と小山さんとのデュエットになる。これを歌わないと忘年会の感じにならないのである。』

 その昔、私が大学生の時。被爆者や被爆二世の会の一員で、みんなといろいろと考えたり、議論しました。まだまだ結婚や出産に社会の差別も厳しかった頃。その中で、「私たちは産もう」という結論を出して、すっきりしたことがあります。

 それについては、ここに書いています。福島の若い女性たちが、かつての私たちと同じような悩みで苦しんでいることを聞いて、ああ、広島と同じような差別が繰り返されていると、胸が痛みました。そして、私たちのかつてのことをお話ししたのです。

http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-01e8.html

そして、その後もっとたくさんの若い人が福島から来て、8月6日を中心に広島で過ごしました。その中で、みんなに向けて私が話をしました。そして、そのことを密着取材したNHKの番組になりました。

http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-99aa.html

私は福島で起こったことは、隠すのではなく、きちんと情報を開示して、何より当事者が自分のことを自分で決めていけるようにすべきと思っています。差別があるなら、それこそ冷静にその差別に向かっていかなければ、と。

作者の小山氏は泣き虫で、これも宇野さんも演劇評論家の尾崎宏次さんも書かれていますが、芝居の練習の時も、演劇が上演される時も、ずっと泣いていたと。誰のための涙か知らないけれど。自分がかってに作り出した「売春をして生きるしかなかった顔にケロイドのある女性」が可哀そうだったから?「奇形児」が生まれた警察官が気の毒だったから?被爆者を憐れんでいるのですか?

それにしても、その女性から「奥さんのところに帰るように」説得されて、彼はその気になるのですが、それでもその説得の後、わざわざ敷いてある布団に抱き合って倒れこんでという場面、売春婦と悩める男のそのような恋愛や情事があってはいけないとは言わないけれど、それを広島の地でする?観客の中には被爆者も、なかでも、人知れず背中のケロイドを隠して生きている人もいたかもしれません。

 この演劇が作られた当時はまだ分からなかったから、そんな劇を作ったのかもしれない、でも、今はもういろいろと分かっているし、まだ差別がなくなっていない今、それを強調して、差別されている人たちの傷口をひろげるようなことは、もうしないでほしいと思うのですよ。すなわち、この演劇はもう封印してほしい、そう強く願います。

昨年12月のブログは以上です。

このブログは、フェイスブックにも同じものを載せています。昨日のフェイスブックに早志百合子先生がコメントを寄せて下さいました。フェイスブックをされない方は、読むことができませんので、ここにそりコメントを転載させて頂きます。なお、早志先生については、やはり昨年の12月にブログを書いています。

http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2022/12/post-31873d.html

早志さんのコメントです。

早志 百合子



私も劇団民藝のファンですし、長く市民劇場に入って2ヶ月に一度、色んな劇団の演劇を観ていました。
でも この演劇は観ていません。
が、先生のお手紙から私も悲しさ、怒りが込み上げてきました‼️
このシナリオを書かれるにあたって、何人の被爆者に会われ、その生き方を聞かれたのでしょうか?
私も長女を出産する時いわれなき差別に苦しみました。私はそれらと闘い難産の末出産し、その子は立派な人間として今は私にとって居なくてはならない存在になっています(先生もご存知のように)
しかし、その娘が初めての妊娠の時、産婦人科の医師に言われた言葉は今も鮮明に覚えています😡
まだまだ、そんな無知から来る誤解が存在することに憤りを超えて
虚しさを感じています😰
先生の実行力に感謝致します🙇‍♀️

早志先生、本当にありがとうございます。

 

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

 

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。広島ブログ

| | コメント (0)

劇団民芸に手紙を書きました。

劇団民芸に手紙を書きました。

 昨年12月に民芸の「泰山木の木の下で」を見て、怒りに震えて、そのことを二日にわたってブログに書きました。でも、そのブログをそのままにしていたことを深く後悔しました。私は、その古い演劇を市民劇場で全国に持って回って、広島がほぼ最後でしたので、これで終わりだろう思ってしまったのでした。でも、民芸は、これを今もなお地方に持って回っている事を知りました。これは被爆者差別の演劇です。もうこれ以上差別を広げないでほしい、この演劇はもう古いものとして封印してほしいと思います。

 この手紙は郵送と共に公開します。もしも、返事が来れば、それも公開します。ごまめの歯ぎしりかもしれませんが、このようなことをこのまま放置することはできません。以下、郵送した手紙です。

劇団民芸の皆様へ

 突然のお手紙失礼いたします。私は、広島で産婦人科医をしています河野美代子と申します。かつて、演劇少女だったこともあって、ずっと観劇しておりますし、劇団民芸のファンでもあります。中でも、市民劇場では、二か月に一回の観劇を欠かしていません。

 昨年12月、劇団民芸の「泰山木の木の下で」も観ました。そして、そのことを私がここ16年以上続けているブログに書きました。そして、そのブログをそのままにしていたことをこの度深く後悔しました。私は、このブログを民芸の方たちに見て頂くべきでした。というのも、こんな古い劇は、もう昨年の一連の市民劇場で終わったもの、もうされないことだろうと勝手に思ってしまったからです。でも、それを持って今も地方回りをしていらっしゃることを初めて知りました。まさか。

 この演劇は、被爆者差別です。全国に被爆者差別を振りまいています。私は、観劇して、たとえようのない怒りでいっぱいでした。その後、小山祐士氏の台本も読み、さまざまなこの演劇について書かれている文章も読みました。その上で、差別であると確信をもっています。その理由を、ブログに書いていますので、ぜひお読みください。ここにプリントして同封します。

 私は、被爆二世の医師としてどのような医師となるか、さんざん考えたあげく、大学病院時代、染色体研究室に入り、沢山の被爆者や被爆二世の染色体分析をしました。以後も一貫して、被爆者医療や反戦、反核の市民運動を続けています。私のブログを載せたフェイスブックにコメントをしてくださった方は、被爆者で今も証言活動をしていらっしゃる方です。また市民運動を通じて、顔にケロイドを負い、なんども手術をしながら、多くのことに迷いながら、それでも強く立ち上がって生き抜いている被爆者の方たちにもたくさん出会っています。

 そのような立場から、この演劇はもう過去のものとして封印してほしいと思っています。
 どうぞ、御健闘下さいますように。劇団民芸のどなたにこの手紙が渡るのかわかりませんが、ぜひお返事を頂きたいと思います。この手紙は、郵送すると共に、私のブログに公開するつもりでいます。お返事も公開したいと考えています。
 どうぞよろしくお願いします。

  20231021日           
                〒730-0031 広島市中区紙屋町二丁目2-25
                               
医療法人河野産婦人科クリニック
                             河野美代子

今日、ここに書いているブログの二日の内、一日目のを、明日二日目のをここに転送します。ダブって読まれる方には申し訳ございません。

劇団民芸「泰山木の木の下で」に怒っています。①

11月27日、日曜日の午後、「広島文学資料保存の会」主催の朗読劇「神戸ハナという女の一生」を観たと、その日のブログに書きました。

http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2022/11/post-e0818b.html

そのブログの最後に、「ちょうど時を同じくして、この「神戸ハナという女の一生」を発展させた「泰山木の木の下で」の劇団民芸公演が市民劇場で上演されます。私は、3日の土曜日に観に行きます。」と書いています。小山祐士作のこの演劇。私の好きな劇団民芸。主演の日色ともゑさんは、若い時の「アンネの日記」でその演技を見ています。「神戸ハナという女の一生」がとてもよかったので、私は期待して観に行きました。

しかし、その演劇を見終わったとき、いえ、その上演途中から、私には何とも言えない不快感、もやもやが残りました。最後には、怒りともいえる気持ちにもなりました。以来、「泰山木の木の下で」について書かれたものを読みあさりました。もちろん、当日のパンフレットも買って読みました。

Photo_20231022001101

「神戸ハナという女の一生」の時に第二部で講演して下さった岩崎文人広島大学名誉教授が「小山祐士戯曲集をぜひ読んでみて」と言われたのを覚えていましたので、その全集も買いました。アマゾンでの中古ですが、それでも高価でした。それは、泰山木の木の下でについて、私が間違えた思い込みをもってはいけないという思いもありました。全集の第四巻に「泰山木の木の下で」が収録されています。その台本を読みました。

Img_1066_20231022001401

「神戸ハナという女の一生」は、元はラジオドラマとして書かれたものです。それをこの度、朗読劇として上演されました。それと泰山木との違い。それは、なんといっても、木下刑事の描き方の違いです。泰山木では、その刑事は、被爆者で、両親が爆死し、彼は施設で育ち、しかも子どもが「奇形児」であると。その奇形児を彼は育てることから逃れ、江田島で妻一人が育てています。私は、まず「奇形児」に引っ掛かりました。奇形児は、せめて障害児に言い換えはできないものかと思いました。劇の中で、何度も何度も「奇形児」と言われ続けました。さらに彼は、妻にその子を押し付けておいて、売春婦の元に通います。その売春婦は、顔にケロイドを負っています。その設定も、私はすごくいやでした。

 もやもやした私は、板倉勝久さんに電話をして尋ねました。板倉さんは、高校の演劇部の先輩で、RCCドラマグルーブでもご一緒していました。そして、この度の朗読劇では木下刑事の役を演じられました。

板倉さんは、泰山木は見なかったと言われました。私が尋ねたのは、朗読劇には、木下刑事が被爆者でかつ「奇形児」の父親であることは書かれていたのかということです。それを、あえて削られたのか、又ははじめっから書かれていなかったのかと。そしたら、はじめから書かれていなかったそうです。それに、演出かつハナの役をされた土屋時子さんが「木下も被爆者としたらいいのではないか」と考えられたと、でも、それは岩崎先生が強く反対されて、結局それは採用されなかったと。それで、小山祐士さんが、ラジオドラマをたたき台にして戯曲を書く時に木下刑事の役をそう設定されてのだとわかりました。

さらに、私が観劇中にはきっと聞き逃していたのでしょう。台本を読んで、木下刑事の「奇形児」は、実は無能児であると知りました。であるのなら、なおさらです。劇中では、その子は「5歳」でした。その時代に無能児がそこまで生きていたら、それは世界中の奇跡です。私は大学病院時代に何人もの無能児の赤ちゃんを見てきました。が、その子たちはみんな数日以内に亡くなりました。今、無能児の子をなんとか生かして、臓器移植のドナーとしたらどうかという論議もありますが。

そして、被爆直後には、無能児があちらこちらで生まれたという話も聞きます。でも、その子を育て続けることは不可能です。台本には、その育てている子のことを「サル顔」という言葉も出てきます。

 わかっていただけるでしょうか。被爆者がなぜ社会から差別され続けてきたか。被爆者と結婚すると「奇形児がうまれる」というこの偏見にどれだけ被爆者やその子たちが苦しめられてきたか。

 せっかく「岩崎夫人」が、中絶を思いとどまって元気な赤ちゃんを産んだという、暖かい設定もあるというのに。

 被爆者や二世が、とたんの苦しみの中で産む選択をしてきた、私も含めた多くの人の歴史があります。今、この現代に、この演劇を全国でして回って、それがいまだに続く被爆者差別を扇動することにならないでしょうか。

 私は、観劇から10日経った今もなお、怒りがふつふつと沸き上がるのを抑えられません。まだまだ言いたいことがたくさんあります。それは、パンフの中にもあるような、この演劇をほめそやす人たちについても。「広島の人々が背負った「罪」」というタイトルで、劇評を書いた人。顔一面にケロイドのある女性が「売春してしか生きていくことができない女性」と書いています。それを何十回も顔の手術を受けながら、強く生き抜いてきた女性たちに向かって言えることでしょうか。また、彼はこうも書いています。「人々は、原爆の呪いにかかった時から、白黒つけることができないグレーの世界を生きていかなければならなくなる。それが原爆の十字架を背負いながら、戦後を生きるということなのだ。」「原爆と関わった人々は、罪を背負ってグレーの世界を悶えるように生きていかなければならない。社会はその生き方に黒白をつけるより先に、抱えているものの重さを知れ。」何が罪を背負ってですか。大きなお世話、あなたに言われたくないわ。下品だけど、私はそう思いました。

劇中にうたわれた「救いのない歌」についても。

また、明日に続きます。

 

 

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

 

 

 

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。広島ブログ

| | コメント (1)

兄の文章から②

兄の文章を続けます。小さいころから、私にとって兄は怖い人でした。それなのに花や小鳥が好きで、それが不思議でした。これらの文章を読んで、やっぱりするどく怖い人だと思います。その一方、子どもやお年寄り、障害のある人などには、とことん優しい人でした。その根底には、幼い頃に分かれたままの三人のわが子の存在があると私は思います。パソコンの中に、子どもと孫の写真のぺージがひっそりとありました。どうやって手に入れたのでしょう。


論理のすり替え         香住ケ丘バプテスト教会壮年会


                      2010.4.18 長谷川康行


. 論理のすり替え


1.    49日、日米密約訴訟の判決で東京地裁は、外務省の対応を「国民に対する裏切り行為」と断罪し原告全面勝訴の判決を下した。


1971年毎日新聞記者の西山太吉氏が日米間の密約の存在を示唆する記事を掲載。


「知る権利の侵害」に対して世論が噴出した。


当時東京地検特捜部で起訴を担当した佐藤道夫氏(のちに参議)は[空気を変える方法はないか考えた]と証言した。


国民に対する裏切りである国家的謀略を、男女関係のスキャンダルにすり替えることによってうやむやにしたのである。


2.  よくある話。交通違反で検挙された者が、違反の事実でなく「取り締まりのやり方が悪い」と抗議をする。いわゆる「逆切れ」であり、「すり替え」である。


.  私は最近2度この体験をした。


    委員会に疑問を呈したところ、委員は一所懸命にやっている。批判は間違っているとの異議であった。一所懸命にやっているかいないかの問題提起をしているわけではない。まさにすり替えである。


  また、転入会希望者に対する対応に疑問を感じて、問いただしたところ「物の言い方が悪い」とのおしかりをうけた。質疑の内容に関し         てではない。これもすり替えである。


.  このような論法は問題の本質を見えなくする。論点が2つになってしまう。だからそのような指摘は時を改めて別途検証すべきである。


.  何のために話し合いをするのか。


 「現時点の結論は正しいか。もしかして間違えていないか。もっと良い考えがありはしないか。人間は間違える存在であるから、確認が必要ではないか。」


   他人は自分の気付かなかったことを教てくれるありがたい存在であると思って、他人の意見を聴いているか。


   自分と異なる考えを吟味しないなら話し合いの意味もないし、進歩も無い。別紙、新宮文化に掲載した「全会一致は良いことか」は、そのよ   うな問題提起である。

次の文章です。

 私が生まれたのは1941年で
ある。


 序  


先の戦争は全国民を総動員したものであった。兵士とか戦場だけの話ではない。


女も子供も一般国民の多数の命が失われた。日本人では死亡した兵士は230万人、一般市民も80万人が死亡している。一例を上げると1945年3月10日の東京大空襲では27万戸の家が焼かれ8万4千人が死んだ。沖縄では兵士と同数の9万4千人の住民が死んでいる。


したがって兵士だけではなく当時生きていた全ての国民が戦争体験者である。


 
私が生まれたのは1941年である。


島根県松江市に生まれ、まもなく広島市に移り高校まで過ごした。


 1931年、日本軍の謀略によって端を発した満州事変以来、中国との長い戦争で国が疲弊し、遂に太平洋戦争に突入した年である。


したがって記憶にあるのは、物心ついた終戦間近以降である。


各地がアメリカの無差別爆撃に更されるに至って、山奥の親戚に避難していた。


爆撃から身を守るために、庭に掘られた穴(防空壕)の記憶があるくらいで、緑豊かで平穏な日々であった。


私の原風景であり、植物と土が好きな田舎志向はこの時期に刷り込まれたものだと思う。


  骨        


 戦争が終わって山奥の疎開地から広島市内に戻った。


当時遊び道具などは何もない。サッカーボールなどあるわけもなく、テレビも無ければゲームも無い。縄跳びや鬼ごっこ、唯一の道具と言えば空き缶くらいのものであった。


庭のあちこちに瓦礫の小山。そこらに転がっている真っ白い骨。それを蹴飛ばして遊んでいた。街なかゆえ大動物は考えられず、人間の骨であったに違いない。


 子供は土いじりと穴掘りが好きだ。小学校の校庭を5センチも掘れば小さな骨が無数に出てきた。それを両手にいっぱい乗せて遊んでいた。人間の指の骨であっただろう。それが何であり、何故そこにあるのか等考えたことも無い。ごく日常的な行動であった。


   同級生や教師で首から上半分がケロイド状になっている人が複数いた。耳はふさがっている。首から下は衣服で見えない。それが被爆によるものだということは皆分かっている。


  誰もことさら話題にしない。からかったりいじめたりすることも無い。


Img_6529


父の遺品の中から被爆直後の焼け野原に立たずむ写真が出てきた。広島市中心部で右後ろはキリスト教会と思われる。


当時父は旧制中学の教師をしていたが当日はたまたま伝令を持って観音の三菱軍需工場に行っていたので助かった。


教え子は全滅した。


原子爆弾爆心地の地上温度は3000度から4000度。


1㎡当たり19トンの圧力、


風速毎秒280メートル。


年末までの死者14万人。


太き骨は先生ならむ   


  そのそばに小さきあたまの骨あつまれり       正田 篠枝


2001.8 第6回アジア工芸展  「暁光Ⅱ」 小坪亭の玄関にあります。

Img_6523


 


『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。


 


広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。広島ブログ

| | コメント (0)

映画「ヒロシマ1966」④

「ヒロシマ1966」の監督、白井更生さんが、アラン・レネ監督の「ヒロシマ・モナムール(24時間の情事)」のチーフ助監督だったというのを知って、「ヒロシマ・モナムール」を観なければと思いました。昔の映画ですが、沢山の賞を取っています。実は、韓国の映画「四月の雪」の監督、ホ・ジノさんとソウルで会った時に、ジノさんが、「ヒロシマ・モナムール」の事を話していらっしゃいました。ちょうど広島で「ヒロシマ・モナムール」の女優さんが広島で撮影した時、個人的に撮った写真の展示会が開かれていたのを知っていたので、その話をしました。しかし、私はその映画を見ていなかったので、ちょっと後悔しました。

余り関係ないけれど、ホ・ジノさんの奥様とその姉妹と、私の家族が一緒に食事をしたので、その写真を貼っておきます。一番右がホ・ジノさんで隣がその奥様、そして私です。

Photo_20231005171001

しかも、その映画「ヒロシマ・モナムール」には、映画「ひろしま」のシーンが沢山挿入されていると知りました。で、DVDを調べてみたら、ありました。即、新品を買いました。

Img_6285 Img_6286

 二週間後に東京に行きますので、その新幹線の中で観ることにします。とっても楽しみです。それにしても、「ひろしま」がこの映画に挿入されて、全世界に発信されたこと、素晴らしいです。いろいろな経緯があったのでしょうね。

 「ヒロシマ1966」には、何度も言うように、加藤剛さんと松本典子さんが演じている二人の医師が出てきます。樺美智子さんが亡くなったあの60年安保のデモで、彼が瀕死の重症を負ったのを彼女が引っ張り出して助けた、それが縁で二人は恋人同士になります。佐世保でベトナム戦争で傷ついた米兵を治療している彼と、広島で被爆者を診ている彼女は、これからも決して結ばれないのでしょうが。二人の安保闘争での挫折の評価と、悲しいけれど熱い会話をシナリオで読んで、これは、やっぱり観なければと思うのです。が、この映画はDVDにはなっていないし、観る手段も分かりません。とても残念です。

 これで、映画「ヒロシマ1966」については終わります。ふとしたことから調べてみたのですが、いろいろと知れてよかったと思います。あ、白井更生さんも吉川清さんもずいぶん前に亡くなられていますが、広島大学の映画研究会の方たちはどうしていらっしゃるでしょうか。青春の一時期をかなり濃密にご一緒したのも懐かしいです。それから、これは思い上がりですが、その役、絶対私がやった方がよかったと思いました。だって、就職試験がうまくいかないその頃、彼女は猛烈に、後輩が音を上げるほどバスケットに打ち込むのですが、スクリーン上の彼女は、まるで幼い子どものまりつきでしたもの。それくらい、練習をすればよいのにとあの頃私は思ったものです。もちろん、撮影の間、私はずっと彼女と仲良くしていたし、旅館に行って一緒に演技の練習をしたり、方言の指導もして過ごしましたよ。望月優子さんには、ご挨拶をしても、じろりとにらまれて、一言もお声をかけて頂けませんでしたけれど。

 読んで戴いてありがとうございました。

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。



広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。広島ブログ

| | コメント (1)

映画「ヒロシマ1966」③

映画「ヒロシマ1966」のストーリーはこんなの。ネットにいろいろとありましたが、これが一番まともに思えたので。


一九六六年、広島。平和公園で、みやげものの屋台を並べる、被爆者の一人川村しのは、何か落ち着きがなかった。それというのも、娘真弓の入社試験の発表が追っていたからだ。「芸備工業」は、被爆の後遺症で死んだ夫が勤めていた大会社で、この会社に真弓が合格すれば、原爆病の恐怖に戦きながらも、二十年間頑張り通したしのは、安らかに死んでいけると信じていた。

 そして父の悲惨な記憶から逃れようと、上の娘恵子が家出した今、頼るすべは真弓だけだった。矢も盾もたまらなくなったしのは、亡夫の友人、「芸備工業」牧田経理部長を訪ねた。必死なしのの願いも空しく、牧田はしのを冷くあしらった。真弓の担任の松本先生が、大会社は片親の子供は採用しなくて、決して真弓の成績が悪かったのではないと励ますが、しのの気持は閉ざすばかりだった。

 --一方、ベトナム戦で負傷したアメリカ兵を扱う佐世保病院に勤める、青年医師田岡一夫と、広島原爆病院の女医内山淳子が広島の雑踏の中を歩いていた。将来を誓った二人だったが、安保闘争の挫折から二人の愛に亀裂が生じていた。田岡は、時々淳子のもとを訪れ、互いに満たされぬ一夜の交歓にひたり、そそくさと佐世保に帰る、そんな状態がもう長く続いていた。

 --すっかり働く意欲をなくしたしのは、原爆病だから国が面倒みてくれるとふてくされ、床を離れようともしなかった。数日後に漸く床を離れたしのは、真弓と共に亡夫の眠る木次に墓参りにいった。田舎の澄んだ空気は、しのに再び活力を与えた。真弓も零細企業だが、町工場に就職できたし、川村母娘に明るさが蘇った。

 そんなある日、しのは真弓の運転する自転車に乗せてもらった。自転車が平和公園の前を通る時、突然しのの脳裡に原爆の閃光が現れ、自転車から転げ落ちた。しのは、心身ともに限界にきていた。

 驚いた真弓は恵子に援助を頼んだか、恵子は涙を浮かべながらも、かたくなに拒否するのだった。母に代わり、屋台をひいて家路を急ぐ真弓、背後に、電光ニュースが、正月休戦を終え再開したベトナム戦争の激しさを伝えていた。

まあ、言ってみればこれだけのことなのですが。

実は、私はネットをうろうろしていて、こんなのをみつけたのです。すぐに頼みました。映画と同じ58年前の本です。そしたら、今日、書留で届きました。びっくり。頼む時には、この映画の何かがあるらしいということだけだったのですが、開いてみて、本当にびっくり。「ヒロシマ1966」のシナリオが載っていたのです。それと、白井更生監督の文章も。

Img_6284 Img_6281 Img_6282 Img_6283

 読んでみて、改めて感じ入りました。白井さんも、それから映画の登場人物も、みんな戦争を体験しており、それからこの時代は安保闘争の後、そしてベトナム戦争の真っただ中であるということです。そんな時代の中でこそ、白井さんが言いたかったことがぼんやりとわかってきました。今日でこれについては終えようと思っていたのですが、こんなものが手に入ったので、もう一回、あすにも書きたいと思います。

 明日は、木曜日の休診日。年一回のドックです。胃カメラやマンモグラフィーや、苦痛なのもいろいろ。何もありませんように。

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。



広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。広島ブログ

| | コメント (0)

映画「ヒロシマ1966」②

 当時は、オーデションという言葉なんて知らなかったけれど、後で監督が話してくださいました。エキストラの募集のようにしたけれど、実は、誰か主役がやれるような人がいないかと、その目的があったのだと。結局映画に出るとなって、いろいろと大変でした。監督と吉川清さんと、まだ他にもどなたかが家に来て、両親と長く話していました。父は広島二中の教師をしていました。その被爆の状況、吉川さんの被爆の事など、ずいぶん気があって話をしていました。私はそばで聞いているだけでしたが、吉川さんが、「子どもはできんのです。」と言われたことが強烈に残っています。背中一面の大やけど、そのケロイドは、私も小学校の時に平和公園で見せて頂いたことがあります。そんな大変な火傷と放射能で、子どもを作る能力が失われたということなのでしょう。

 それから、台本を渡されました。まだ完成稿ではないけれど、と。私のする予定の役は、高校のバスケット部でした。私は、バスケ部だった友人にお願いして、卒業したばかりの高校のバスケのコートで、教えてもらいました。パス、ドリブル、シュート、体育の授業でしたバスケットも好きだったのですが、結構早くマスターできました。監督は、準備のために一旦東京に戻るけれど、入学試験の結果を教えるようにと。撮影のスケジュールは、ちゃんと考えるからということでした。

 合格を確認して、当時ですから、丁寧にお手紙を書きました。吉川さんには、ずいぶんと可愛がっていただきました。ごはんを食べたり、奥様がなさっているお店に行ったり。即興で詩を作って、曲も作って、その場で歌って下さりもしました。きっと、娘のような気持ちでいらっしたのだと思います。

 それから、白井監督が帰って来られて、話がありました。私にしてもらいたかった役は、母親役の望月優子さんのお嬢さんがすることになったと。望月さんが強く主張なさって、娘がその役をしないのだったら、自分は降りると。監督は、山田五十鈴さんとか、いろいろと探されたそうです。でも、どなたも急なことでスケジュールが無理で、どうにもならなかったそうです。そのことは、監督さんからではなく、広大の映画研究会の方に聞きました。望月さんは、「こんな大切な役を、素人の女の子ができるわけがない」と言われたそうです。私は、「いい映画を作って頂きたいので、そのために協力をします。」と言いました。監督は、台本の中の、私が改めて演じることになった友人の役の出番をずいぶん増やしてくださいました。


 撮影は、一か所は当時被団協があったビルの地下にある喫茶店で。私は、そこを切り盛りする女性の娘の役でした。高校から帰ると、その喫茶店で働いています。そこで、主役の少女といろいろと話をするというシーンなど。思い出は沢山あります。

 わたしが残念なのは、私はまだそのころは子どもでした。もう一組の主役、加藤剛さんと松本典子さんのカップルについて等、何にも知らなかった。60年安保で挫折した医師同士の事。安保なんて知るのは、私が大学に入ってしばらくしてからです。だから、もう一度見てみたいと思うのです。

Img_6232_20231004013501

次回、この映画のストーリーなどお話しますね。それで終わります。

 

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

 

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。広島ブログ

| | コメント (0)

「8.6ヒロシマ平和の夕べ」がYouTubeでアップされました。

「8.6ヒロシマ平和の夕べ」は、IWJのおかげで、全国に配信され、さらにその映像が二回に分けてアップされておりました。この度、これがYouTubeでアップされています。今回は、二回に分けず、一回で長時間の会がすべてアップされています。アドレスはこちらです。

https://www.youtube.com/watch?v=Ovrp0p8bXkc

また、映像にはすべて広島県手話通訳問題研究会の皆様による手話通訳がともにアップされています。聞こえの不自由な方もどうぞ、YouTubeでご覧ください。

その一部です。

Img_5441_20230819012701 Img_5443_20230819012701 Img_5442 Img_5460 Img_5463 Img_5464

是非、動画でご覧くださいませ。

今日、eテレで福島の甲状腺がんの当事者の話を聞きました。

Img_5447

もう、こんなにたくさんの人が甲状腺がんの手術を受けているというのに。

Img_5448

広島であったのと同じような差別、誹謗、中傷。政府や東電や、それに加担する医学会が責任を取らない今の状況の中で、当事者の方たちに声を上げることを強いることはできません。それを私たち自身がどうするのかが問われていると思います。eテレ、いい番組を作りますね。

 

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

 

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。広島ブログ

 

| | コメント (0)

映画「ひろしま」について

台風ですね。私は墓参りのために別府にいました。今日15日に広島に帰るつもりでしたが、どうにも15日に台風が近づきそうだとの報道で、急に昨夜に帰ることにしました。夜の高速は嫌なのですが、しかたなく。午前1時に帰り着きました。家に近づいてきた時、突然覆面パトがサイレンを鳴らして私を追い抜いていきました。びっくり。私の前を走っていた車もブレーキを踏んで、肝をつぶしたようです。そしたら、すぐにまた後ろから今度は覆面ではないパトがサイレンを鳴らして追い抜いていきました。なにがあったんだろうと思うと、事故でした。車とバイク。あのバイクの転び方からは、死亡事故かも。まだ交通規制もされない、事故ったばかりの生々しい所です。すくに反対車線からもパトがサイレンを鳴らして駆け付けていました。急に怖くなりました。実は、廿日市インター出てバイパスに乗るのを間違えて、もたもたして結局時間をかけてバイパスに乗りました。あれをスムーズに乗っていたら、もしかしてバイクとぶつかったのは、私かもしれません。急に怖くなりました。無事に帰り着いてよかったです。できるだけ夜の高速等は乗りたくありません。夜ゆーぽっぽに行くのもやめたいのですが。

 終戦記念日です。

 映画「ひろしま」は、広島では8月4日から10日まで上映されました。広島の人だけでなく、世界中の人に見て頂きたい映画です。2019年にNHKeテレで放送された映画ひろしまについての番組がここにあります。

https://www.dailymotion.com/video/x8li1gp

多少コマーシャルがうるさいですが、スキップしながら観ます。この映画が作られたいきさつ、当時の助監督だった熊井啓さんが残した膨大な資料、早志百合子さんなど出演した方たちの当時とその後、この映画を上映中止にした大手映画会社の理由。その後、この映画の上映活動をしている方たち。アメリカのハリウッドの方が、この映画のデジタル化の資金を出して下さったこと。今年もした八丁座の蔵本純子さんがこの映画は継続して上映をするという決意のお話し、などなど。

Img_5389_20230815150101

この映画のラストシーンは、何度見ても涙が溢れます。

また、先日、8月4日にテレビ朝日、大下容子のワイドスクランブルでも、早志さんに焦点を当てながら、この映画の紹介をしています。

Img_5394

その動画がユーチューブで観られます。ここにあります。

https://youtube.com/watch?v=WXJuF3WSwZl&feature=share

なお、映画は、作成から70年経って著作権の問題が消滅して、だれでも見られるようになりました。
前編はここに。

https://www.dailymotion.com/video/x7gpz0p 

後半はここにあります。

https://www.dailymotion.com/video/x7gda45

終戦記念日にふさわしい番組と映画と思います。
 

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。



広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。広島ブログ

| | コメント (1)

「8.6ヒロシマ平和の夕べ」・福島から「被曝の安全量はない」

「8.6ヒロシマ平和の夕べ」は毎年「福島を忘れません。」いえ、3.11の震災、原発事故が起こる前から、原発の問題は、必ず取り上げてきています。今年は、鴨下美和さんにお願いしました。鴨下さんは、これまでの平和の夕べで語って頂いた鴨下全生さん、ローマ法王に会いに行き、抱きしめられたあの彼のお母さんです。鴨下さんのお話しは、あまりに胸を打つので、どうか私のこのつたない報告ではなく、ぜひ動画を見て下さいませ。

Img_5170

「なぜ、男性は悲しい時笑うのでしょう。幼い時から男は泣くなと言われ続け、本当に悲しい時、自虐的に笑いながら話すのだということを知りました。」お連れ合いは、厳しい差別の中で家族と離れ離れになって暮らすそのつらさで、だんだんと壊れていったと。ああ、広島に避難している、平和の夕べで証言をして頂いた渡辺さんも、そう語っていらっしゃいました。それから、ローマ法王に会いに行った長男の全生さんの心からの叫びも、動画の中で再現されています。ぜひぜひ見て下さいませ。

https://iwj.co.jp/wj/open/archives/517863

Img_5173

小林憲明さんが描かれた「ダキシメルオモイ」の複製をもってきて下さいました。左の鴨下さんの絵を見た下の子が、これは嘘だといったと。お母さんは、こんなに笑っていないものと。原発事故の前のお母さんを描いてくれたのだと、夫が言ってくれたと。ローマ法王と全生さん。そして、右は、やはりこの会でも証言して下さり、「災害からの命の守り方」の著者でもある森松明希子さん。今年の会にも参加して下さいました。そして子ども脱被爆裁判を中心になって闘って下さっている水戸喜世子さんもいらっして下さいました。

ここに、鴨下さんが原告である伊方原発運転差し止め等裁判の意見陳述要旨をここに再現させて頂きます。

本日は意見陳述の貴重な機会を与えていただき御礼を申し上げます。私は原告の鴨下美和と申します。現在東京に住んでいます。先月、私は、ふるさとの福島県いわき市の共同墓地にいました。墓地の中央には、大きな、白い石の十字架。やっと、訪れることができた懐かしい風景に、自然と涙が溢れました。しかしその足元の土には、今でも数千Bq/kg 注 1 の放射性物質が含まれているのです。

11年前の原発事故当時は、その数十倍から数百倍の汚染があったにも関わらず、私たちの住んでいた福島県いわき市注2 には、一度も避難指示が出されませんでした。私は、放射線被曝を逃れるために子どもたちを連れて避難した、いわゆる自主避難者です。家があった場所は、爆発した原発から南に40km。事故当時、長男は8歳、次男は3歳。彼らを放射線被曝から守るためには、無理をしてでも、避難するしかなかったのです。放射性物質を扱う施設で実験を行う私と夫は、大学の研究室で出会いました。そこでは遺伝子を扱う実験のために、放射性物質を使用することもありました。その際は、研究棟とは別棟の放射線管理区域注3 に指定された建物の中で、細心の注意を払って実験を行いました。今でいうガラスバッジ注 4を付け、自分が被曝しないための操作はもちろん、間違っても管理区域の外へ放射性物質を持ち出さないために、厳
しく管理された中で実験を行っていました。

 あの事故が起きるまで、研究室はもちろん、病院や、原発の敷地内であっても、放射性物質はそのように厳密に管理されてきました。(現在でも、この原則は、全国の放射性物質を扱う施設では厳密に守られている。もちろん飲食厳禁である。) だから福島県いわき市内にある共同墓地。水石山という、市街地に近い山の中腹にある。

私たち夫婦にとって、自分の家や、子どもたちが遊ぶ場所に、大量の放射性物質が降り注いだこと、そしてそれが全く管理されないまま、風雨で移動し、子どもたちが吸い込んだり、素手で触れられるようになってしまったことは、心が壊れる程の恐怖でした。

過酷な避難生活

避難生活は困難を極めました。始めは私の実家のある横浜へ。次は夫の親が暮らす東京へ。親族とは言え、そう長く居候もできませんから、その後はアパートやホテルを転々とし、4月の末にやっと避難所に入り、夏には古い官舎の避難住宅へ。賠償金の出ない私たちには、避難の継続のためのお金が必要なので、夫は4月には福島へ戻って業務を再開しました。週末には、車で250km の道のりを飛ばして、私たちに会いに来てくれましたが、日曜の夜、別れのたびに、4歳の次男が布団にもぐって、声を殺して泣くので、胸がつぶれる想いでした。当時、夫が電話越しに、シンチレーションディテクター注5 の音を聞かせてくれたことがあります。チチチチという検出音が、やがてチ―――という鳴りっぱなしの甲高い音に変わります。生活空間にあってはならないものがそこにある。その危険を知る夫にとって、そこで働くことがどれだけのストレスであったか、想像に余りあります。

誤解と無理解に起因するバッシング

放射能は目に見えません。仮に測定機器があっても、知識と事故前の数値を知らなければ、その危険性はわかりません。国の避難指示が無かったこともあり、いわきは汚染などしていない、全く問題がない、と信じている周囲の人たちの中で、除染や被曝防護を訴え続けた、唯一その危険を知る夫は、罵声を浴び、差別を受け、次第に孤立し、頭のおかしい人と、思われるようになっていきました。更に、身近な若者の突然死が二度続き、それに関わってしまったこともあって、夫は心身共に壊れていきました。会うたびに髪が減り、皮膚が年寄りのようになり、やがてろれつがまわらなくなりました。見るに見かねた私は、夫に仕事を辞めて一緒に暮らすことを提案し、事故から2年後に、夫も避難者となりました。

否定しがたい放射線被曝被害

避難所や避難住宅では、うちの子に限らず、鼻血を出す子が多くいました。それも、見たことのない程、酷い鼻血です。吹くような、吐くような勢いで、鼻血が両鼻から出たり、それが喉をまわって口からも出る。綿やティッシュでは追い付かず、洗面器やレジ袋で、流れ出る血を受ける子どもたち。それが30分経っても治まらない。深夜に、若い母親から、どうやったら娘の鼻血を止められるのかと相談を受けたこともあります。結局、息子は手術で鼻血を止めました。テレビでは環境大臣までが、原発事故と鼻血の関係を否定しましたが、科学は現実に起きていたことを否定できるものではありません。実際に、岡山大・熊本学園大・広島大らのプロジェクトチームによる疫学的調査でも、当時の鼻血には有意差があることが認められています。中通りで暮らす友人からは、息子の学校には紫斑病の子が多く、入院してしまった子もいる、という話も聞きました。小児甲状腺がんを患った子どもたちが原告となった裁判注6 も起きています。政府に選ばれた学者たちが、事故との因果関係を否定したとしても、現実に小児甲状腺がんに罹患している子どもたちが、福島県内だけで300人を超えていることは、動かしようのない事実です。

放射線被曝に安全量はない

安全な放射線被曝などありません。電離放射線注7 の人体への影響は、確率的です。少しの追加被曝なら大丈夫なのではなく、低い確率ではあっても、確実に放射線被曝被害は起きている。でも、そのような被害が起こりうることを、政府は完全に無視してきました。殆どの人は、11年前の原発事故によって、今も東日本の広い範囲が、100Bq/kg 注 8 以上の汚染土壌となってしまっていることを知りません。事
故前であれば、黄色いドラム缶に入れて、厳重に管理しなければならないレベルの汚染が、今も東北と関東に広がっているのに、その危険をきちんと伝えず、被曝させ放題。こんな無責任極まりないこの国に、原発を動かす資格などあるでしょうか。
 今、私たちは、低線量被曝注9 によって病気を発症しても、原因は不明のまま。おそらくは生活習慣のせいと片付けられます。そんな『運の悪い人』が、静かにじわじわと増えている。セシウム137の半減期注 1 0 は30年。今ここにいる全ての人が亡くなったあとも、福島原発からばらまかれた放射能は、静かに生命を蝕み続けるのです。



蹂躙される基本的人権

 そんな福島の放射能汚染が、全く元通りにならないままなのに、政府の勝手な判断によって、避難住宅の提供も打ち切られました。私たちは署名を集め、内閣府や各省庁と話し合いをし、無用な被曝を避ける権利を求めて訴え続けましたが、官僚たちは壊れたレコードのように、全く答えにならない文言を繰り返すばかりでした。国が聞こうとしないのなら、と、国連や、ローマ教皇にも直接訴え注 1 1 ました。しかしこの国は、国連の勧告注 1 2 にも正面から向き合わず、ローマ教皇の説教注13 も聞き流してしまいました。そして6月の最高裁判決注 1 4 では、国にはこの事故に対して責任はないという、無責任極まりない判決が出されました。正義は、私たちの人権は、一体どこに
あるのでしょう。『原発事故の避難者は、十分な賠償金をもらって、新しい家に住んで贅沢な暮らしをしている』というような、事実とは全く異なる風評によって、私たちは、いじめや差別に遭いました。息子は当時受けた過酷ないじめによって、今も心を病んでいます。仮に多額の賠償金がもらえていたとしても、それで奪われた人生を取り戻せるものでも無いのに、ただひとこと、『辛い』と言葉をもらす自由さえも奪われるのです。原発によって歪められたお金は、人に幸せをもたらすことはありません。

被害者の声は未来への警告

私たち被害者は、その属性を知られるだけで、差別に晒されます。被害を訴えれば、復興を妨げる風評加害者だと攻撃されます。ましてや顔と名前を出して訴訟など起こせば、隣人や親せき、時には家族からも攻撃され、それまでの生活を失います。それでも、被害者が声を上げるのは、あまりの不正義と理不尽があるから。そして同じ苦しみを持つ人がたくさんいるからです。黒い雨を浴びた方々や、小児甲状腺がんに罹患した子どもたちが裁判を起こしたのも、同じ苦しみにある人たちがいたから。私たち被害者の声は、未来への警告です。この陳述の冒頭に述べた共同墓地には、まだ墓石の無い草地があります。そこが、いつか私が眠る場所です。死んだら福島に帰れる。そう決めた日から、少しだけ心が楽になりました。帰りたい、という言葉をずっと封印してきた11年。生まれた場所ではないけれど、夫と結婚し、初めて家を建て、子どもたちが生まれ、たくさんの幸せを育んできた福島が、今でも私のふるさとです。願わくは、私たちのような思いをする人が、二度と出ないように。これ以上、原発によって国土が汚染され、人々の暮らしが歪められないように。祈りを込めて、私は、伊方原発の再稼働に反対します。
ご清聴ありがとうございました。

 鴨下さん、心のこもった訴えを本当にありがとうございました。参加の皆さん、心打たれたことと思います。まだまだ苦しい闘いの日々が続くことと思います。どうぞ、お子様たち、お連れ合い、ご家族の皆様と共に安らかな日々が来ることを願っています。応援しますね。

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。



広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。広島ブログ

| | コメント (0)

より以前の記事一覧