「8.6ヒロシマ平和の夕べ」実行委員会でした。

昨日は、今年の「8.6ヒロシマ平和の夕べ」の実行委員会でした。今年は被爆75周年。あちらこちらから集まって来ますので、新型コロナの心配もあって、さて、どうしようと話もしましたが、この会は10数名の集まりでもあり、今後のスケジュールもあって、決行としました。

集まった12人。会場は事前に換気し、テーブル、椅子は次亜塩素酸スプレーで消毒して開催です。

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今年の講演をお願いしている方たちの反応もとてもよく、メニューはスムーズに決まりました。75周年にふさわしく。あとはフライヤーのデザインについての論議をしました。和気あいあいと楽しく。

 これから予定通りのスケジュールで運びますが、さて。オリンピックも開催されるか否か不明な今、8月6日がどんな状況になるのか、心配ではあります。YMCAのホールは地下で、窓はなく。換気扇を精一杯回しながらの開催となるのでしょう。ただ、準備だけは怠りなくしておこうということです。

 会議は淡々と終わりました。場所を移して、お花見のお弁当を食べました。川沿いで桜を観ながらのつもりでしたが、雨が時々降って寒いし、桜はまだ全然咲いていなくて。室内でのお花見です。

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千鳥のお花見弁当です。

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この方が、話が近くて楽しく過ごせました。話題はやはり今の安倍政権。関西の自殺された財務省職員の遺書の公開でどうなるか。本当に嘘だらけの今の政権を早く何とかしなければ、この日本がどんどん貧しい国になってしまいます。

河井夫妻については、検察はやる気だけど、さて、秘書の逮捕起訴だけでなく、河合夫妻、さらにその上に行けるだろうか。そんな話を目いっぱいしました。

 ところで、その会のまどから外を見てると、とても不思議な光景がありました。こんな駐車場、どうやって車を出すのでしょうと。真ん中あたりには、パトカーもいるし。うーん。フェリーのように前から順々に出していくのでしょうが。

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想いが通じ合う楽しい仲間たちとの久しぶりの会でした。そのうち皆様に今年の8.6ヒロシマ平和の夕べについて、お話しますね。

ところで、そのコロナですが。思いがけない所での発生があって。大分の医療センター、私の兄が治療を受けている所です。25日にもオプジーボの点滴をするのですが、先生からとりあえず一週間延期をと連絡がきたと。もしも兄に感染すると、これはほんとうに命取りになるでしょう。医療従事者の感染は、たちまち様々な病の方たちに影響を与えてしまいます。気を付けなければ。

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「原爆が遺した子ら~胎内被爆小頭児をささえて~」⑤

これまで4回にわたってRCCのドキュメント「原爆が遺した子ら~胎内被爆小頭児をささえて~」について書かせて頂きました。読んでいただいてありがとうございます。でも、いくら、何回書いても、この作品の持つ重さを伝えることはできないなあと、もどかしい思いでいます。やはり、この番組こそ、今こそ、多くの人が見るべきとの思いが募ります。これを作られた平尾さんにお願いして、上映会ができないかと、本気で考えています。そのうち、皆様にお知らせするかもしれません。

胎内被爆のために小頭児として生まれた方たちは、その人生の苦闘が続いています。両親が全員亡くなって、兄弟がその生活を支えて、また、支える親族がいない人は・・。

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この方の元に、松永英美さんが久しぶりに訪ねて行った時、彼女は一人暮らし。父親が亡くなって、家はまるでごみだらけと化していました。無邪気で明るかった彼女もすでに亡くなり、でも、その死はどの親族にも知らされなかったと番組は語っています。

無口で多くを語らなかった秋信さんは、最後にその思いをカメラの前で語られました。多分、自分の命の限界を悟ってのことだったのでしょう。小頭児とその家族の方の無念を代弁すべく、秋信さんは語られました。

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天皇陛下のあの発言を引き出した(でも、それは申し訳なかったでもなく、すまなかったでもなく、「やむを得ないこと」としか言われませんでした・・)秋信さんは、さぞ心残りだったことでしょう。

遺されたきのこ会の方々は、みんなで時々集まっては、楽しんでいます。

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そして、この番組を作り、秋信さんからきのこ会の事務局を引き継いだ平尾直政さんは、この度、2月3日に広島から遠く離れ、情報もないままにひっそりと生きてきた、神奈川の小頭症の方の番組を作られました。

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広島で放送されたこれは、一週間だけここで見られます。ぜひ、多く方に見て頂きたいと思います。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200203-00450300-rccv-l34&fbclid=IwAR0hrezpQ2_VfssCaJDo6E0NyTTW7Y1O6-3QJKxnt_ITXCMmJgndIx0x64s

平尾様、番組の版権もあるでしょうに、私が書くことを許可してくださってありがとうございました。ますますのご健闘をお祈りします。そして私たちにもっと教えて下さいますように、お願いします。私も、私の持ち場で頑張りますよ~。きのこ会の目的の「核兵器廃絶」がどれだけ遠いことであったとしても、諦めることなく・・。

 

 

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「原爆が遺した子ら~胎内被爆小頭児をささえて~」④

天皇陛下在位50年の1975年、戦後30年。天皇陛下の初めての記者会見が行われることになりました。

 その年、あの山口の胎内被爆小頭症の女性の父親が亡くなりました。「帰りたーい、帰りたーい」と父親が行く度に訴えていた彼女と両親のルポを作った秋信さんは、抽選でその記者会見に出席することになりました。そして、「なんにもしていない、ただ、母親のおなかの中にいて、閃光を浴びた、それだけであんな姿になった、その彼女たちに何か一言あってもいいんじゃないか」と考えたそうです。広島の人間として、原爆問題は抜かせない。彼らには何の罪もないと。秋信さんのレポの中では、父親が「戦争が起こらなければ、原爆にさえ遭わなければ。」といいます。

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そのことについて、当時、一緒にRCCの東京支社にいた佐々木典明さんが、その心情等を詳しく書かれています。

http://hiroshima.moe-nifty.com/blog/2010/09/post-c4a2.html

ああ、典明さん・・・。典明さんがこの記事を書かれたのが、2010年9月28日。その翌年、2011年3月にご自分も亡くなっています。典明さんには、ずいぶんかわいがっていただきました・・。

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そこで、秋信さんは、「陛下は、昭和22年12月7日、原子爆弾で焼け野原になった広島に行幸され、昭和26年、46年と広島市民にしたしくお見舞いの言葉を述べられました・・。」ととても丁寧に質問をされ始めました。そして、

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「戦争終結にあたって原爆投下の事実を陛下はどうお受け止めになりましたでしょうか」と続けたのです。

それに対して、天皇陛下は、

「原爆投下がされたことに対してはいかんに思っているが、こういう戦争中であることですから、どうも広島市民にとっては気の毒ではあるが、やむを得ないことと私は思っています」と答えられました。番組では、ここのやり取りが鮮明に収録されています。

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1990年、胎内被爆小頭児45歳の誕生日。きのこ会は、それまでの方針から大転換を行います。それまで、ひっそりと両親が育ててきた小頭児たち。でも、その親も次々と亡くなりつつある今、世間にこの事実を公表し、親しい人、支えてくれる人を作ろうと。激しい議論の末、その45歳の誕生祝いの席に、初めてマスコミの取材を入れたのです。マスコミが一斉に報道しました。中国新聞は特集を組みました。

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60歳の還暦のお祝いの会です。

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今、懸命に彼女たち、彼らを育てた両親は全員亡くなっています。この写真に出てている方たちも何人も亡くなっています。

秋信さんも。大牟田さんも。

秋信さんは、亡くなる前のきのこ会には、参加できず、ビデオでメッセージを送られました。「参加して皆さんとおしゃべりをしたいけれど、体が動きません」と。

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そして、きのこ会の事務局は、今、この番組を作った平尾さんに引き継がれています。

もう一回、明日も続けますね。

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「原爆が遺した子ら~胎内被爆小頭児をささえて~」③

昨夜、もう一度「原爆が遺した子ら~胎内被爆小頭児をささえて~」のDVDを観ました。メモを取りながら、巻き戻したり、早めたりしながら、ゆっくりと。そして、ああ、ごめんなさいと思いました。私は、細かい間違いがところどころあるだけでなく、この番組を作られた平尾さんの心に迫ってなかったなあと思いました。勿論、感動してこの紹介をしたいと思ったのですが、きっと平尾さんは私のレポートを「違う!!」と思いながら見られたのではと思いました。ごめんなさい。

「きのこ会」を作られるまで、どれだけ秋信さんが苦労なさったか、それを私はサラリと書いてしまっています。その訂正というか、追加から今日は紹介ますね。

 秋信さんが「この世界の片隅で」で、胎内被爆小頭児のことを書くきっかけになったのは、一人の胎内被爆者の自殺でした。

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秋信さんは、これに心を痛めました。そして、ABCCとのことも私はサラリと書いたのですが、その名簿は簡単に出てきたわけではありません。何度もABCCに足を運び、やりあったと。ABCCは、隠していたわけではない、我々はちゃんと論文に書いていたと。それをマスコミが聞かなかっただけだと。

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そして。パソコンの画面を写真にしているので、見づらいでしょうが。

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ただそれだけだと。

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そんなやり取りを見ていたABCCの日本人の従業員がこっそりと名前と住所を送ってくださったのです。

それから、私がただ「利用するのでしょう」と言われたとこれもサラリと書いていますが、それはこんなことです。

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一人でできないことでも、みんなで知恵を出し合ったらなんとかなると。そして、大変なご苦労をされて、原爆のきのこ雲から生まれた「きのこ会」を結成しました。きのこ会の目的は、「原爆症認定」「終身保障」そして「核兵器廃絶」でした。

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結成にあたって、三人のジャーナリストがきのこ会の事務局を引き受けます。様々なマスコミからの個人的な取材依頼を事務局がすべて引き受け、断り続けました。それは、自社に対しても。

広島市や厚生省への粘り強い度々の交渉、陳情を行って、きのこ会結成から二年。やっと国は「胎内被爆小頭症」を原爆症と認めたのです。

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続きます。平尾さんのDVDの画面ばかりになりましたが、これが一番よくわかっていただけるかと。本音は、このDVDを皆さんに見て頂きたいという思いなのです。このドキュメントを観る会ができないかなあと、今考えています。

 

 

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「原爆が遺した子ら~胎内被爆小頭児をささえて~」②

RCCドキュメント「原爆が遺した子ら~胎内被爆小頭児をささえて~」について、続けます。私の個人的なことも入っています、すみません。

「この世界の片隅で」で、原爆小頭症のことを書くにあたって、小頭児の保護者にこれからも支えるからと約束をした秋信さんと大牟田さんは、この他にも小頭症の人がいるはずと、探し始めます。ABCCがそのデータをもっているはず。でも、ABCCはそれを明らかにはしてくれません。そんな時、名簿が送られてきます。それは、ABCCに勤めていた女性が、内緒で送ってくれた名簿でした。番組では、その女性へもインタビューしています。その名簿を頼りに、お二人は一軒ずつ住まいを訪ねていきます。

そうして、被爆から20年、1965年に胎内被爆小頭児とその家族で「きのこ会」を結成します。原爆投下時の「きのこ雲」のきのこです。

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その後お二人は、この方たちの資料を集め厚生省に提出し、原爆症として認定するように強く、何度も働きかけます。厚生省が初めて「原爆小頭症」を原爆症として認定したのは、被爆から22年たった、1967年のことです。

子どもたちは、広島大学の産科婦人科病棟に入院して、色々と検査を受けています。そのテータの医学的発表、母親の胎内で被爆した人の中に頭が小さく、知的障がいのある人がいるというその発表を見て、私は医学部を卒業時、それまでの小児科志望から産婦人科の志望に変えたのでした。

秋信さんは、ずっときのこ会の裏方として徹底し、決して番組を作ろうとしませんでした。それは、利用しようと思ってるんでしょうという、保護者の問いかけに答えたことでもありました。テレビ局に勤めながら、そして、最も身近にいながら、番組は作らない、それは徹底していました。それについて、RCCのプロデューサー、松永英美さんがが証言されています。「それは、番組を作りたかったでしょう。テレビ局で仕事をしていたのですから。」と。

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松永さんのお元気な姿をこの番組で拝見できました。松永さんは、広島のテレビ局のプロデュサーとして、原爆小頭症や、毒ガスの大久野島などの平和を訴える番組をたくさん作られています。

また私の個人的な話になりますが。私がまだ大学病院の医局にいる時に、性教育との出会いがありました。学生たちが医学展で「性教育」を取り上げたいと、産科婦人科の藤原教授に協力を求めてきました。それについて、私に学生の指導をせよと指名されたのです。その少し前に、東京であった性教育の会に参加していました。今から考えると、それが大きな私の転機にもなるのですが。その会で、当時の東京医大の根岸悦子先生が「男の子の指導はどうなのでしょうか」と質問されました。それに対して、山本直英先生が「女は自分の体に、男は女の体に責任を持つこと、これが原則です」と言われ、私は深く感動しました。私も今会員である「性教協」は、その後1982年に山本先生や村瀬先生が立ち上げられました。ですので、私が参加した会はまだ性教協ができる前だったことになります。

その後、1980年に根岸先生と池上千寿子さんのお二人が翻訳者として「ウーマンズボディ」を出版され、大ベストセラーとなりました。その学生たちの企画に、私は根岸先生と池上さんをお呼びしようと考えました。学生たちの企画は広島の高校の先生たちもたくさん来られて、大盛況でした。そして、その時に、せっかくお二人が広島にきてくださるので、もう一つ、女性の会をやれないかと考えたのです。わからないままに電話帳を繰り「女の図書室」というのを発見しました。そこに私は電話をし、話しに行きました。そのときに出会った人たちと「女性の体・女性の自立」という会を行ったのです。それも会場から人があふれて、大盛況でした。

 個人的なことが長くなりましたが、その会に、松永さんが「デンスケ」をもってきてくださり、ラジオの番組を作って放送されたのです。それ以来、いろいとお会いしてお話していたのですが、もう、お会いしなくなって、長くなります。そのお元気なお姿に、涙ぐみそうになりました。

ですが、秋信さんは、それまでのタブーを破って、一本の番組を作られたのです。山口居住の小頭症の女性のことです。彼女は、医療的な施設に入っていました。そして、面会に来たお父さんに「帰りたーい、帰りたーい」と訴えるのです。

なんの罪もない、ただお母さんのお腹の中にいて、被爆をした、ただそれだけでこんなことになったのだから。」と、秋信さんの強い憤りが感じられる番組です。

その女性のことを初め、きのこ会の小頭症の人たちのことが、今も語り継がれているあの天皇陛下への質問となります。続きますね。

 

 

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「原爆が遺した子ら~胎内被爆小頭児をささえて~」①

先週の土曜日、ちょうど一週間前に山梨、甲府の講演に行く時。新幹線の中で、映画やDVDを観ました。いくつか用意して行ったのですが、その一つ。RCC・中国放送作の「原爆が遺した子ら~胎内被爆小頭児をささえて~」を観ました。それについてしばらく書きますね。

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2018年3月、偶然車の中で聞いたラジオの番組についてこのブログに書きました。

http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2018/03/rcc-0b7d.html

それを読んで下さった方から、その番組を作られた記者(?ディレクター?)平尾直政さんに伝わり、そして、平尾さんからテレビのドキュメントも作っているからと頂いたものです。でも、恥ずかしながら、私はしばらくDVDを見る機器をもっていなかったし、(パソコンを変えたら外付けになってしまったり、新しく買った外付けで見れるようになったら、そのパソコンが壊れたり、買い換えたパソコンで作動しなかったり・・いろいろとありました)この度の旅で、やっと見ることができました。

またまた新幹線の中で涙ボロボロで困りました。

そして、いろいろな偶然というか、必然なのかもしれませんが、いろんな思いが押し寄せています。

まず、このブログにも書いていますが。この前後三日にわたって書いています、「この世界の片隅で」について。

http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-4a79.html

大変な評判になっている「この世界の片隅に」ではなく、こちらです。

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8.6広島平和の夕べで永田浩三さんによって、詳しく語られたこの本について。山代巴さん編のこの本を作るにあたって、これらのラジオ、テレビのドキュメントで語られたのですが、RCCの秋信利彦記者が大変な約束をされたということも改めて知りました。

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秋信さんは、この本の中で「IN UTERO」、風早晃治のペンネームで胎内被爆小頭児について書いています。それを書くにあたって、それまで閉じこもってきた方たちから、「利用するんだろう」と不信感を突き付けられます。そして、決して利用するのではない、これからも支え続けると約束されたのです。

ちなみに、この本は、原爆被害に遭った人たちの、本当に片隅でひっそりと生きていた人たちのルポです。

その目次は、次のごとくです。ウィキペディアから。

以下の章で構成されている。カッコ内は執筆者。

  • 相生通り」(文沢隆一)
  • 「福島町」(多地映一)
  • 「IN UTERO」(風早晃治 - 中国放送記者・秋信利彦の筆名)
  • 「病理学者の怒り」(杉原芳夫)
  • 「あすにむかって」(山口勇子
  • 原爆の子から二十年」(小久保均)
  • 「一つの母子像」(山代巴)
  • 「沖縄の被爆者たち」(大牟田稔 - 中国新聞記者)


この本の中で「沖縄の被爆者」について書かれた中国新聞の大牟田稔記者と共に、胎内被爆小頭児のために、奔走されます。

これにつき、しばらく続けますね。

 

 

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パソコンの中身は無事でした!

ご心配おかけしたパソコン。エディオンでに駆け込んで、対応して頂きました。ありがたいことに、ハードは大丈夫でした。パソコンを購入して、それに移行してもらいました。

 

一方で、8.6ヒロシマ平和の夕べの実行委員会で、行ったり来たり。

 

会議は着々と進み、来年の会の大枠は決まりました。被爆75周年の来年、しっかりした会ができると思います。講演依頼を気持ちよく引き受けて下さった皆様に深謝します。また、その内に皆様にも内容をお伝え致します。

 

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済んだあとは、恒例の、源蔵で食事兼飲み会。私は、エディオンに行ったりで遅れて参加。お昼ご飯も食べてなかったので、がっつく様に頂きましたよ。

 

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その後は、また、パソコンのプリンターへの接続とか、クリニックで深夜まで苦闘しました。まだ使うまでには遠い道のりです。でも、こうしてiPadで不十分ながらブログが書けるようになって、これも一歩前進です。とでも思わないと、とてもとても。痛い出費と、時間の無駄遣いでしたが。新しいパソコンは、パールピンクですよー。早く使えるようにしないと、原稿が切羽詰まっています。

 

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「さしのべられた救いの手~原爆孤児たちの戦後」

皆さまにお知らせです。

今週の金曜日12月6日(金)23時から、NHK・BS1スペシャルで「さしのべられた救いの手~"原爆孤児"たちの戦後」が放送されます。不思議なことに、NHH・BSスペシャルの放送予定には、この前後の予定は全部出ているのですが、この日のこの時間の予定だけは「BS1スペシャル」とだけで、タイトルもなにも出てきません。でも、放送はありますので、ぜひ見て下さいませ。

 子どもの内に、被爆し、同時に両親も亡くした人が、どうやって戦後を生き抜いたか。

峠三吉の「墓標」。その一部です。

「・・・
仆れた母親の乳房にしゃぶりついて
生き残ったあの日の子どもも
もう六つ
どろぼうをして
こじきをして
雨の道路をうろついた
君たちの友達も
もう黒々と陽に焼けて
大人に負けぬ腕っぷしをもった

負けるものか
負けるものかと
朝鮮のお友だちは
炎天の広島駅で
戦争にさせないための
署名をあつめ
負けるものか
まけるものかと
日本の子どもたちは
靴磨きの道具をすて
ほんとうのことを書いた新聞を売る
・・・」

原爆で両親が亡くなり、生きるのに精いっぱいだったという仲間もいます。
この番組は、初めNHKの海外版で英語で作られ海外で放映されました。大変評価が高く、日本版として作り直したそうです。

ご案内まで。

昨日は、「トラウマ」の研修を受けました。それについて、思う事がありますので、また明日。

今日の記事には映像が無いので、これは今のクリニックの青野さんのお花です。初めはユリがつぼみでしたが、一輪咲くと、ぐんと華やかになりました。今日は、きっと、二輪か三輪咲いているでしょう。どうなっているか楽しみです。

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仲村未央さんの講演会

昨日、診療後、仲村未央さんの講演会に行って来ました。現在沖縄平和運動センター副議長。琉球大学卒業後琉球新報社の政治部記者、沖縄市議会議員、沖縄県議会議員。この夏の参議院選挙で社民党の比例代表として立候補するも落選しています。

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仲村未央さんに作って頂いた詳しいレジュメに沿ってお話しは進められました。「沖縄から見るこの国の課題ー自由、尊厳、平和をかけた県民の闘い」。胸がキリキリと痛むお話しの連続でした。

百田発言「米軍普天間飛行場は、もともと田んぼの中にあり、周りは何もなかった」「商売になると、みんな何十年もかかって基地の周りに住みだした」(2015年6月、自民党若手議員らの勉強会)

事実は、「1945年、沖縄戦で侵攻した米軍が占領と同時に土地を接収し、滑走路を建設。宜野湾村役場、宜野湾国民学校があり、松並街道が走る町の中心地だった。住民は同年10月から収容所からの帰村を許されたが、多くがふるさとには戻れず、米軍に割り当てられた飛行場周辺で集落の再編を余儀なくされた。」(宜野湾市史より)

オスプレイ配備撤回を求める実行委員会「建白書」、銀座パレード・・翁長那覇市長、県議会議長、全県議、全市町村長、全市町村議会貴重などによる要請団に街頭からのヘイト。「どぶねずみ」「売国奴」「日本から出ていけ」(2013年1月)

さらに。戦後報告書からも「切り捨て」られた沖縄

全国戦災史調査報告書(1977~2013年、総務省—一般戦災ホームページ)

戦災を被った年の空襲及び被害・・・
戦災により犠牲を被った児童の実情
戦災により犠牲を被った孤児の実情
戦災により犠牲を被った婦人の実情

などなどには、沖縄は全く出てこないのですと。

太平洋戦争による我が国の被害総合報告書・・人的被害・物的被害にも全く沖縄は出てきません。

「広島のごときは県民一三名に一名の割で被害を受けた事になり、長崎、東京も夫々二二名に一名、三三名に一名という高い被害率を示している。」それなのに、四名に一名が亡くなったという沖縄の被害は全く出てこないと。平和の礎には、24万もの人の名前が刻まれているのですが、国による沖縄戦の住民被害に関する調査は今日まで一度もなされていないと。

沖縄の苦悩は、今日まで続いています。「100の指標からみた沖縄県の姿」から、全国上位1位、または2位と下位47位(又は、ワースト5位以内)が延々と並んでいます。一位には新規高卒無業者比率とか、新規大卒無業者比率とか。ワーストには、平均年齢、県民所得、高校進学率、大卒初任給額とか・・・。

そして、辺野古について。沖縄中の反対にも関わらず(国会議員や知事選など)辺野古の工事は着々と進められているようではありますが、軟弱地盤や活断層の存在で、2019年7月の進捗率はまだ2.8%に過ぎないと。だから、今もまだ頑張れば止められると考えているとのことでした。

今、沖縄の報道は少なくなっています。
私たちは、これからも沖縄を忘れてはなりません。昨日の会は「広島と沖縄をむすぶドゥシグワー」結成の集いでした。勿論、私も会に賛同いたしました。

 

 

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Viento加藤貴光折り鶴平和音楽会②

昨日の続きです。大切な、志を高く持っていた一人息子さんを失くされた加藤りつこさん。「究極の苦しみの中で」人々とのふれあいの中で、徐々に立ち直って来られました。そして、2012年に「広島と福島を結ぶ会」を立ち上げられました。そのパンフレットを。

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見えにくいので、文章の一部を転記します。

「わたしたち「広島と福島を結ぶ会」は、2012年4月、会員8名で発足しました。東北の震災から一年、「東北で痛みを抱える人に寄り添いたい」との思いで小さな映画上映会を開催し収益と募金箱に寄せられた浄財を福島・いわき海星高校の復興支援のためにお捧げしたことから活動が始まりました。・・・」

活動を続けるうちに、加藤さんとこの会のことを知ったVientoのお二人が寄り添い、支えてこられたそうです。そのお二人の活動される熊本で、今度は2016年4月、大震災が起こりました。その復興のために2018年12月15日に「第一回加藤貴光~折り鶴平和音楽会」が開かれました。

 そして、今回、第二回目を広島の地で広かれるという事なのです。

「広島と福島を結ぶ会」のホームページはここにあります。


http://hiroshima-fukushima.com/


 


その中の加藤りつこさんの文章をコピーさせていただきますね。











 
<Vientoとの出会い> 加藤りつこ


私が、阿蘇の音楽家「Viento」と直接出会ったのは2009年。
間接的に出会ったのは2008年2月。亡き息子の手紙「親愛なる母上様」に曲をつけたマサ君が、旅の途中、熊本阿蘇で出会い、Vientoの吉川万里さんが、息子の手紙に共鳴してくださりつながった。
マサ君は、その時、私にこう言った。
「今まで日本で出会った音楽家の中で、初めて尊敬できる人に出会えた」と。 その頃から、Vientoの吉川万里さんは、コンサートの中で、息子の手紙のことを語り始めてくださった。
私は前向きに生きる気力も失せ悲しみの底に沈んだまま浮上する術も持てなかった頃だった。...
万里さんは、熊本や福岡など九州でのステージで語り続けてくださり、私の知らない所で貴光の名は、再びこの世で息吹いてきた。
親にとってどれ程感動であったか。喜びであったか。生きる力になったか。
そのVientoが、昨年4月の大震災で「被災者」になられた。
私は苦しさのあまり心がつぶれそうだった。
「今こそ恩返しの時」
そんな想いでVientoコンサートの開催を決めた。
ばらしい音楽家【Viento】の音楽の世界を広島で。



どうぞ、多くの方がこの音楽会に参加されますように。私からもよろしくお願いします。

 


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