演劇「神戸ハナという女の一生」

昨日のブログで、観音高校の音楽部OBの皆さんにお願いに行ったというのは、このことです。

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観音高校の演劇部の、私の二級先輩の伊藤勝昭さんが構成、演出の舞台劇を故郷広島に持って来られます。私が高校一年生の時、「像の死」で、共演しました。伊藤さんはその後広島大学に入学されましたが、途中でやめて、東京に行き、俳優、演出の道を歩まれました。私もですが、伊藤さんなどの後輩を引っ張って下さったのが、広島テレビの脇田義信さんです。脇田さんが亡くなって丁度20年。その追悼公演にもなります。

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 そして、観音高校音楽部OB会は、原爆で亡くなった観音高校の前身、広島二中の一年生の全滅の記録、合唱曲「いしぶみ」を毎年上演しています。今回、伊藤さんの演劇と合唱「いしぶみ」のコラボを企画しました。

これについて、実行委員長の板倉さんがフェイスブックに書かれている文章を許可を得て、転載させていただきます。


▼小山祐士作、伊藤勝昭構成・演出 劇団世代 舞台劇「神部ハナという女の一生」広島公演を広島県立広島観音高等学校演劇部OB会主催で開催します。

▼舞台劇「神部ハナという女の一生」は、広島県立広島観音高等学校演劇部OBで「劇団世代」に所属し、約60年にわたり演劇構成作家並びに演出家として活動してきた「伊藤勝昭」が、福山市出身の劇作家「小山祐士」の放送劇「神部ハナという女の一生」を構成し演出したものである。

▼被爆81周年の今年、くしくも、伊藤勝昭が観音高校演劇部で舞台にのめり込むきっかけを与えた、脇田義信の逝去20年にあたる。演劇部OB会の発起人でもある脇田義信の追悼記念公演とすることにより、原爆劇の継承と、広島の演劇文化の育成に寄与することを目的とします。

▼さらに、第二部は、観音高校前身の旧制広島二中の一年生323人
が犠牲になった原爆被害や家族の悲しみを訴える合唱組曲。作詞は旧二中、出身の薄田純一郎氏「レクイエム『碑(いしぶみ)』」観音高校音楽部OB合唱団によって永年、歌い続けられてきいるものです。

▼前売りチケットは、チラシの裏面に記載している通りEメール、 もしくはSNSで申込いただく方法です。

▼伊藤勝昭が、故郷広島への思いをこめて、舞台劇として構成したものです。是非、多くの皆さん、特に若い人たちに観ていただきたいものです。

チケットの部分だけ拡大しますね。チケットは、私のクリニックでも販売します。

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この演劇は、広島の被爆の後、子どもを産んでもいいのかと悩む女性たちと、産むことができない女性の中絶を違法ながら人助けとしてしてきた女性ハナの物語です。ハナは、自分の子どもをみんな戦争と原爆で亡くしてしまっています。

 多くの方にお会いできますように。

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なぜ広島・長崎だったのか・核兵器禁止条約

 核兵器禁止条約は、2017年7月、国連本部で122カ国が賛成して、採択されました。これは、全国連加盟国193の国と地域の3分の2近くになります。そして、2021年1月22日に、批准国が50カ国を超え、新たな国際法として発効しました。

 それにあたって、「8.6ヒロシマ平和の夕べ」のスタッフ、竹田が一文を寄せて下さいました。これまでも多くの人が、それも自分自身は何の傷も背負わず、何かの運動らしきことをして、それが免罪符のごとくにふるまい、広島の、特に被爆者の運動に対して、この文の中の映画監督の様なことを言っています。それに対して、私もいつものどに小骨が刺さっているような不快な思いをしてきました。

 私は、特に原爆直後から、体中に火傷や放射能を浴び、住む所も食べ物もない中で何とか生き抜き、やがて核兵器反対の運動を細々とはじめ、それも地道に絶えることなく続け、世界中に訴え続けている被爆者の運動を尊敬しこそすれ、この監督に様なことを言う人たちに、強い違和感を持ちます。


 日本のアジアの国や人々に対する加害性を、その責任を被爆者に求めることは間違っていると。その前に、自分たちはどうなのかを自らに問え、と思っています。ヒロシマの運動と一言でいうけれどそれをはだしのゲンの中沢さんにも言えますか?全身ケロイドで、時にはその姿を人々の目にさらしながらも、そして、アカ攻撃で公安に付け回されながらも被爆者が自ら語り合い、手を取って泣きながら、みんなで励まし合いながら夜行列車に乗って国会に訴えに行った、吉川さんなど初期の運動を闘った被爆者の方々にも、それを言いますか?

 アジアの加害の責任のためにこのような目に遭ったのだと。まるで被爆者にその責任があるかの様な言い方は間違っていると思っています。

竹田さんの文をここに載せますね。

核兵器禁止条約採択から9年、発効から5年。

なぜ広島・長崎だったのか

高市首相の側近が「日本は核兵器を持つべき」と発言した。「原爆を知る」広島、長崎の被爆者、被団協は怒った。

核兵器禁止条約が国連で採択され、2021年1月に発効した。採択から9年となる。条約第1条は、「締約国はいかなる状況においても、『核兵器の…開発、実験、製造、生産、あるいは獲得、保有、貯蔵』を実施しない」と明記している。日本は唯一の「戦争被爆国」でありながら、署名も批准もしていない。締約国会議に、オブザーバーとしても参加しない(折り鶴が置かれた、欠席の日本席=写真)。

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「軍都」だからか

戦前、広島には第5師団司令部、旧陸軍「被服支廠」(軍需品の工場、倉庫)など軍事施設が置かれていた。宇品港近くには陸軍船舶部隊なども配備され、「軍都」と呼ばれた。被服支廠はいまも崩れかかったレンガ壁や、歪んだ窓の鉄枠が並ぶ建物が保存されている。

「だから原爆が投下された」と言う人もいる。それは、私には「後付けの理由」のように思われる。何年か前、ある映画監督の女性と話したとき、少し「論争」になった。彼女は、「広島は軍都だった。軍事施設があったから原爆を落とされた」「広島の人たちは、広島が朝鮮・中国・アジア派兵の拠点だったという反省がない」…と言う。しかし、軍事施設、軍需工場、軍港などは他の都市にもあった…。「戦争に加担し、反省がない」のは日本中だった。なぜ「広島・長崎」だったのか。

アメリカの意図は、どこにあっただろうか。アメリカは1945年7月、「核分裂の巨大なエネルギー」を兵器とし、初めて「3発の核兵器・原爆」を完成させた。1発は、ニューメキシコ州アラモゴードの砂漠で実験爆発させた。長崎被爆者・作家の林京子は、トリニティサイトを訪れたときのことを、「トリニティからトリニティへ」(『長い時間をかけた人間の経験』=講談社)に記している。

数十万の都市、人間に

実験で、原爆の威力はわかった。しかし、「数十万の都市、人間に」投下すれば、どうなるか。それが、アメリカが最も知りたかったことだろう。当時、広島の人口は、約35万人だった。日本の植民地支配により、朝鮮半島から移住させられた数万人の韓国・朝鮮人も住んでいた。太田川など七つの川が流れる平野の広島、半島に囲まれた長崎…。

米軍はマリアナ、サイパンなどの基地に原爆投下のためのB29特別爆撃隊を編成、周到な準備を行なっている。重い危険な原爆を積み、目的地まで長距離を飛行しなければならない。目標上空で投下し、巨大な爆発と爆風から急速反転し離脱する…(計画と訓練の様子は、『原爆の落ちた日』半藤一利ほか著=PHP文庫に詳しい)。

1945年8月初め、日本は戦争を続ける力はなかった。アメリカは、7月26日に原爆の爆発実験を成功させ、すぐに2週間後に広島・長崎に投下した。アメリカの目的は「人間への投下」結果を知るとともに、「原爆の威力」を世界(とくにソ連:当時)に見せつけ「戦後の世界支配をアメリカが握る」ことにもあっただろう。
           (以上、竹田雅博記)

以下、河野記

原爆の投下目標地はいろいろと候補が挙げられました。地形的に、また居住地が密集していることなどで被害効果が測定しやすいこと等が検討され、最終的には広島・小倉・新潟・長崎としました。京都は最有力候補でしたが、文化遺産が多いということで、スチムソン陸軍長官の反対で外されたこと。長崎は、小倉の上空が当時視界不良で長崎に変更されたとの情報もあります。

 大量の人命を奪い、生き残った人たちの放射能の影響を調べる、正に巨大な核兵器の人体実験が広島と長崎になされたのでした。

 三度核兵器は使ってはならないこと、核兵器製造に繋がる原発は廃棄、その根底には、すべての戦争に反対することが当然あります。自ら二つも三つもがんにかかり、命を懸けて訴え続けてきた、それらの被爆者の運動をだれが批判できる資格があろうかと思います。私は、その映画監督の映画も度々観ましたがもうこれからは観ることはないでしょう。

 

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中国放送秋信記者の天皇への質問

28日日曜日のTBSの「日本の今がわかる!激動の100年ニュース」。途中で用があって全部は見られなかったのですが、クリニックでの仕事を一休みとテレビをつけたら、ちょうど天皇の記者会見にて、中国放送の秋信記者が原爆投下の質問をされた、その場面でした。あわてて、スマホで写真を撮りました。後で考えたら、動画を撮ればよかったのですが。

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この質問のことは、秋信さんの後輩たちが作られた報道やドキュメントによって、広島では知られたことだと思いますが、これが全国放送で流れたことはすごいと思いました。それでも、秋信さんが、「原爆について私なりに取材をしてきた」という風にいわれましたけれど、なんと言っても、秋信さんと言えば、原爆小頭症、きのこ会の設立と活動に尽力された方、それが出なかったのは少々残念でした。今のきのこ会の事務局長、平尾さんの著書、「広島のともしびは、その副題が原爆小頭症「きのこ会」と記者・秋信利彦」となっています。このような背景の中で、秋信記者のあの天皇への質問があったのだと知ってもらいたいと思いました。

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漫画「いしぶみ」

 昨夜、なんか寝そびれて漫画を手に取りました。ずっと以前、今年の8.6ヒロシマ平和の夕べの反省会をしたとき、竹田さんから頂いた漫画です。これまで、なんか読むのがゆううつで、そのままにしていました。

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広島二中一年生の全滅の記録「いしぶみ」が漫画として再現されたのでした。

これは、私の父の本、初版本です。

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今はとてもきれいな表装です。

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漫画、寝るどころではなく、すべて一気に読みました。そして、ますます寝られなくなりました。布団の中で泣きました。中学一年生、12・13歳の子どもたちがどんな目に遭い、どんな悲惨に死ななければならなかったか。一人ひとりの死にざまが絵と文で描かれます。

 どうしてこんな残酷なことができるのだろう。戦争は、今も世界のあちこちで続いているけれど。戦争の体験を読めば読むほど、どうしてこんなことに日本中が突き進んでいったのか、それがやっぱりわからないのです。わからないと言っている内に、次の戦争が引き起こされるかもしれない。多くの若者たちが、高市政権を支持しているという報道を見る度に、平和教育は一体どうなっているのかと焦る思いです。来年の8.6ヒロシマ平和の夕べもしっかり開催しようと思います。


 


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ユン・ドンジュさん

 私は、今回この演劇「星をかすめる風」を見るまで、恥ずかしながら「ユン・ドンジュ」さんのことは知りませんでした。でも、韓国では教科書に詩が載っていたりして、みんなが知っているほど有名な存在でした。私の韓国語の李先生ももちろん、同じ教室の小林さんも知っていると。

 クリスチャンであるユン・ドンジュ氏は、現延世大学を卒業後1942年4月立教大学に入学、10月に同志社大学文学部英文学科専科に転入します。1943年7月、もう故郷に帰る予定で送別会もすんでいた所で、従兄と共に治安維持法で逮捕されます。そして懲役二年の判決を受け、福岡の刑務所に収容されたのです。

 演劇の中での会話です。「どうして逮捕されたの?」「詩を書いたから」「詩を書いてどうして逮捕されるの?」「朝鮮語で書いたから」「どうして朝鮮語で書いたの?」「朝鮮人だから」本当に当たり前のことなのに。日本人がアメリカに行ってもブラジルに行っても、日本語と日本の文化は大切にするのが当たり前なのに。

 序詩

死ぬ日まで天を仰ぎ
一点の恥じ入ることもないことを、
葉あいにそよぐ風にも
私は心痛んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そして私に与えられた道を
歩いて行かねば。

今夜も星が風にかすれて泣いている。

福岡の刑務所に乗り込んできた九州大学の医療班。医療を施すふりをして、囚人たちに人体実験をしていました。わけのわからない注射を打たれて。彼がこれまで書いてきた詩や文も押収され、焼かれてしまいました。彼が亡くなった後、遺体を引き取りに来た父親に、従兄がわからない注射を打たれていると言いました。そしてその従兄もほどなく亡くなっています。アメリカ人の捕虜にした人体実験は戦後問題になったのに、刑務所でひっそりと亡くなっていった朝鮮人の囚人たちのことはなにも知らされないままです。

以前、譜族という演劇を見ました。日本が、朝鮮人たちの名前を奪い、言葉を奪ったこと。それに抵抗する人達の演劇でした。創氏改名をしない人達には、ひどい差別をしました。それらに苦しんで、結局は主人公は身を投げて自死してしまいました。やはり日本がやったことは許されないと思います。

 私は、アジアの人たちに日本の戦争推進者たちがしたことと、日本の若者たちにしたこと、多く若者たちの命を奪ったことは同じく許されないことだと思っています。それだけでなく、沖縄をはじめとして、日本本土の空襲で逃げまどい殺された人たち。原爆により子どもたちも含めてあらゆる年代の人々が焼かれ亡くなっていったこと。なんのために戦争をしたのでしょうか。

 私は、以前、韓国の「八月のクリスマス」やぺ・ヨンジュン氏の「四月の雪」などの映画監督、ホ・ジさんと食事をしたことがあります。その時、韓国人の反日感情と、日本がやってきたことを考えればそれは当然でもあること等を話した私に、ホ・ジノさんは、「国に対してと、一人ひとりの人に対しての感情は異なるものだ」と言われて本当に助かったことを思い出しました。

その時のことを書いています。良ければ読んでみて下さい。

http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-e24c.html

その時の写真です。

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日本がやってきたこと、それに対して私たちがどうしたらいいのか、国がちゃんと謝罪をした上での外交をしないから、いつもでも私たちはうしろめたさを持ち続けなければなりません。

回天のブックトークを聴き、ユン・ドンジュ氏の演劇を見たことで、そんなことを考えました。まだまだ私たちの課題は続きます。


 


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回天とユン・ドンジュ氏

 回天や飛行機などの特攻隊員の戦死者数。特攻隊戦没者慰霊顕彰会によると、海軍が4146人、陸軍が2225人の合計6371人とされています。これらの若い人たちは、日本国ため、天皇の為、家族のためにと、純粋にそう考えて、自分の命を懸けて戦ったのでしょう。若者たちは、教育により、洗脳されて行ったのでしょう。

 しかし、戦争は一体、誰が初めて、どうやってこのように国を挙げて戦うのが当たり前になっていったのでしょうか。日本がアジアに侵略していくときに、それを止めることはできなかったのでしょうか。もし、そのようなことを考え、だれかに語ったなら、それは即非国民となり、人々の攻撃の対象となりました。

 私は、「はだしのゲン」のすごいところは、ゲンのお父さんに尽きると思っています。あの社会の中で、戦争反対と言い、息子が軍隊に入ることに反対し、朝鮮人と仲良くし、そして、非国民として逮捕、監禁され拷問され・・。中沢啓二さんは、そのような父親の元で育ち、だからこそ、あの様な「はだしのゲン」を描くことができたのだと思います。

 私が何にこだわっているのかというと。私は、この20年近く、「8.6ヒロシマ平和の夕べ」のスタッフとして活動を続けてきました。その中心を貫いているのは、当然「反戦・反核」です。その中でも、もう数少なくなってお話を直接聞けなくなる被爆者にその体験を語って頂くことを続けています。それも、単なる被爆体験だけでなく、様々な闘いを続けて来られた方に。今年は韓国人被爆者の救済活動を続けて来られた豊永恵三郎さんに、昨年は核兵器廃絶の闘いを続けている千葉たか子さんに、一昨年は被爆教師の会で子供たちへの平和教育を続けてこられた森下弘さんに。この年の平和講演には原爆小頭症きのこ会の事務局長の平尾直政さんにも話して頂きました。という具合に。中沢啓二さんや李鍾根さん、那須正幹さんなどもうなくなった方たちにも。それは、貴重なお話を聴くことができました。

 でも、それら語って下さる被爆者の方たちのこれまでの壮絶な闘いを、「被爆者は、なぜ被爆をしたのか、それまでの日本がしてきたことの反省がない」という人がいるのです。日本がアジアに侵略し、国民みんな一体となって戦争に加担したではないかと。朝鮮人などの差別もしてきたではないかと。確かにそうです。日本がしてきたことは紛れもない事実です。でも、その責任をなぜ被爆者に求めるのか、それが私には理不尽だと思えるのです。あの状況の中で、戦争に国民が巻き込まれて行くなかで、だれがどうやってそれを止めることができたのでしょうか。生きるだけで精一杯だった被爆者にその責任を求めるのは、あまりに酷だと思うのです。精一杯生きて来たその生きざまを見せていただくだけで、私たちはありがたいと素直に思います。

 しかし、同時に私は、若者を回天に追いやった、そして、詩人のユン・ドンジュ氏を治安維持法で逮捕し、獄死させた、それら為政者たち、戦争を推進し続けた人たちを今もなお追及しなければならないと思います。そうしないと、また同じことを繰り返してしまうと。今を戦前にしてしまうのではないかと。私たちにそれを止めることができるのかと。本気で怖いことだと思うからです。

 明日からユン・ドンジュ氏のことを少し書きたいと思います。

これは、私が感動の中で演劇「星をかすめる風」を見た後買ったパンフレットと詩集「空と風と星と詩」です。

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ブックトーク「西瀬戸内海回天巡礼」③

 回天は、コスパが悪かったと言われましたが、その成功率は、2~3%であったそうです。一方、訓練中の事故で多くの若者が亡くなりました。故障で動くことができなくて、そのまま酸欠で亡くなるということです。じわじわと酸素が亡くなって、苦しくなってついに亡くなるという、その胸中は一体どうだったのでしょう。そもそも、回天に乗るということは、自らの命が亡くなるということ。世を上げて戦争に突き進んでいく時に、自らの命をささげるという決心は、どのようにして作られていくのでしょうか。これがいつも私の胸の中にありました。それを知りたくて、今回のブックトークにも参加したともいえます。

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 山口県の上関に、「回天特別攻撃隊員和田稔記念碑」が建っています。説明版に、「一九四五年七月、特攻兵器回天の搭乗員和田稔少尉(東京帝国大学在学中・当時二十三歳)が光基地から発進し行方不明となりましたが、同年九月の枕崎台風により白井田の高瀬の岩礁に漂着しました」と書いてあるそうです。和田氏の日記は「わだつみのこえ消えることなく」として出版されています。和田氏は1945年5
月にウルシー方面に出撃しました。しかし、敵に遭遇することなく帰還。 7月の再出撃に備えた訓練中に行方不明となったものです。彼は、東京帝国大学に入学前の一高時代の日記に「我々の経済は常に時代道徳にのみ支配され、それに追随して行くことしかできないのであろうか」と当時の社会への疑問も書いているとのことです。また、本の中の佐田尾さんの特別寄稿「和田稔と同じ時代の妹たち」の中に、和田稔氏のことについての記述があります。その中に書かれています。和田は、熱狂的になるでもなく退廃的になるでもなく、宿命を受け入れ、おのれの考えを弟や妹にすべて伝えたいと願った。と。また、和田が同期の回天搭乗員大石法夫にもらした無一言がある。殉職する前々日、自身のアルバムを見せて「これは妹の若菜というんだ。可愛いだろう」「死にとうないのー」と漏らした。しかし、それが弱音の様には聞こえなかったという。

 こうして、戦争に突き進む社会、為政者たち、大人たちは若者たちを死へと追いつめて行きました。そして、殉死した若者たちをお国のために命を捧げて立派に戦ったとし、そのおかげで今の平和があるとさえも。しかし、和田氏のように優秀な若者たちが一体どれだけ命を落としたことか、それでも日本は原爆の惨禍も加えて、本当にみじめに敗戦を迎えざるを得ませんでした。あの大勢の亡くなった若者たちが生きていたなら、もっともっといい社会がつくられたかもしれません。

 私は今日(日が変わったのでもう昨日ですが)市民劇場の演劇を見ました。青年劇場の「星をかすめる風」。治安維持法で福岡刑務所に収監された朝鮮人詩人ユン・ドンジュ氏が九州大学の医療班により獄死させられる話です。言いようのない悲しみ、怒りで観劇しながら体が震えました。もう少し、回天とこの演劇について、戦争というものについて、考えたいと思います。


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ブックトーク「西瀬戸内海回天巡礼」②

 人間魚雷回天は、第二次世界大戦(回天巡礼本の中では大東亜戦争と語ってありますが)末期に開発された海軍の特攻兵器です。そもそも開発の拠点は、大型の特殊潜航艇「甲標的」の開発が行われていた今の音戸町です。

 私は知らなかったのですが、海軍は「兵士の死を前提にした兵器は作らない」とされていたのが、回天は、爆薬を搭載した魚雷に一人の兵士が搭乗して敵艦につっこむという、確実に兵士の死を前提とした兵器でした。


 その訓練所は山口県に3か所と大分県の速見郡日出町大神の4か所にありました。

 筆者はそれらのみならず、江田島の兵学校など関連の場を訪れ、丁寧に取材をして、沢山の写真を撮り、資料を掘り起こし、「回天」とは何だったのかと検証を行います。

本からの転載です。このような場所を訪れています。

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そもそも著者の堀さんは、靖国神社の初回宮司青山清さんの子孫だそうで、びっくりです。そして、宇部という地方に居住しながら、今回の本だけでなく、「戦争歌が映す近代」「ハワイに渡った海賊たち」「中原中也と維新の影」など多くのノンフィクションの執筆をなさり、且つ自らUBE出版を立ち上げて出版なさっています。

本に語られたことを実際に生の口で語られるのには、説得力があり、ただひたすら関心してお話を伺いました。本の目次を載せますね。

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そして、戦争末期。敗戦が濃厚となった時期にこれらを作り、そして堀さんもおっしゃってました、大変コスパが悪かったと。実践での有効な働きはほとんどなく、多くの若者が訓練中に亡くなったり、実践でも、役目を果たさずに亡くなったりした現実があります。

 多くの有能な若者たちをこうして亡くならせてしまったこと。「この人たちのおかげで今日本が平和に暮らせている」という人達がいます。それについて??明日書きますね。


 


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竹田昭義さんの手記③

 2日にわたって紹介した竹田昭義さんの被爆の手記「私の、ヒバク」について弟の竹田雅博さん博(注)と解説を書かれています。それもともに紹介します。原爆についてまったく語らなかった方が80歳になって初めて手記を書かれた、それはなぜなのかも含めて、背景などを語って下さっています。

◆(注)と解説 (竹田雅博)

兄2人が被爆(父親は入市被曝)し次兄は被爆死。上記の文章は、被爆後を生き延び、いっさい語らなかった上の兄が80歳になった晩年に、何を思ったか書いた。

(注1)「冷たいように思われるかも知れないが…」。父親は8月6日のあと翌日から毎日、息子を捜しに広島市内に入り、母親は末弟の私がお腹におり9か月の身重。十数キロを歩き、昭義が寝ていた吉田町の実家まで看病に行くことは難しい。そういう事情があったという意味だろう。

(注2)母は後年、このときのことを「ゆっくり、ゆっくり車を引いたが、昭義が『痛い、痛い。もっとゆっくり行ってくれ』と言う。それじゃあ、ひとつも進まん、あのときは困ったよの~」と言っていた。

  • この弟について、「父が(雅郎が瀕死でたどり着いた唯信寺の)住職から聞いた話では、弟は後に『天皇陛下万歳』と言ったそうだ。何とも言い難い気持ちと、戦争責任の所在を考えざるを得ない」…、『中国新聞』(1999年11月17日)が、全滅した広島2中1年生を特集した際、昭義はこのようにコメントしている。後日聞いたところ、日ごろ原爆や戦争について自分の考えを出さないのに、「自分が勤めていた新聞に載るということもあり、表現を抑えた。お前はどう思う。おれは、『天皇に戦争責任がある』と言いたかった」と話していた。
  • 兄の長女が2007年ころ「悪性リンパ腫」を発症した。幸い何とか治療が功を奏し回復したが、そのとき兄は非常に苦慮していた。家族のことなどわかりにくいところもあり、以下に少し「解説」を付ける。

<解説>

長兄・昭義と、次兄・雅郎(まさろう)は1945年8月6日の朝、広島市内で被爆した。当時それぞれ中学3年生と1年生。彼らは市内に近い親戚に下宿し通学しており、その日は広島市内の家屋疎開作業に動員されていた。

雅郎は爆心近く、いまの平和公園西端あたりで被爆し8日に死亡。昭義は約1・4キロ離れた鶴見橋付近におり、重症ながら助かった。私たちの実家は広島市の北約20キロにある。『私のヒバク』は、原爆を一切語らなかった昭義が、何を思ったか2010年8月下旬に書いたものである。

私(たち)が2008年、「8・6ヒロシマ平和の夕べ」の企画を始め、最初に「電車内被爆者」の米澤鐵志さんに、路面電車内で被爆した体験を話してもらうことになった。2009年は、被爆2世である産婦人科医の河野美代子さん、2010年には作家の高史明さんに「『近代合理主義』がもたらした植民地支配、侵略戦争、核開発」について話してもらった。

2010年の関連企画に米澤鐵志さん、原爆ドーム直近の中島本町に家があり一家全滅した福島和男さんに証言を依頼した。当時、中学1年生だった福島さんは郊外の工場へ動員され、早朝に家を出て家族のなかで一人生き残った。福島さんは退職後、修学旅行生たちに被爆体験を話す「語り部」となり、証言活動を海外にも広げた。アメリカ、ヨーロッパ、中国などを訪問。アメリカでは「終戦を早めた」という意見も少なくなく、中国では「原爆は当然の報い」という対応も受けたが、核廃絶の信念は変わらない。

依頼する際、福島さんが兄と同時期に中国新聞社に勤め、お互い親しかったことがわかった。原爆のことを語らない兄に(福島さんに証言をお願いすることを)知らせずに黙っていると、後で機嫌を損ねられても困る。帰省したときに、「こういう会を行ない、福島さんにお願いしたい」と兄に話すと、意外にも「福島君が話すのなら、ぼくも出なければいかんな」と、特別運行した被爆電車にも乗り、福島さんの実家があった(平和公園のドーム川向かい)など平和公園フィールドワーク、そのあと資料館会議室でおこなった学習会にも参加した。

兄は被爆後、避けてきた「場所」へ初めて踏み込んだのかもしれない。後日、「福島君の話は率直な語りで、よく伝わっていた」と、これも意外な感想をのべていた。

その秋に、「こういうものを書いてみた。人に見せるつもりはないが、一応お前は読んでおいてくれ」と、『私のヒバク』という、この一文を渡された。その半年後に、福島第1原発の大事故が起こる。兄は「政府、東電、テレビ発表は嘘だ。あれは原爆と同じ。大変だ」と危機感を顕わに、毎日のように私にメールを送ってきた。

翌年2011年の夏に、兄は急に亡くなった。被爆と核問題について報道を続けてきた中国新聞社(広島市)に勤め、文章を生業にした人が66年の後、わずかこれだけしか残さなかった。「人に見せるつもりはない」と渡されたが、他界し10年を過ぎたこともあり公表することにした。(竹田雅博)

ウィキペディアから、被爆直後の広島市。上の真ん中が竹田昭義さんが被爆した鶴見橋。その向こうが比治山です。手前のTの字の橋が原爆投下の目印にされた相生橋。今もTの字の橋が架かっています。

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今の鶴見橋。私が行けるのは夜なので。いつも自転車でこの橋を渡ってマツダスタジアムにカープを見に行きます。

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鶴見橋を渡った所に被爆したしだれ柳があります。今も頑張って生き続けています。

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こんなのが橋にかけてあります。

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文を転載します。

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竹田昭義さん、竹田雅博さんに感謝します。

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竹田昭義さんの手記②

竹田さんのお兄さんの手記の続きです。実は、この手記は2020年に一度掲載しています。しかし、途中まで。全文ではありません。なぜ途中でやめたのか、その理由をはっきり覚えていません。おそらく、お兄様の妻のがんの闘病などが書かれているため、5年前にはまだ遠慮したのではないかと。ここでは全文載せます。


父母も時々、様子を見に来てくれていた。「時々」とは、父母が冷たい言い方のように聞こえるかも知れないが、実はそうではない(注1)。原爆投下の日、私の弟も中学1年生(廣島県立第二中学校=現・観音高校)で建物疎開作業に動員され、爆心からわずか500メートルの中島新町にいた。父と伯父がたぶん2日後から、ほとんど毎日焼け跡を捜し回っていたのである。やっと本人の弁当箱を見つけ、遣骨代わりにとその辺りの砂を詰めて持ち帰ってきた(この弁当箱は、父が高齢になった後、私が原爆資料館に寄託した)。弟は級友の実家である舟入町の唯信寺までいっしょに逃れ、2日後の8日、苦しい息の下「天皇陛下万歳」と叫んで絶命したという。この事を知ったのは、随分あとになってからであった。本川沿い2中の慰霊碑には、弟を含め全滅した2中1年生、3百数十の名前が刻まれている。


寝ていると、8月15日に祖父が「日本が負けた」と慌てたように帰って来た。まさかそんな事が…絶句。寝床の中で涙がとまらなかった。


そうこうして夏も終わりに近づき、9月に入るころには、やけども少しはよくなり、何とか寝床から起きあがることができるくらい身体も回復してきた。そこで父の郷の根野村(いまは安芸高田市八千代町=私の現住地)に移ろうという事になった。大八車に布団を敷いて寝かされ、ジリジリと陽が照りつける中、舗装されていなかった現在の国道54号線をゴトゴト十数キロ、3時間半ばかり運ばれた。痛いのと、暑いのと眩しいのと、頭がぐらぐら揺れるのが辛かった(注2)。


 秋になると、ようやくやけどの治療をしなくてもよくなり、外に出て歩けるようになった。学校に連絡をとると、校舎はもちろん焼失。翠町の寮に詰め所があるのが判った。やっと寮を訪ねる事ができたのは、もう年末近かった。「江波町の旧陸軍病院で授業を再開している。明日から出て来い」という。住む所もないのに、ちょっと待って下さいと返事、その日は帰った。年が明けて、皆実町にあり焼け残った縁類の家の2階が借りられる事になった。それも骨組みだけの吹きさらし、雨戸、障子、ガラス戸もなし。その辺りに散らばっていた障子、ふすまの使えそうな物を集め、一間だけどうにか住めるように囲った。江波の仮校舎もひどいものだった。もちろん窓ガラスなし、寒風が通り抜ける冬、あるだけ着込み授業に出た。その後、父兄の方が風船爆弾用の紙(割合い丈夫なものだった)なるものを手に入れ、ガラス代わりに張ってもらい少しは寒さ凌ぎになった。


どのくらいたってからだっただろうか、廃墟だった元の雑魚場町の跡地にバラック校舎が再建され、ようやく、まずまず普通に学校生活が送れるようになった。有り難かった。


ゲンバクは悲惨だ、残酷だという。確かに、いままでにない大量殺戮兵器である。原始以来、最初はこん棒、石斧だった武器は時代と共に進化し、刀や槍、鉄砲、大砲、毒ガス、爆弾、焼夷弾となり、ついには原爆、水爆を生んだ。ただ、大量殺戮が必ずしも残酷だとは言えまい。原爆で死ぬのと刀で一寸刻みにされるのと、どちらが残酷なのか。本人や見る人の主観であると言えないか。どっちにしても当人にとって死という事に変わりはない。


私は80歳になる今日まで、原爆の事を思い出すのも、語る事も嫌だった。まして記述するなど考えた事もなかった。確かに特異な体験には違いない。「もったいない。核廃絶のために、ぜひ」との声もかかった。なぜ嫌なのか本当は私にもよく判らない。たぶん、あまりにも悲し過ぎるのか、どれだけ話しても到底言い尽くせないと思うからなのか。二つとも違うような気もする。


それがどうして記述する気になったのか、白分の事なのにこれもよく判らない。誰に見てもらおう、読んでもらおうというのでもない。


15歳のあの時、弟と同じように死んでいても何の不思議もなかった(注3)。以降は余生、オマケの人生だと思ってきた。「エエ格好をするな」と言われそうだ。しかし、そんなに気張っているつもりもない。それにしても80歳とは、長いオマケだ。そろそろオマケにも限度を感じ出したからかもしれない。ゲンバクは自分にも一生封印するつもりだった…。


私の妻も「被爆者」だ。当時は高等女学校の生徒で、広島市の東端の家から西端の学校へ汽車と電車で通学していた。8月6日、原爆が投下された時、幸い既に市の中心部を通り抜けていた。学校に着いたら広島が壊滅、当然その日は学校に足止めになった。翌7日、家の近い者同士まとまって帰宅しようという事になった。そのためにはどうしても爆心地を通らなければならない。妻の話では、爆心200メートル以内ではないかという地点を通過している。そして二十数年前に右乳癌、右甲状腺癌を相次いで発症、どちらも全摘出した。その影響もあって、いまもいろんな障害に苦しんでいる。


現在は両癌に対して、積極的な治療はしていない。喜ぶべきことではないが、いまの基準であれば当然原爆症認定患者。二十数年間苦しんで来たのをどうしてくれると、先般認定申請を出した。結果は見事却下、認定されれば手当が出る。手当をいただけるなら、正直欲しい。だが、それだけで言っているのではない。発症の時期で、何でこんな差別があるのか、まったく理解できない。


私がいま、一番怖れているのは子や孫への影響である。実は最近、そうなのかなという兆候があった。自責悶々、やりきれぬ思いである(注4)。


私も世の中、身の回りみんな平和でありたい。そうでなくてはいけないと思う。微力だが平和に貢献出来れば尽くしたい気持ちもある。私は少しヘソ曲がりなのか(少々どころか)。現生人類発祥から約5万年、いやそれ以前からも争い事が絶えたことはなかっただろう。その度にみんな平和を願ってきたはずだ。それがどうして性懲りもなく繰り返えされるのか。『ゲンバクは違う』と言う。果たしてそうか。この過ちは二度と冒してはならない、核廃絶、恒久平和のため語り継がなくてはならない。今度こそは、もう全人類の滅亡だ。それはよく判る。


その一方で戦術核がどうの、戦略核がどうのと真面日に議論されているのも事実。総すくみで核戦争は、そう簡単には起こせまい。しかし対戦車用の劣化ウラン弾なら、大国が平気で使った。核爆発でこそないが、放射能の微粒子を大量にまき散らし、敵、味方、一般市民にまで障害が出た。某国、某集団がヤケクソで核爆弾を使う恐れはないと断言できるのか。いったい誰が『ゲンバクは違う、二度と起こさない』と保証できるのだろう。すべて虚しい。とても悲しい。ゲンバクは思い出すのも嫌だ。


(たけだ・あきよし 2010年8月30日、記/1930年8月5日生まれ、2011年8月13日没。81歳)

本文中に出てくる上の弟さん、二中の一年生で爆死しされた竹田雅郎さんのお弁当箱です。これは、2013年に原爆資料館に行って見せていただいた時に私が写真を撮りました。

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見せてもらいに行ったのは、竹田さんと沖縄の知花さんと平和の夕べの中村周六さんと私。知花さんと中村さんの二人のお坊さんの対談をして頂いた時です。

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明日、竹田さんの解説を載せて終わりますね。


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