池田精子さんが亡くなりました。

被団協副理事長の池田精子さんが21日、お亡くなりになりました。以前からお具合が悪かったので、おそらく被団協がノーベル平和賞を授与されたことは、ご存じないままだろうと思います。

私たちは、「8.6広島平和の夕べ」2010年と2016年の二回来て頂きました。

2010年は、私は司会をしていたので、ちゃんと写真が撮れなくって残念なのですが、その時のことはここに書いています。


http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-291c.html

2010年には主に被爆体験を話していただきました。

『広島女子商業学校1年生12歳の時、学徒動員として、立ち退き疎開家屋の片付け作業中に被爆、光と熱線で大やけどを負い生死をさまようも、ご両親の懸命な看病で命を取りとめました。

でも、少女の肌は一瞬で変化し、その後の肉体的・精神的苦痛は言葉では表現しつくせないほどひどいものでした。お顔のケロイドは、外に出ると赤鬼が来たと言われ、だんだんと心も荒んできたと。そんなある日、学校をさぼって家に帰ったとき、お父さんが近所の人と話ているのをこっそりと聞いたのだと。そのお父様の深い愛に心打たれて、徐々に立ち直っていかれたのだと。

その後、17回にも及ぶ顔の手術を受けられました。

精子さんは日本ではもとよりアメリカやイタリアなど海外での証言活動も多数行ない、人間の滅亡につながる核兵器の恐ろしさ、戦争の悲惨さについて強く訴え続けていらっしゃいます。

池田さんは、被爆直後、国や自治体からの援助もなく、被爆者の多くが、経済的にも、身体的にも苦闘を強いられ、次々と亡くなっていく、そんな時から、被爆者運動の原点でもある活動を始められました。』

2016年には、被団協の立ち上げに至る初期の被爆者運動についてしていただきました。


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その予告を2016年4月28日のブログに書いております。その一部を。

『池田さんは、被爆直後、国や自治体からの援助もなく、被爆者の多くが、経済的にも、身体的にも苦闘を強いられ、次々と亡くなっていく、そんな時から、被爆者運動の原点でもある活動を始められました。

その一部を2013年4月11日からの私のブログに何回かに渡って書いております。「核兵器のない明日を願って-広島県被団協の歩み-原爆被害者団体協議会」に収録されている座談会です。さらにその一部を、ここにコピーします。

池田さんたちは、のちに原爆一号と言われた吉川清さんの家に集まり、つらい立場を話し合いました。それが唯一の慰めだったと言われます。その集まりも「アカの集まり」だと、公安に付け回されます。その集まりが、やがて次の被爆者大会につながっていきます。

 池田 初めての原爆被害者大会が千田小学校(広島市立)で開かれたのが、1956年(昭和31年)3月18日でした。その時はお互い肉親でもないのに肉親以上の者が集まったように親近感を覚えたのを昨日のことのように思い出します。それまでは原爆という言葉を使うことはタブーでしたし、結婚したら「ようあんな者をもらってから」と言われ、子どもがいても「離婚して帰らせ、帰らせ」とというようなひどい仕打ちを受けて、ただ我慢して我慢してうつむいて生活していましたから、大会に集まった被爆者たちはお互い手を取り合って泣き合いました。私も当時まだ若かったですから、年配の方から「あんた、本当によう我慢してきたね。よう生きたね」と励まされて、嬉しくて嬉しくてウォンウォン泣きじゃくりました。

 この大会で、国会請願しようということになって、3月20日に45人で白いタスキをかけて第一回の国会請願に行ったんです。私と阿部さんも着物を着て、下駄を履いて参加しました。東京では鳩山首相の音羽御殿を訪れ、夫人にも会ったんですが、私はいつものように陰の方で顔を隠すようにしていると、伊藤サカエさんだったか船越の婦人会長さんだったか、「あんたら一番前に行きんさい」と一番前に出さされたんです。「見世物にせんでもよかろうに」と思いながらも一番前に立つと、年配の人が私たちを紹介して「この原爆で焼かれた姿を見ちゃって下さい」と切々と訴えていました。

その後、県出身の池田隼人さんの私邸も訪ね陳情しました。この請願行動を終えてから、「組織を作ろう。組織がなきゃ何もできん」という話になりまして。それで私も早速、当時住んでいた畑賀の役場で被爆者の名簿をもらい、四十何人かの被爆者がいたんですが、一軒一軒通知を出して集まってもらいました。すると、よく集まりまして、四十人近くが集まってくれて、被害者の会をつくることができました。』

『藤川 
だから被爆者援護を求める請願行動は熱心にやりましたよ。請願のための上京費用は全部自持ちでね。それで、ほとんどの者が宿泊代節約のために夜行列車を利用して上京したもんですよ。汽車の中で寝て、東京駅で顔を洗って、食事はむすびですませて、そして、そのまま手分けして議員会館に行ったり走り回り、頑張ったもんですよ。

池田 そうでしたね。広島を午後二時発の急行「安芸」というのがあって、翌朝八時に東京に着くんです。駅で顔を洗って、国会に行きましたよね。

池田 私たちは街頭募金にも立ち、カンパのお願いにも回りました。選挙の応援をした町長に助成を頼みに行ったこともあります。この時は苦い思いをしましてね。私は町からちゃんとした助成金を出してもらいたかったのに、町長は「じゃー、わしのポケットから出そう」と財布からいくらか出したんです。その時は情けなくて、頼みに来なければよかったと思いましたよ。助成金を出してもらうことに意味があったのに。』


鳩山首相の音羽御殿で。
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このあたりの池田さんのことについては、この度のノーベル平和賞についての私の記事にも書いております。

まさに、池田さんたちの血のにじむような頑張りがあったからこその被団協でした。池田さんには、心からのお礼を言うほかありません。本当にありがとうございました。どうぞ安らかにお休みくださいませ。


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被爆者の患者さんと。

今日、92歳の方が来院されました。カルテの上には、原を〇で囲んだ印が押してあります。原爆医療のことです。症状を聞いて、ひと段落したときに
「何歳の時に被爆されましたか?」と尋ねました。本当は、年齢からわかるのですが、話のきっかけにするために。そしたら、

「12歳です。女学校の一年生でした。」そこから続きます。

「建物疎開で、中島町に行くことになってたんです。その日、私は学校を休んだんです。行ってたら、死んでました。友達はみんな亡くなりました。」

「中島町なら、二中の一年生と同じですね。爆心地ですもの、助かりませんね。」

「前の日、私は目に砂が入って。十日市の眼科の先生が、明日は学校に行かない方がいいよ。と言って、証明を書いてくださったんです。だから休みました。」

「お宅はどこだったのですか?」

「三篠北町です。家も焼けました。でも、命は助かりました」

「ほんとに偶然ですねえ。その前の日に目に砂が入って命が助かったのですね。偶然で助かった人と、偶然に亡くなった人もいるでしょうね」

こんな話が、広島では、日常的にできます。患者さんとして来られる被爆者の方には、できるだけ話を聞いて置きたいと思います。それぞれの被爆体験を。「8.6広島平和の夕べ」でもそうであるように、年々自らの被爆体験を話して下さる方が少なくなっています。

 先日友人に聞きました。広島でないところに住んでいる人は、被爆していることは話すことできないと。奇異の目で見られたり、明らかな差別をされたりで、つらい、いやな思いをすることもあるからと。そうでしょうね。広島に育っている私たちは、日常的に被爆者と接しています。近所でお好み焼きを焼いてくれていたお姉さんは、腕にひどいケロイドがありました。大学の先輩にも、顔や腕にケロイドのある人は何人もいましたし。そんな中であたり前のように生活をしていましたから。

 でも、時がたつにつれて、そんな状況も段々と薄れて来ています。そしたら、被爆者差別もなくなるのでしょうか。二世や三世への差別もなくなるのでしょうか。

今日のお昼時間にバスセンターにジャンボを買いに行きました。最終日に買えました。残り物に福があるかな?その次いでに、ばすまちでラーメンを食べました。つい美味しそうに見えたので、うま辛ラーメンを頼みました。それはそれはおいしいラーメンでした。が、辛すぎて。涙と鼻水で、途中でギブアップ。今度は味噌ラーメンを食べます。

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非核神戸方式について参議院での岸田首相の答弁

 昨日のブログ、非核三原則に基づいての神戸港の非核神戸方式について、本年2月の参議院での浜田議員の質問に対しての、岸田首相からの答弁が参議院のホームページに載っていましたので、それを転載いたします。一から十一までの質問がありましたが、返答はほとんど一と二についてであり、他はほぼ「差し控える」となっています。

 また、これを読むに、平成十六年三月十六日の参議院外交防衛委員会において川口外務大臣が、また同日参議院予算委員会において川崎運輸大臣が「港湾管理者の機能を逸脱するもの」と答弁しています。それが20年経った今も、同様であると答弁するということは、その後20年間、神戸港がこの神戸方式を守り続けているということでしょう。すごい事、と言わざるを得ません。

この度宿泊したホテルのベランダから撮りました。神戸港から少し沖に出たところを出ていく船です。どこの船で、どこに行くのかは全く分かりませんが、美しい景色でした。

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内閣参質二一三第一四号
  令和六年二月十三日

内閣総理大臣 岸田 文雄


       参議院議長 尾辻 秀久 殿

参議院議員浜田聡君提出国の専決事項たる外交や安全保障を侵害する非核神戸方式に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。


   参議院議員浜田聡君提出国の専決事項たる外交や安全保障を侵害する非核神戸方式に関する質問に対する答弁書

一について

 お尋ねの「いわゆる「非核神戸方式」」に関する現在の政府の見解は、平成十六年三月十六日の参議院外交防衛委員会において、川口外務大臣(当時)が「地方公共団体がいわゆる非核証明書の提出を求めて、そしてその結果に基づいて港湾施設の使用について決定を行うということは、これは、外交関係の処理を行う国の決定に地方公共団体が関与し、あるいは制約をするということでありまして、港湾管理者の権能を逸脱するものである、そして地方公共団体の権能の行使としては許されないというふうに考えております。我が国は、御案内のように、非核三原則ということを国の基本原則、基本政策として堅持をしているわけでして、国が外国軍艦に対して寄港の同意を与えるか否かについて決定をする際にはこの基本政策を堅持するという立場を踏まえて対処をしてきている」と答弁しているとおりである。

二から四までについて

 港湾法(昭和二十五年法律第二百十八号)第二条第一項に規定する港湾管理者としての地方公共団体の業務については、同法第三十四条において、同法第十二条及び第十三条の規定を準用すると規定されているところ、お尋ねについては、御指摘の「外国軍の艦艇の入港の可否を判断し、拒絶し阻止する」、「国が認めた外国軍の艦艇の入港について拒絶し阻止すること」及び「当該外国軍艦艇の神戸港入港を拒絶すること」の具体的な状況並びに「違法」、「現行法及び現行制度」及び「不可能である」の具体的に意味するところが明らかではないため、確定的にお答えすることは困難であるが、一般論として申し上げれば、平成十一年三月十六日の参議院予算委員会において、川崎運輸大臣(当時)が「港湾の適正な管理運営に支障がなく、非核証明が提出されないという理由、これが特定な理由になるかということでありますけれども、外国艦船の港湾施設の使用を拒否した場合には港湾法第十三条第二項の不平等な取り扱いの禁止に抵触することがあり得ると認識いたしております」及び「地方公共団体が非核港湾条例等により、外国艦船が核兵器を積載していないことを証する文書の提出を求め、その結果に基づき港湾施設の使用に関し決定を行う場合には、外交関係の処理に当たる国の決定に地方公共団体が関与し、またこれを制約するものである、したがって港湾管理者の権能を逸脱するものであると考えております」と答弁しているとおりである。

五について

 お尋ねのように「神戸市」が「インドネシア海軍に対して非核証明書を提出」させたか否かについては、地方議会議員の個別の発言の内容に関わるもの又はそれを前提としたものであり、政府としては、お答えすることは差し控えたい。

六について

 お尋ねのいわゆる「非核神戸方式について」「説明がなされているのか」を含め、お尋ねの「入港する外国艦艇の属する軍や政府」とのやり取りの詳細についてお答えすることは、相手方との関係もあり差し控えたいが、いずれにせよ、政府としては、非核三原則を堅持する方針であり、こうした考え方は、これまで様々な場で繰り返し表明してきており、これらの相手方を含め、諸外国も十分承知しているものと考えている。

七について

 お尋ねの「神戸市のいわゆる「非核神戸方式」に対して、日本政府が把握するこれまで米軍をはじめ米国政府の見解やとった行動」については、相手方との関係もあること及び今後の外務省等の事務の遂行に支障を及ぼすおそれがあることから、その詳細について明らかにすることは差し控えたいが、米国政府においては、一般的に、特定の艦船における核兵器の存在については肯定も否定もしないという政策を継続してとってきており、御指摘の「いわゆる「非核神戸方式」」導入以降も、当該政策を変更していないと承知している。お尋ねの「これまで日本政府が米国政府に対して非核神戸方式について情報提供をしたことはあるのか」については、外交上のやり取りの詳細に当たり、相手方との関係もあることから、お答えすることは差し控えたい。

八について

 お尋ねの「救援の打診」があったことは事実である。

九について 

 お尋ねについては、個々の報道を前提とした質問であること並びに神戸市及び米側との関係もあることから、政府としてお答えすることは差し控えたい。

十及び十一について

 御指摘の「いわゆる「非核神戸方式」」に関する政府と神戸市との間でのやり取りについては、相手方との関係もあること及び今後の外務省等の事務の遂行に支障を及ぼすおそれがあることから、その詳細をお答えすることは差し控えたいが、いずれにせよ、一についてで述べた見解を踏まえ、今後とも必要に応じて適切に対応していく考えである。

以上です。
 

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非核神戸方式。神戸港にはこんなことがあります。

 神戸でクルージングをしようと思って尋ねた時、「8.6.ヒロシマ平和の夕べ」の神戸のスタッフがこんなことを教えて下さいました。私は、これまで知らなかったので、びっくりしました。

 「非核神戸方式」というのだそうです。以下、教えて頂いた通りです。日本は、「非核三原則」に基づいて、核の持ち込みは許されていません。それをきっちり守っています。


神戸港は、「核兵器積載艦艇の神戸港入港拒否に関する決議」(非核神戸方式/条例ではなく「市議会決議」)により、外国艦船は「核を積載していない」という非核証明書を提出しないと入港できません。


戦後は米軍占領下に置かれ、朝鮮戦争やベトナム戦争では米軍艦船の拠点でした。1960年代のころ、港には「第6突堤(6突)」という米軍専用バースがあり、しばしば抗議デモも行われました。


1975年、神戸市議会で当時の社会党市議が市長に質問し、「核搭載艦船は神戸港には入港させない」と答弁を引き出したことがきっかけになり、「非核神戸方式」が満場一致で可決されました。以降、フランス、イタリア、インドなどの艦船は非核証明書を提出し入港しましたが、米艦船は核搭載秘匿のため証明書を提出せず入港できません。


2000年代に入港しようとしたことがあり、反対のデモも起こり、けっきょく「県管理の」姫路港に入りました。姫路でも抗議行動がありました。


非核神戸方式は、港湾法で定められた港湾管理者である市長権限の行使によります。港湾法は戦後の民主法の第1号と言われます。戦前は、神戸や横浜など重要港湾は国に管理され、輸送や出兵に使われ侵略戦争への出撃拠点になりました。その反省から港湾法は、「港湾はそれぞれ地方自治体が管理し、国家利用されることを排除する」と謳っています。


一方、神戸には三菱重工、川崎重工の造船所があり、自衛隊の潜水艦を製造や修理をしています。神戸港遊覧船に乗ると、黒い潜水艦がドックに入っているのを見ることができます。

教えて頂いたのは、以上です。なんか、すごい。素晴らしい。

 この前神戸に行った時に撮った神戸港です。もう少しいいアングルがあったのですが、間に合わなくって。手前の大きな船。どこの国のでしょうか。

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今年の2月1日、参議院にて、以下のような質問がありました。提出者は浜田聡議員。提出先は尾辻秀久参議院議長です。前半は省きます。要するに、日本はアメリカと友だちなのに、このような提出を求めるのは失礼ではないか、国としてはどうなのか、ということが面々と述べられています。

一 神戸市会で昭和五十年三月十八日に議決された「核兵器積載艦艇の神戸港入港拒否に関する決議」を尊重する形で神戸市当局が外国艦艇に対して非核証明書の提出を求めるといったいわゆる「非核神戸方式」に関する現在の日本政府の見解は如何。

二 神戸市のいわゆる「非核神戸方式」の運用は港湾法による港湾管理者としての権限を著しく超えるものであり、港湾管理者に外国軍の艦艇の入港の可否を判断し、拒絶し阻止する権限は存在し無いと考えるが日本政府の見解は如何。

三 港湾管理者である地方公共団体が、国が認めた外国軍の艦艇の入港について拒絶し阻止することは違法であると考えるが日本政府の見解は如何。

四 神戸市のいわゆる「非核神戸方式」については何ら法的拘束力を持つものではなく、現行法及び現行制度上、神戸港の港湾管理者である神戸市が、外国軍艦艇に神戸港入港に際して非核証明書の提出を義務づけること、非核証明書の提出がなされなかった場合に当該外国軍艦艇の神戸港入港を拒絶することはいずれも不可能であると解するが日本政府の見解は如何。

五 神戸市が「非核神戸方式」を運用する神戸港にはこれまでも外国軍の艦艇が入港している。令和元年には海上自衛隊阪神基地隊との親善交流のためにインドネシア海軍練習帆船が神戸港に入港したが、自民党の神戸市会議員、上畠寛弘氏によると、その際にも神戸市はインドネシア海軍に対して非核証明書を提出させているとのことである。本件の政府による認識の有無について伺いたい。

六 神戸市による「非核神戸方式」の運用以降、外国軍の艦艇が神戸港に入港するに際して日本政府は神戸市の運用によって行われている非核神戸方式が原因のトラブルの発生防止や相手国に礼を失さないようにすべきであると考える。日本政府から入港する外国艦艇の属する軍や政府に対して非核神戸方式については説明がなされているのか。

七 神戸市のいわゆる「非核神戸方式」に対して、日本政府が把握するこれまで米軍をはじめ米国政府の見解やとった行動は何か。併せてこれまで日本政府が米国政府に対して非核神戸方式について情報提供をしたことはあるのか。

八 阪神淡路大震災時に米国政府より救援の打診があったことは事実であるのか。

九 産経新聞の配信するネット記事「平成三十年史 大震災の時代」には、阪神淡路大震災時に官房副長官を務めた石原信雄氏による「神戸市の条例で神戸港に米艦船を受け入れるには、核兵器搭載の有無を調べる必要があり、同市が難色を示した。政府が拒否したわけではない」とのコメントが掲載されているが、日本政府として、阪神淡路大震災時に米軍の支援を受け入れることについて神戸市が難色を示したことは把握しているか。

十 これまで日本政府は神戸市に対していわゆる「非核神戸方式」についての懸念や国会で表明されているような見解を神戸市に対して伝えたことはあるか。併せて伝えていた場合は神戸市の反応は如何であったか。伝えていなかった場合は今後、政府としての懸念や見解を伝える予定はあるか。伝えていた場合は伝えた理由、伝えていなかった場合も伝えていなかった理由について明らかにされたい。

十一 本質問主意書が提出されたことを踏まえて神戸市に対していわゆる「非核神戸方式」についての政府の懸念や政府見解を伝えるとともに改善を求めて頂きたいと考えるが如何か。

以上が
質問です。この答弁を探しました。やはり。国がこの神戸方式を苦苦しく思っている事は十分にわかります。

これから、トランプ大統領となってもこれを堅持できるか・・。明日、その答弁をアップしますね。

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「モリチョウさんを探して」観ました。

昨夜、出先でNHKEテレ「モリチョウさんを探して~ある原爆小頭児の空白の生涯~」を観ました。1993年8月に放送されたETV特集の再放送でした。何とも悲しい、同時に憤りを覚えずにはいられない作品でした。また、こういうテーマを様々な困難の中で丁寧に作られていることにも感動がありました。

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 ただ、お母さんの胎内にいて、被爆をしたというだけで、頭が小さく、重い知的障害をもって生まれて来た原爆小頭児。モリチョウさんは小学校の教師は、彼が字も読めず書くこともできなかったと言われました。彼は広島の被爆者ではありましたが、故あって、東京で一人暮らします。小頭症だけでなく、原爆によるけがが腫瘍となり、その治療を受けながらも、ふわふわと夜の街で働きながら、孤独な人生を過ごします。やがて腫瘍は悪性の肉腫となり、そのために42才の若さで亡くなります。

 番組は、彼が亡くなった後、困難な中、彼の足跡を丁寧にたどりながら、それを番組にしたものです。

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何ともやり切れません。きっとこんな孤独な死を迎えた被爆者は沢山いたでしょう。

誰も看取ることがない死。彼の死後、彼には母親がいたということをこの作品の作者は突き止めます。父親は被爆からほどなく、原爆症で苦しみながら亡くなったと。せめて、彼の存命中にお母さんがいることを知ることができたなら・・。そう思わざるを得ません。

 30年余り経って再放送されたこの貴重な番組、せめて戦争への道をひた走りそうな、為政者たちは、この番組を見るべきだと強く思います。きっと被爆80年に向けて、これまでの様々な番組が再放送されることでしょう。できるだけ見続けたいと思います。

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原爆小頭症児のドキュメント

フェィスブックのお友だちの平尾直政様の記事を転載させていただきます。原爆小頭症のドキュメントと言えば、もっぱら平尾さんの番組が圧倒的でした。テレビもラジオも。以前、車の中で平尾さんのラジオ番組を聴いていて、大泣きしたことがあります。他には、一つだけ山口の民放が作ったのを見たことがありますが。

 このNHKの番組は全く知りませんでした。報せて頂いてありがとうございます。皆さまにも、ぜひ広くお知らせしたいので、転載させていただきました。今週の土曜日です。私は、出先の予定ですが、ホテルで見ます。

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被団協のノーベル平和賞の受賞について⑦

 被爆で体中焼かれ、放射能にむしばまれながら、反核運動を頑張って来た方が次々とがんで亡くなります。昨日、親しい方が亡くなったお顔を拝見していて、森瀧市郎先生がお亡くなりになった時のことを思いました。どうしてもお通夜に間に合わず、でも、お会いしたくて、お通夜の後に行って、会わせて頂きました。あの人を魅了する風貌そのままのお顔で休まれていました。

 私の世代は、初期に頑張った被爆者の方たちにお会いできた世代でもあります。森瀧市郎さん、吉川清さん、川本一郎さん、高橋昭博さん、四国五郎さん、中沢啓治さん、石田明さん、李実根さん、近藤幸四郎さん、沼田鈴子さん、伊藤サカエさん、栗原貞子さん、小西信子さん、坪井直さん、李鐘根さん、小野瑛子さん、松原美代子さん・・。この方たちに直接お会いして、お話しをうかがうことができたことは、今も私自身の血となり肉となっています。本当にありがたいことでした。


 さて、森瀧市郎さんの座り込みについての日記を続けます。フランス核実験に抗議して座り込みをはじめた、その前史の事です。

「前史」のもう一つの大きな事例は昭和三七年四月の慰霊碑前一ニ日間の座り込み行動である。
 世界世論の高まりの中で米ソとも実験を停止していた時があったが、いつ再開されるかもしれぬという不安があったので、昭和三六年夏の原水禁世界大会の決議では「今日最初に実験を開始する政府は平和の敵・人類の敵として糾弾されるべきである」とうたいあげた。

 ところが、それから幾何もたたない八月末に、ソ連が実験再開の声明を出した。その再開声明には再開の理由が情理をつくして述べられていた。そのためか、当然反対し抗議するはずであった日本国民の中にも、再開声明を指示する党派も現れて、原水禁運動に大きな混乱が起こった。それ以来「同列視せず」の論理と」「いかなる」の論理との激しい論争がつづき、遂には運動分裂の大きな契機ともなった。
 その翌年昭和三七年一月、米国も太平洋上空で四月中旬から開始する大規模の実験計画を発表した。私たちは絶望的な核実験競争時代の到来を実感した。

 広島では原爆慰霊碑前で四月二〇日から核実験計画を中止せよと要求して座り込み行動がはじめられた。通して座り込むのは吉川清君と私とであったが、私は大学に辞表を退出して背水の陣の決意で座り込んだ。夜はテント内で仮眠するが原則として昼夜連続無期限の座り込みであった。私は三日目位に日射病でたおれ、平和会館に帰り一両日の静養をしたことはあるが、ともかく座り込みを続けた。

 その座り込みの輪は日々急速にひろがって行った。被爆者、労働者、宗教者、学生、一般市民老若男女、参加者の数は日々に増した。全国のあちこちでも座り込みが起こり、東京数寄屋橋公園では広島から上京した被爆者代表竹内美代子さん母子を包んで安井郁・平野義太郎両氏をはじめかなりの数の人々が参加して座り込んだ。(以上で引用終わります。)


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森瀧先生がいらっしゃらなくなっても、被団協の座り込みは続いています。

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 国内、さまざまなところに行き、対話、演説をいとわなかった森瀧先生が、世界の一体どれだけの国に行かれたのかと見てみました。

1957年8月 イギリス、ドイツ、フランス、オーストリア平和行脚
1962年6月 ガーナ「原爆のない世界のためのアクラ会議」(シュバイツァー博士に会う)
1964年10月 オーストラリア 「国際会議と軍縮のためのオーストラリア会議」(アボリジニの差別と核被害)
1965年4月 ソ連(ソ連平和委員会・被爆者平和使節団)
1971年4月~ アメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、スウェーデン、ソ連、ユーゴスラビアを反核・平和行脚
1974年5月 フランス、イギリス、イタリア、フランスの核実験抗議)
1975年4月 フィジー(非核太平洋会議)
1978年5月 ニューヨーク・国連本部(第一回国連軍縮特別総会)
1980年5月 ハワイ(非核独立太平洋会議)
1981年11月 西ドイツ。ドルトムント市平和集会
1982年6月 ニューヨーク第二回国連軍縮特別総会(ニューヨーク・反核100万人集会)
1985年6月 中国(南京市内で南京大虐殺事件の生存らと、戦争被害者交流会)
1987年9月 ニューヨーク(第一回核被害者世界大会)
なお、外国ではありませんが、1985年8月には、沖縄での国際連帯会議に出席。1989年4月には青森県六ケ所村での反核燃全国集会であいさつ、人間の鎖の先頭に立つ

本当に体に鞭打って、全世界に核廃絶を訴えて回られました。

森瀧先生は、どんな人のいうことにも耳を傾けられ、真剣に聞いて下さいました。たとえ、私たちのような学生の若造でも。私たちが1971年、被爆者青年同盟を作って、平和公園で座り込みをしていた時、まさかまさか、森瀧先生が来て下さったのです。しゃがみ込んで激励して下さいました・・。私たちにたいしても敬語でした!!どれだけうれしかったか、胸が熱くなりました。その時の座り込みの写真です。こちらを向いているのが私。一番手前は、私たちで病院を作ろうと(今もあります高揚第一診療所)したとき、土地を提供して下さった〇内さんです。

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 森瀧市郎先生が亡くなった時、大江健三郎氏は、「ここに哲学者がいる」と投稿されました。「核実験に抗議する人々の輪の中に、いつも哲学者森瀧市郎先生がいられたことはまことに大きい意味があるだろう。私はあらかじめその意味を受けとめる心において、あのようにいつも、ここに哲学者がいる、と感じ取って来たのだ。これからも森瀧先生の著作を通じて、ここに哲学者がいる、と思いつづけるだろう。そして自分がひとり二十世紀末の核状況について心重く考える時にも、その脇に確かな幻の様にして・・・。」


長々と書いてしまいましたが、読んで戴いた方、どうもありがとうございました。被団協のノーベル平和賞受賞というおめでたい出来事をどうとらえればいいのか、私自身のもやもやから始めたことです。はっきり言えることは、森瀧先生がいらっしゃらなければ、被爆者の運動はこうは行かなかったでしょうし、その陰には、名もなき被爆者の方たちの地道な働きももちろん、数多くあったということだと思います。


 実は、この件について、私には今新たな課題が出てきています。もう少しまとまったら、また、もう一度書きたいと思います。

 

 

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被団協のノーベル平和賞の受賞について⑥

広島で、被爆者は1973年7月20日、フランスの核実験に抗議して原爆慰霊碑前で座り込みを行い、以後核実験の度に座り込みは行われ続けました。

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1990年3月13日、慰霊碑前の座り込みはついに500回となりました。森瀧市郎さんは、93年7月20日、核実験抗議20周年記念座り込みに参加されました。

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その直後の8月4日、被爆48周年原水爆禁止世界大会開会総会で主催者を代表して挨拶。8月6日には広島県被団協の原爆死没者追悼慰霊式典で追悼の辞を述べられました。そしてすぐに広島日赤、原爆病院に入院。一旦退院、10月18日胃がんのために入院。11月16日、病院から外出許可を得て平和記念公園を最後の散策。94年1月25日に亡くなりました。森瀧先生最後の座り込み、93年7月20日は亡くなる半年前です。

 森瀧市郎さんの「人類は生きねばならぬ」の日記1984年2月15日「座り込み十年・その前史と理念」から。

 昭和四十八年、フランス核実験に抗議して原爆慰霊碑前で触り込み行動をして以来、いかなる国が核実験をやっても、その都度抗議の座り込みを行って来て、昨年はついに一〇周年を迎えた。座り込み行動一〇年の継続は動かしがたい反核の力を培ってきた。「継続は力なり」を実感しないではおれないのである。

 この貴重な一〇年の歴史にはさらにその「前史」というべきものがあり、反核座り込みの精神や理念はその前史の中に躍動していた。それが言わず語らずの裡に受け継がれて座り込み一〇年の歴史を為したのではないか。

 私がここで「前史」と呼ぶのは、具体的には昭和三二年の慰霊碑前座り込みと、昭和三七年四月の慰霊碑前座り込み行動である。

 昭和三二年と言えば、英国がクリスマス島で水爆実験を行い、米・ソに続いて第三の核保有国となった年である。あの年一月七日英国政府がクリスマス島水爆実験計画を発表し危険水域を設定した時、日本では俄然強い抗議行動が起こり、実現されなかったとはいえ「抗議船団」派遣が熱心に討議されたり、米英ソ核保有参加国に抗議のための国民平和使節団が送りだされたりしたのであった。

 その時広島では三月下旬から四月中旬にかけて被爆者数名が原爆慰霊碑前で「祈りと抗議の座り込み」を続けた。吉川清、小林薀徹、南小一、河本一郎などの諸君であった。三月下旬の夜はまだ寒いときであった。その頃慰霊碑のまわりに堀を巡らす工事で土が掘り上げられて塹壕のようになっていた。寒い夜風を避けるために、その塹壕のような窪みに降りて、蝋燭を付けて座り込んでいた被爆者有志の姿は今も眼底に焼きついている。
 この数名の被爆者有志の行動に動かされて広島県被団協は四月六日にこの人たちを包んで「祈りと抗議の座り込み」をおこない、その場で被団協の抗議大会を開いた。
 しかしこの数名の被爆者の座り込みは猶もつづけられ、遂に四月二〇日の実験抗議広島大会にこぎつけて座り込み行動を打切った。そしてその大会の抗議決議文を引っ提げて上京し、米英ソ三国の大使館に乗り込んだのであった。
(略)
 四月二〇日の実験抗議広島集会で私は「世界への質問」という打出しで次のように訴えた。

「きょう私は二〇数万の原爆犠牲者が眠るこの慰霊碑の前で一個の倫理学者として全世界に向かって一つの質問を厳粛に提出します。
『今日世界で最も強い国というのは最も大きな罪悪を犯さなければならない国のことであろうか。』」

 私たちは今日もこの質問を以て全世界に問いつづけ核大国に迫りつづけているのである。この問いの根底には核絶対否定の理念が強く働いているのである。

「前史」のもう一つの大きな事例は昭和三六年四月の慰霊碑前一ニ日間の座り込み行動である。

(長くなりました。もう少し、明日に続きます。後一回で終わります。)

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被団協のノーベル平和賞の受賞について⑤

昨日は、弁護士会館にて「被爆地ヒロシマが被曝を拒否するー過去は変えられないが未来は変えられるー伊方原発ひろしま裁判いよいよ高裁へ~ノーモア・ヒバクシャひろしま集会~」がありました。小出先生をはじめとして、いろいろな方からの発言、提言があり、とっても勉強になりました。現地参加者90人以上、ズームでの参加者54人。これは始まる前の会場です。これについては、また、お知らせしますね。

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その前に、被団協の座談会について、いつまでも引きずっているので、どうしても分裂の事について、先に済ませておきます。すでに保守系の人たちが抜けていった後のことです。

坪井  (略)1964年に被団協が分裂してしまいましたが、これは大変な事だっんでしょう。
近藤  あの分裂は大きかったですね。ソ連の核実験をめぐって分裂したんですよ。
池田  「いかなる」問題ですよね。
近藤  そうです、そうです。「いかなる」問題です。当時は職場にいたんですが、すさまじかったですよ。会議では怒鳴り合いをやるわ、物を投げるわ・・・。
藤川  平和記念式典にもどーと押しかけて来てね。右翼までバケツに糊を入れてやって来て、バーと書けるんですわ。うまいことを考えたもので、糊をかぶったら取れなくて大変なんです。右翼は三年くらい続けましたが、そのうちに学生も入ってきましたね。
坪井  学生もすごかったですね。
藤川  ああゆう騒動がなければ、国会議員さんもうまくやってくれたんですがね。庄原出身の永山(忠則)という国会議員がいて、十八人の国会議員を集めて被爆者懇談会を作ったんです。これがいい具合にいってくれたらと期待していたんですが、分裂するやら騒ぎになるやらで国会議員さんに頼めるような状態ではなくなってしまって。どうにも物事はうまくいかんものです。国会議員さんがやっと歩調をそろえてくれたかと思うと、あんなことになってしまって・・・。
坪井  分裂する前は請願なども一緒にやっていたんでしょう。
近藤  そうですよ。一緒でした。
池田  そうでしたよね。
藤川  東京では一泊三百五十円ほどの安宿で一緒に寝起きしてね、やりましたよ。
坪井  当時は、原水禁、原水協というようなことは全くなかったんですね。
藤川  そうです。
坪井  阿部さんも請願行動には参加されていたんでしょう。
阿部  ええ、最初のうちは動いていました。でも途中、年寄りの世話と子育てで動けない時期もありました。
坪井  それでも証言活動では国内のあちこち回られたのでしょう。
阿部  ええ、回りました。あちこち行きました。


坪井  それらの活動もすべて分裂前のことですよね。当時はそういう状況ですから国会議員のかかわりも幅広かったのではないですか。
藤川  そうですよ。陳情行動は全ての政党に行きましたよ。
近藤  当然ですよ。
坪井  そうなると、あの分裂の影響は本当に大きかったんですね。うまくいっていたのが「ガバー」ですからね。
近藤  本当に大きかったですね。
坪井  その当時も国会請願には毎年行っていたんですか。
藤川  そうです。それも春に行き、夏に行き、秋に行きですよ。
坪井  請願は主として被爆者援護法だったんですか。
藤川  そうです。
近藤  もちろん援護法ですよ。
坪井  核兵器廃絶の問題はまだそれほどではなかったんですか。
藤川  核兵器廃絶も最初から当然ありましたよ。
坪井  当時から二本柱だったわけですね。
藤川  当時の請願行動は今と大分違っていましたね。理解のある県会議員さんがいて、東部の県会議員さんなんですが、私たちの請願に同行してくれ、段取りも議員さんの方で「きょうは厚生省に行きましょう」とやってくれました。厚生省に行くと職員に、「被爆者の話を真剣に聞きなさい」と迫るんです。だから厚生省の職員も私たちの話を本気で聞いてくれましたよ。ありがたかったですよ。
坪井  厚生省も当時は真面目だったんですね。今の厚生省には被爆者の声に耳を傾けてくれるような熱心さはないですよ。「はいはい承っておきます」という感じで・・・。
藤川  当時は、熱心に聞いてくれましたよ。被爆者健康手帳の一本化の時も、「特別と一般の二種類の手帳があることは被爆者の差別を招く、差別しないようにしてほしい」と要望したら、翌年には一本化されましたから。差別という言葉を受け止めてくれたと思うんです。
坪井  そういう時代もあったんですね。
池田  私たちの国会請願も必死でしたからね。当時だって、こちらが黙っていてやってくれたわけじゃありません。何度も何度も頼みに行かなければ、動きませんでした。国の方からしてあげようなんてことは一度もありませんでしたよ。
坪井  こっちの熱意も今と違っていたんですね。
近藤  今池田さんや藤川さんの話されたのは、県被団協の請願行動ですが、私は当時、職域でしてね。県労被爆連です。カネがなかったという状況は私らも待全く同様で、夜行列車で行き、ホテルは一人分の宿泊費で四、五人ももぐりこんだりして苦労しましたよ。請願では、厚生省、大蔵省、官邸などを回りましたが、役所は冷たかったですよ。広島出身の国会議員のところへ行けばいいんですが、役所は本当に冷たかったです。
坪井  お話しを聞いていると、当時の請願行動には熱が入っていたんですね。
藤川  そりゃー、命を懸けていましたからね。
(以下略します。)あと、もう一回、座り込みのことについて書いて、終りとしますね。

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本日の集会の案内です。

今日、小出先生の講演があることを昨日のブログでお知らせしました。とても楽しみで、と。

 今日になって、その内容を知り、うろたえています。今朝初めてチラシを見たのです・・。まさか、その内容がこうだとは。あまりに昨日のブログとシンクロするので、なんか、申し訳ないような、その意味が自分でどうしたらいいのか分からないままに、とりあえず、今日の内容のチラシをアップします。失礼な事をしたのではないかと案じています。

 私も、伊方原発広島裁判の原告の一人です。

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