「8.6ヒロシマ平和の夕べ」⑥いろいろ

「8.6ヒロシマ平和の夕べ」も無事終わって。いろいろと思い出しています。楽しかったことも。それを今回最終回としてお伝えしますね。

これ、なーんだ。

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実は、杉浦ひとみ先生と食事をして。こんな鯛の煮つけをこんなにきれいに食べてらっしたのに、びっくり。ちょっと食べかけのところの写真ですが。小骨は食べちゃったの?

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ひゃ―、きれい。あんまり見事なので、ついもう一匹食べますか?と訪ねたら、食べさせてもらえるのですか?と言われるので、はい、どうぞと。そしたら、今度もこんなに。

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すごいなあ。拍手しました。そしたら、網本の娘ですと。へーえ、そうなのですか?おじい様が網本だったのだそうです。うーん、私もきれいに食べる方だけど、ここまでは。その杉浦先生がしていらっした黄色のスカーフ。

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いくつか持っていらっしたので、私も購入しました。「平和を求め軍拡を許さない女たちの会」の販売で、モチーフは「ミサイルか鳩に変わる」だそうです。きれいな色です。

会に来て下さった方たち。

黒田レオンさん、ローザさん。いつも遠方からありがとうございます。被爆者のレオンさん、もう85才。とても若々しく、愛知から車を運転してこられました。しかも、高速を使わないで。この後、長崎にも行かれたと。素晴らしい。どうぞ、いつまでもお元気で、子どもたちに被爆体験を話してあげて下さいませ。レオンさんのお元気な姿は、私たちの希望です。

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今年も水戸喜世子さんにお会いできて、本当にうれしい。応援して下さってありがとうございます。

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俳優の斎藤ともこさん。人知れず、胎内被爆者のきのこ会の応援をしていらっしゃいます。会の初めから終わりまで、ずっと聞いて下さいました。

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青森、弘前から参加して下さいました佐原若子さん。歯科医で、核戦争に反対する医師の会、IPPNWの常任世話人。近々、反原発の立場で立候補されると伺いました。素晴らしい。本当に遠方からありがとうございます。ご活躍を期待します。

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東北からの三人組の皆さん。暑い中、いつも本当にありがとうございます。

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そして、当日会場で販売した松本正さんの本。完売しました。きっと感動されると思います。これを読んで、まだまだ私も知らないことがあったと思いました。なお、私のクリニックには、何冊か置いています。必要であればどうぞ。

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それから、「8.6ヒロシマ平和の夕べ」をいつも録画してDVDにして下さっている風呂さん。2019年のと、2020年のをもって来て下さいました。これも完売しました。2019年のには、ちょうど、佐藤さんのお話しにあった切明千枝子さんのお話しも、それから水戸喜世子さんのお話しも収録されています。

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そして、私も注文していた本が届きました。ぶじ購入できて、ありがいことです。大切に読みます。

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再度、皆様にお礼を申し上げます。皆さまのおかげで19回目の今回も無事終了することができました。来年は被爆80年。この会も20回目となります。どんな会にしようかと、今から頭を巡らせています。また無事に皆様にお会いできますように。本当にありがとうございました。

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「8.6ヒロシマ平和の夕べ」⑤田上富久前長崎市長の話2.

「8.6ヒロシマ平和の夕べ」に出席の皆様に、田上さんのレジュメと共にお配りした、2019年の長崎平和宣言です。

  長崎平和宣言


目を閉じて聴いてください。

幾千の人の手足がふきとび
腸わたが流れ出て
人の体にうじ虫がわいた
息ある者は肉親をさがしもとめて
死がいを見つけ そして焼いた
人間を焼く煙が立ちのぼり
罪なき人の血が流れて浦上川を赤くそめた
ケロイドだけを残してやっと戦争が終わった
だけど……
父も母も もういない
兄も妹ももどってはこない
人は忘れやすく弱いものだから
あやまちをくり返す
だけど……
このことだけは忘れてはならない
このことだけはくり返してはならない
どんなことがあっても……

これは、1945年8月9日午前11時2分、17歳の時に原子爆弾により家族を失い、自らも大けがを負った女性がつづった詩です。自分だけではなく、世界の誰にも、二度とこの経験をさせてはならない、という強い思いが、そこにはあります。

 原爆は「人の手」によってつくられ、「人の上」に落とされました。だからこそ「人の意志」によって、無くすことができます。そして、その意志が生まれる場所は、間違いなく、私たち一人ひとりの心の中です。

 今、核兵器を巡る世界情勢はとても危険な状況です。核兵器は役に立つと平然と公言する風潮が再びはびこり始め、アメリカは小型でより使いやすい核兵器の開発を打ち出しました。ロシアは、新型核兵器の開発と配備を表明しました。そのうえ、冷戦時代の軍拡競争を終わらせた中距離核戦力(INF)全廃条約は否定され、戦略核兵器を削減する条約(新START)の継続は危機に瀕しています。世界から核兵器をなくそうと積み重ねてきた人類の努力の成果が次々と壊され、核兵器が使われる危険性が高まっています。

 核兵器がもたらす生き地獄を「くり返してはならない」という被爆者の必死の思いが世界に届くことはないのでしょうか。


 そうではありません。国連にも、多くの国の政府や自治体にも、何よりも被爆者をはじめとする市民社会にも、同じ思いを持ち、声を上げている人たちは大勢います。


 そして、小さな声の集まりである市民社会の力は、これまでにも、世界を動かしてきました。1954年のビキニ環礁での水爆実験を機に世界中に広がった反核運動は、やがて核実験の禁止条約を生み出しました。一昨年の核兵器禁止条約の成立にも市民社会の力が大きな役割を果たしました。私たち一人ひとりの力は、微力ではあっても、決して無力ではないのです。

 世界の市民社会の皆さんに呼びかけます。戦争体験や被爆体験を語り継ぎましょう。戦争が何をもたらしたのかを知ることは、平和をつくる大切な第一歩です。

国を超えて人と人との間に信頼関係をつくり続けましょう。小さな信頼を積み重ねることは、国同士の不信感による戦争を防ぐ力にもなります。人の痛みがわかることの大切さを子どもたちに伝え続けましょう。それは子どもたちの心に平和の種を植えることになります。

 平和のためにできることはたくさんあります。あきらめずに、そして無関心にならずに、地道に「平和の文化」を育て続けましょう。そして、核兵器はいらない、と声を上げましょう。それは、小さな私たち一人ひとりにできる大きな役割だと思います。

 すべての国のリーダーの皆さん。被爆地を訪れ、原子雲の下で何が起こったのかを見て、聴いて、感じてください。そして、核兵器がいかに非人道的な兵器なのか、心に焼き付けてください。

 核保有国のリーダーの皆さん。核不拡散条約(NPT)は、来年、成立からちょうど 50年を迎えます。核兵器をなくすことを約束し、その義務を負ったこの条約の意味を、すべての核保有国はもう一度思い出すべきです。特にアメリカとロシアには、核超大国の責任として、核兵器を大幅に削減する具体的道筋を、世界に示すことを求めます。

 日本政府に訴えます。日本は今、核兵器禁止条約に背を向けています。唯一の戦争被爆国の責任として、一刻も早く核兵器禁止条約に署名、批准してください。そのためにも朝鮮半島非核化の動きを捉え、「核の傘」ではなく、「非核の傘」となる北東アジア非核兵器地帯の検討を始めてください。そして何よりも「戦争をしない」という決意を込めた日本国憲法の平和の理念の堅持と、それを世界に広げるリーダーシップを発揮することを求めます。

 被爆者の平均年齢は82歳を超えました。日本政府には、高齢化する被爆者のさらなる援護の充実と、今も被爆者と認定されていない被爆体験者の救済を求めます。長崎は、核の被害を体験したまちとして、原発事故から8年が経過した今も放射能汚染の影響で苦しんでいる福島
の皆さんを変わらず応援していきます。

 原子爆弾で亡くなられた方々に心から哀悼の意を捧げ、長崎は広島とともに、そして平和を築く力になりたいと思うすべての人たちと力を合わせて、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に力を尽くし続けることをここに宣言します。

 2019 年(令和元年)8月9日
          長崎市長 田上 富久

田上さんの講演では、沢山の教訓がありました。

様々な外国に行って、そこの指導者と話した時の学び、平和宣言がどのように作られたか、そして、平和を語り、訴えるのは、広島・長崎だけに任せてはいけない事などなど。

平和宣言を作る時、若い高校生たちの話から。2022年の平和宣言には、このような一文が入りました。

「私たちの市民社会は、戦争の温床にも、平和の礎にもなり得ます。不信感を広め、恐怖心をあおり、暴力で解決しようとする“戦争の文化”ではなく、信頼を広め、他者を尊重し、話し合いで解決しようとする“平和の文化”を、市民社会の中にたゆむことなく根づかせていきましょう。高校生平和大使たちの合言葉「微力だけど無力じゃない」を、平和を求める私たち一人ひとりの合言葉にしていきましょう。
長崎は、若い世代とも力を合わせて、“平和の文化”を育む活動に挑戦していきます。」

また、中学生に話を聞いた時、戦争・平和と言われても良くわからない。でも、身近にいるお母さんがある日いなくなる、と想像することはできると。そして、その年、2016年の平和宣言には、このような一文を入れましたと。

「若い世代の皆さん、あなたたちが当たり前と感じる日常、例えば、お母さんの優しい手、お父さんの温かいまなざし、友だちとの会話、好きな
人の笑顔…。そのすべてを奪い去ってしまうのが戦争です。戦争体験、被爆者の体験に、ぜひ一度耳を傾けてみてください。つらい経験を語ることは苦しいことです。それでも語ってくれるのは、未来の人たちを守りたいからだということを知ってください。長崎では、被爆者に代わって子どもや孫の世代が体験を語り伝える活動が始まっています。焼け残った城山小学校の校舎などを国の史跡として後世に残す活動も進んでいます。若い世代の皆さん、未来のために、過去に向き合う一歩を踏み出してみませんか。」

 時代の担い手を育てる~若い世代が新しい社会を作る~では、若い人に一方的に教えようとしても、伝わらないと。世代間で教え合い、学び合う時代であると。そして、若い世代の挑戦を応援することと。

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本当にその通り。これは、すべての社会に当てはまります。私自身にとっても、しっかり当てはまることです。反省しなくっては。

 田上さん、貴重なお話しを本当にありがとうございました。お願いをして、ほんとうによかったと思っています。できたら、この田上さんの講演はあまりにもったいないので、田上さんの了解を得て、講演録にできればいいのですが。考えてみると、この平和の夕べでは、多くの方に貴重なお話しをしていただいています。ほとんどすべてが映像に残っているのですが、それをどうしよう、というのも、私たちの課題になっています。

 今年の「8.6ヒロシマ平和の夕べ」について、もう一日、雑談をしたいと思います。楽しい話もいろいろとありますので。

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「8.6ヒロシマ平和の夕べ」④田上富久前長崎市長の話1.

今年の「8.6ヒロシマ平和の夕べ」の平和講演は、長崎前市長の田上富久さんにお願いしました。

 8.6ヒロシマ平和の夕べは、今年で19回となります。この間、沢山の方に来て頂いてお話しを伺いました。中には、もうお亡くなりなった方も何人もいらっしゃいます。京都大学原子炉実験所の小林圭仁先生、はだしのゲンの中沢啓治さん、「ずっこけ三人組」「広島の原爆」の児童文学者那須正幹さん、初回から毎回来て下さり私たちの道標となっていた電車内被爆者の米澤鐵志さん、作家の高史明さん、韓国人被爆者の李鐘根さん、私たちのスタッフの仲間、原伸幸さん、中村周六さん・・。

 振り返ってみると、常にヒロシマ、沖縄、原発→途中から福島をテーマにしていましたが、「長崎」が弱いと感じ続けていました。長崎を何とかしなければ、で、私はこれまで田上さんに何回も長いお手紙を書いてきました。市役所あてですので、無事届いてご本人に読んで戴けるのか否かわからないままに。「8.6ヒロシマ平和の夕べ」とは、このような会です。ぜひ、8月6日に広島でこの会でもお話しいただけませんでしょうかと。でも、おそらく、現役の市長さんの間は無理だろうなあと思いながらも、お手紙を書き続けました。そして、今回、やっと来てお話しして戴けることになりました。

 長崎の平和祈念式典は、広島市のと違って、いつも被爆者に対して暖かい、優しい、それでいて世界にしっかりと核廃絶を訴えている、何が違うのだろうかと思い続けてきました。

 それも含めて、田上さんのお話しはまた、素晴らしいものでした。タイトルは、「平和のために市民社会にできること」。お話をそっくり再現することは難しいのですが。できるだけご報告してみますね。

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 田上さんが皆さんに配布されたレジュメをアップしますね。

8.6ヒロシマ平和の夕べ・平和講演

 「平和のために市民社会にできること」 

             長崎地域力研究会(前長崎市長) 田上 富久

 

  • はじめに  ~核兵器をめぐる状況

  • 被爆地が果たしてきた役割 

 1.被爆の実相を伝える

 2.ズレをただす

 3.ネットワークを広げる

 4.次の一歩を示す

 5.ゴールを示し続ける

  • 平和のために市民社会にできること
  • “平和の文化”を広げる ~せめぎあいを超える力~

・「知っている」と「知らない」

・原体験

・歴史と文化

・原子雲の「上」と「下」

・「被爆地」と「被爆地以外」

・セメイの核実験

2.次代の担い手を育てる ~若い世代が新しい社会をつくる~

次回に続きます。

 

 

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「8.6ヒロシマ平和の夕べ」③子どもの甲状腺がん

「8.6ヒロシマ平和の夕べ」の続きです。

「3.11子ども甲状腺がん 損害賠償請求訴訟」について。弁護団副団長の杉浦ひとみさんにお話し戴きました。

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事前に頂いたレジュメを了承いただいていますので、ここに転載させていだたきます。


311子ども甲状腺がん 損害賠償請求訴訟                                   


2024.8.6


弁護士 杉浦 ひとみ


 


1 裁判の紹介


この裁判は 2011年3月11日の東日本大震災の東京電力福島第一原子力発電所の事故による放射線被ばくと、子どもたちの甲状腺がんとの因果関係を立証し、被害者への補償を求めるもので、福島第一原発事故と病気との因果関係を争う、住民による初の集団訴訟です。


2 自己紹介


  2022年11月から弁護団に加入。これまで戦時性暴力被害裁判、東京大空襲裁判や性暴力被害、犯罪被害者支援などを通じて、被害者の精神的損害についての事件や、集団訴訟に関わってきたことから、参加することになった。  


3 裁判の具体的内容


2022.1.27 東京地方裁判所に提訴


原告 7名(男性2名、女性5名)提訴時17~27歳 被災時6~16歳


被告 東京電力ホールディングス株式会社   ※国、福島県は除外


 請求額 8800万円~1億1000万円


弁護団長 井戸謙一(志賀原発の原子炉運転差止請求事件を認めた裁判官)


4 原告になった方たち


  原告たちは、全員が甲状腺の片葉摘出術を受け,4人は再発して全摘出となり,あえて放射性物質を服用する過酷な治療を受け,あるいは受けようとしている(提訴当時)うち1人は,再発を繰り返し,4回も手術をした.うち 1 人は,医師から肺転移を指摘されている.甲状腺のすべてを失った4人は,生涯にわたってホルモン剤を飲み続けなければならない(生存できない).誰もが進学や就職に支障をきたし,再発に怯え,将来が見えないつらい思いを抱いて生活している.さらに、原告らは将来の医療費を心配しているが, 医療保険に入ることもできない。正当な補償を求 めたいと思うのは当然である。



しかし、それだけではなく、自分たちが矢面に立つことによって,同じように苦しんでいるであろう300人近い若者たちに勇気を持ってほしい,そして,原爆の被爆者に被爆者援護法があるように,福島原発事故による被ばく者にも,将来の医療費や生活費の支援の枠組みを作ってほしいと願って,提訴を決意した. 


5 因果関係について


本来,小児甲状腺がんは,1 年間に 100 万人中 1 2 人しか発生しないといわれる極めて稀ながんである。これが,原発事故後の福島で,わかっているだけで 293 人(福島県県民健康調査で 266 人,それ以外で 27 人)もの子どもに発見され,福島県県民健康調査で発見された上記 266 人中,すでに 222人が摘出術を受けている。


放射線被ばくが甲状腺がん発生率を増加させることは,科学的によく立証されている。  


しかし、東京電力は,福島原発事故と小児甲状腺がん多発との因果関係を否定。


国や福島県の主張と同様,福島県県民健康調査検討委員会及び UNSCEAR(国連科学委員会)が因果関係を否定していることを根拠にする。裁判では、現在はこの点の主張立証の攻防。 


6 甲状腺がんに罹患した苦しみ ~ 被害 原告らの声


7 子ども甲状腺がん裁判の三重苦



  • 子どもの被害が甚大であること ~ 被害をどう算定するか

  • 国、県、東電が全て因果関係を否定する姿勢 ~分かりきった加害の否定

  • 原発事故による被害はないものとする国の大きな方針は、社会からの原告らの排除


の動きとなる大きな圧力


国にとっては、福島原発事故による住民の健康被害はあってはならないものである. そのため,福島では,「被爆安全論」が流布され,被爆による健康影響の不安を口にすることすらできないという社会的雰囲気が醸成されてきた。


 NPO 法人 311 甲状腺がん子供基金が援助している小児甲状腺がんの患者及び家族に対して実施したアンケート調査結果によれば,6 割の患者 及び家族が小児甲状腺がん罹患の原因は被ばくで あると考えていることが分かった。しかし,彼らは,そのことを口にすることができない。


提訴した若者、その家族の孤立という理不尽な現実がある。


このため、原告は匿名で陳述し、法廷でも遮蔽をしたりする。


→ 原告が支援者の支援によりエンパワーされる過程を得ることができない損失


8 さいごに


甲状腺がんに罹患した若者は統計上の数十倍に及ぶことや福島原発事故による住民の健康被害がなかったことにされ、若者の甲状腺がんも「過剰診断」として片づけられようとしていることも社会に知られていない。事故の被害を明らかにすることこそ、原発事故の過酷さ、重大さを正しく評価する上で大切なことであるにも関わらず、これを明らかにしようとしない日本社会の異常性が現れている。


ご参照HP311甲状腺がん子ども支援ネットワーク」      レジュメ以上

裁判に訴えるということが、どれだけストレスとなるか、本当に大変な事。よく決意されたことと思います。国、福島県、それに使われたドクターたちが当初からいかに理不尽な事を言って来たか、私たちは良く見ています。原告の皆さんを支援したいと思います。

レジュメの最後に記された「311甲状腺がん子ども支援ネットワーク」https://www.311support.net に詳しい情報が出ています。ぜひご覧言頂いて、私からもご支援をお願いしたいと思います。以下は、そのホームページにある写真です。

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「8.6ヒロシマ平和の夕べ」②佐藤優さん

 8.6ヒロシマの警備の問題や、どの国を招待するか、広島や長崎への招待される側が文句を言ったり、大国のエゴもいろいろとあったり、まあ、なんと。私たちは、すべての国の戦争、殺し合い、核を否定するのが当たり前。それに地震も加わって、いろいろと大変です。広島も本気で南海トラフの準備をしなければならないようなので、遅ればせながら、家具の転倒防止のつっかえ棒を注文しました‥遅すぎる、自分でそう思います。

 「8.6ヒロシマ平和の夕べ」。若い佐藤優さんが、話してくださいました。佐藤さんは、広島市立大学の在学中に「Hiroshima Young Peace Builders」立ち上げ、旧陸軍被服被服支廠 が舞台の紙芝居「8月のウサギ~被服支廠物語~」を制作。現在は、一ツ橋大学の大学院生で、福島からの避難者の研究をしてらっしゃいます。同時に、月に一回オンラインで広島の被爆者と若い世代をつなぐ集いを開催しています。

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 そして、今回、彼女の大きなお仕事、切明千枝子さんの歌集の出版をされました。その本、「ひろしまを想う」は、当日会場にも持って来て頂くことにしていましたが、その前の会で売れてしまって、2冊しかなくなってしまったと。でも、今、アマゾンにありますと。歌集の部の一位だと。私もすぐに頼みました。

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「八月六日家を出たまま帰らざる人あまたありそれがヒロシマ」
「燃えながら泣きながら母校にたどりつき果てたる友よ八月六日」
「かくれんぼかくれしままに消え失せし友をさがして今日までを生く」

佐藤さんは、紙芝居を作る過程でも、子どもたちに観てもらってその意見を聞いて反映させるなど、地道な活動をしてきたことを丁寧に話して下さいました。歌集の作製でも、その実行力はすごいものがあります。

 こんな若い人がいらっしゃるということは、感動で、私たちの大きな励みにもなります。

 今、私たちに必要なのは、若い後継者をいかに作るかと言うことなのですが、それは私たちがすることと言うよりも、若い人たちの力に任せたほうがいい。それを邪魔しないで、育っていく姿をひたすら見守ること。そんなことを感じました。

 佐藤優さん、ほんとうにありありがとうございました。素晴らしかった!!東京と広島と行ったり来たり、それも夜間の高速バスでだそうで、大変でしょう。どうぞ、疲れすぎないように・・。今後も期待します。

 


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平和記念式典、過剰な警備で守られる人は来るな。

「8.6ヒロシマ平和の夕べ」については書かなければならないのですが。あまりの事に胸が痛いので、こちらを先に書きます。広島市の平和記念式典の警備について。私はあまりにびっくりして、8月6日の朝のブログで書きました。しかし、私だけでなく、他の場所から平和公園に入られた方がこんなことを書かれていました。また、写真には、装甲車だけでなく、消防自動車もバリケードにされていました。


こんな平和記念式典は初めてだ。紙屋町あたりから制服警官、私服警官、武装警官が立ってたり、歩き回ってたり…

公園につながる橋の上は警察車両斜め置きに続き消防車2台で封鎖。公園入口は一つ、手荷物検査が実施され、水筒の中身とペットボトルの中身は、その場で私自身に一口飲んでみせさせ確認。毒物や危険物でないことを「毒見」で証明させる念の入れ方。

私はいい子で弱い子なので素直に従い、手首に通過の証のリボンをつけられる。

公園内は警官とアルソックさんがいっぱい歩いている。


次は、丸ごとシェアの許可を戴きましたので、スクショで。

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そうなのです。これは、私の写真ですが。私が足止めされた所の、歩道です。あまりに密度濃く人の壁ができているので、一体誰だろうと思いました。市の職員は、腕章をつけているし。そうでない、若い人が綱をもってぎっしり並んでいます。




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総理も通り過ぎた後、私が二中の式典の記帳をしようとすると、まだ綱を張っていて、それをくぐり通らなければならなくって「もう、こんなの、やめなさいよ」と言った相手は、確かに高校生でした。私は、てっきり二中の後進の観音高校の生徒かと思ったのですが、撤収した姿は、観音の生徒ではありませんでした。観音の生徒さんは、その後、式典の役をしていましたので。

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だれが警備のために動員されているのでしょうか。

 そして、やっぱり胸のもやもやが消えません。どうして、こんな過剰な警備をするのか。誰のための式典なのかと。

私、こんな警備をして守られなければならない人は広島に来なければいいと思います。そもそも、総理は広島の記念式典には、来ていなかったのです。初めて総理大臣が広島の式典に来たのは、1971年、時の佐藤総理です。私はまだ広島大学の学生でした。そして、貧しく、病んだ被爆者の手当もなく、核兵器の日本持ち込みをもくろんでいた佐藤首相の車をとりかこんで、「クルナ、カエレ」と拳を上げました。その頃は、まだマスコミも私たちの訴えに耳を傾けてくれていました。そして、「総理の背に被爆二世の叫び」などと、取り上げてくれました。

 後日談ですが、あるマスコミの方が、広島駅のプラットホームで帰ろうとする総理に「広島はいかがでしたか?」と尋ねたら、佐藤総理は、真っ赤な顔になって「せっかく来てやったのに。」と言ったのだそうです。

 それまでは、本当に来ていなかったのです。そして、8月6日の式典は家族を亡くした遺族が集まって、涙ながらに祈り、核廃絶を決意する場でした。

 いつのまに、政治家のための場になってしまったのでしょうか。政治家がむなしい言葉を吐くために、多くの市民が締め出され、公園の中に入る人は、厳しいチェックを受けなければならなくなりました。いえ、私なぞは、公園のなかに入るのではなく、外の慰霊祭に行くのでも、荷物をチェックされ、黄色のリストバンドを付けられました。竹本さんは、お水の毒見までさせられたと。

 市民を信用できなくて、撃たれるかもしれない人は、来るな。来なければいいのです。ウィキペディアの「広島平和記念式典」にはこう書かれています。

式典は会場である平和記念公園の原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)前において、原爆死没者の遺族をはじめとして、市民多数の参加のもとで挙行されるものである。1950年(昭和25年)を除き毎年歴代広島市長によって行われる平和宣言は核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現を訴え続けているものであり、世界各国に送られている[2]

サミットでは、平和公園の川の向こう岸の、広島市の花である夾竹桃まで50センチの高さまで切られました。切られた夾竹桃を見に行きました。今、たくましく大分伸びてはいますが、何十本も切られたうち、一本だけ数個の赤い花をつけていました。サミットでの過剰警備が、今回の平和記念式典にまで再現されました。これが、来年もその次も延々と続くのでしようか。

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「8.6ヒロシマ平和の夕べ」①

 「8.6ヒロシマ平和の夕べ」無事終わりました。たくさんの方が来て下さいましたし、それぞれの方たちの発言がとっても素晴らしくて。お話しして下さった皆さま、参加して下さった皆様、本当にありがとうございました。

 始まる前に会場から観る景色。

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 この沢山の椅子が埋まるだろうかという不安。

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でも、超満員の方たちが来て下さいました。うれしかったのは。埼玉から6人の高校生が来て下さったこと。お若い先生が引率して。それから、88才の水戸喜世子さんも。小出先生たちの師匠であり、全共闘世代の救援連絡センターを作られた物理学者、水戸巌先生亡き後、今や反原発運動に欠かせない存在であり、この会のこれまでにも何回も発言していただいています。毎年参加して下さることが私たちの励みにもなります。さらに、昨年お話しして戴いたきのこ会の事務局長、平尾直政さん、その平尾さんと共にきのこ会を陰から支え続けていらっしゃる俳優の斎藤ともこさんも。元原爆資料館の館長さんで先日まで広島県被団協の事務局長をなさっていた前田耕一郎さんも。

 本当にいろいろな年代のいろいろな方が来て下さいました。また、地域では、青森、弘前や南三陸や東京、福岡からも。遠いのによくいらっしてくださいました。

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先頭の被爆体験、千葉孝子さんはこの度兵庫県芦屋からいらっしてくださいました。3才の時に広島の南千田町で被爆なさっています。千葉さんから頂いたレジュメを転載いたします。

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「私自身のこと」の所では、やはり多くの被爆者のように結婚、妊娠について悩まれたこと、夫の母親から強く結婚を反対されたことなどのお話しがありました。でも、結婚以来9年経って一度の流産の後、元気な三人のお子さんに恵まれていらっしゃいます。さらに、被団協で活躍されたお母さまと共に被爆者運動、核兵器廃絶のために頑張っていらっしゃいます。80才を越えていらっしゃるのに、とても元気にお話しして下さいました。暑い中、広島までお出で下さって、貴重なお話し、本当にありがとうございました。

 まだ少しずつお話ししますね。

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2024年8月6日です。

8月6日です。今、午前8時50分。ヘロヘロに疲れています。いつものように広島二中の慰霊式に出席すべく、7時過ぎに家を出ました。二中の慰霊碑は家から歩いて100メートルくらい。

 今年はいろいろと規制がある、平和公園に入るには、荷物検査もすると聞いていましたが、まさか公園の外、川沿いにある慰霊碑ですから、ここは大丈夫と思っていたのですが。甘かったです。

 家を出ると、そこにもう二重にバリケード。機動隊員まで???。

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横を通り抜けて橋を渡る時。交通規制があるのは昔からそうなのですが。橋の向こうには、こんな風に装甲車がバリケードにしてありました。こんなの初めて。

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端を渡ってさらに北へ行くと、なんと止められました。ここは通れませんと。「ええっ?直ぐそこのあのテントが見える二中の慰霊式に行くのですが。直ぐそこで、公園の中に入るのでもないので、行かせてください」というと、「50分になったら通れますので。首相が通り過ぎたら。皆さん待ってもらっています。」と。「いえいえ、道を渡るのではないのです。この歩道を真っ直ぐ行くだけですから。」

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 待っている人の中には、「去年もそうだった。」という人がいました。「そんなことはありません。昨年は、何もなく、ここは行けましたよ。」というと、止めている人が、「今年から変わったんです。」と。「だれが変えたんね。」と言っても、なにも言いません。そしたら、その内、「間違いです。50分になっても、ここは通れません。向こうのメインゲートに行って、そこで荷物チェックを受けないと行かれません。」ですって。「ええっ、50分になったら通れるのではないのですか。あなたたちでも、分かっていないのではないですか。」「公園の中に入るのではないんです。外のすぐそこにいくんです。それなのに、公園の中に入るゲートを通らないといけないのですか。すっごく回り道なんですが。」と言っても、そうだと。

 仕方ありません。ぐるっと回り道をして、メインゲートとされている所に行きました。そして、すべての荷物チェック。ハンドバックの中も。男性のガードマンに見られて本当に嫌だ。

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こんなのを腕に巻かれて。Tさんは、「犬じゃないんだから、こんなの巻かない」と言ったそうです。

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公園の中の道路ではない所、芝生の所を慰霊碑の方向に見当をつけて走りました。こんな所から川岸に行くことなんてありませんもの。やっとたどり着いたら、道路に赤いチカチカが。フルスピードで走り抜けました。向こうのテントが二中の碑です。

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二中の碑にたどり着くと、人がほとんどいません。こんな規制を受けたら、遠回り過ぎて、皆さん入れませんよ。遺族のお年寄りはもう来るのは無理ですね。急いで記帳をして、戴いたお花を供えて。お焼香する時には、お父ちゃん来たよ、と言いました。人が少なくて、始まるのを大分待たれていて。そしたら、平和の夕べのスタッフがやっとのことで汗まみれになって来ました。碑の前は、ひっきりなしに警察官が歩きます。

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少しずつ集まる人に平和の夕べのチラシを配りました。しかし、暑いし、なんとやぶ蚊に足を無数にかまれて、猛烈にかゆくなって。一応、記念撮影。Tさんは、二中のお兄さんがここで被災して爆死しています。私は教師だった父の遺族で、二中の後輩。Yさんは二中の後輩。

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家に帰りましたが、暑くて汗まみれと、足がかゆいのでヘロヘロなのです。これから、今日の「8.6ヒロシマ平和の夕べ」の準備をします。プログラムをアップしますね。今日発言して下さる方たちは、皆さんもう広島に到着されています。どうぞ皆様、暑さに気をつけてお出でくださいませ。しっかり準備してお待ちしますね。

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「8.6ヒロシマ平和の夕べ」のチラシ配りでした。

 今日は、被爆79周年原水爆禁止世界大会広島大会に行って、入口で「8.6ヒロシマ平和の夕べのチラシ」を配りました。入り口で次々と人が来られる所で一生懸命に配るので、写真は撮れませんでした。チラシは、気持ちよく受け取って下さる人、全然無視の人、いろいろです。昔からのチラシ配りですので慣れていますが、でも、やっぱり受け取ってほしいです。

 とても気持ちよく、笑顔で受け取って下さる一団がありました。その方たちがチラシを見て、あ、田上さんだと言われます。私たちは長崎から来て、来る列車が田上さんと一緒でしたと。そうですか、ここで話をして頂きますよ、と。やっぱり田上市長、職員の方たちにも好かれていたのですね、と思いました。

 中に入って、世界大会を聴きました。大会実行委員長の金子哲夫氏が話をしていらっしゃいます。

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もう少しチラシが残っていますので、明日お昼に、原水禁の分科会の会場の前で配ろうと思います。

もう一度、ここにチラシを表裏ともアップしますね。

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すでに、当日のプログラムのプリントしたものや田上さんのレジュメなどが届いています。私は司会ですので、発言される方の一人一人のプロフィールを頭に入れたり、発言時間の確認をしたりしています。皆さん、素晴らしい方たちばかりです。とても楽しみです。どうぞ皆様、よろしくお願いします。


 


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松本正さんの本が出来上がりました。

 灼熱の8月3日です。平和公園の6日の準備はすっかり出来上がっています。

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今年は、平和公園の式典に入るには、荷物チェックがあるそうですし、原爆ドームの前でいつもする集会は、どうにも規制されそうです。ますます被爆者、市民主体の8.6とはかけ離れていきます。

 広島二中の生徒で、14才で被爆した松本正さんの本が出来上がりました。

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松本さんには、2016年の8.6ヒロシマ平和の夕べで証言していただきました。その後で灯篭流しに参加されて。その時の事が中国新聞に。これも本の中の写真の一枚です。

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松本さんが灯篭を流された後。10人のお身内の灯篭を流して、ホッとされた時です。この後、食事をご一緒しました。

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改めて本を読んで。原爆が落とされた時の衝撃、モクモクと湧き上がるきのこ雲を下から見上げた証言、ひたすら逃げて、無残な被爆した人達の間を縫うように必死で歩き、走り、家に帰り着くその証言。そして、10人ものお身内を原爆で亡くされたこと。特に、やはり広島二中に入学したばかりの可愛がっていた弟さんの死。名古屋から広島に疎開して来て全員亡くなったお姉さん母子。などなど、本当に胸が痛くなります。


 でも素晴らしいのは、93才にもなる松本さんが今も頑張って被爆証言をして下さっている事です。それに、二度ほど横浜球場でご一緒してカープの観戦をしました。またご一緒できればうれしいことですが。どうぞまだまだお元気で若い人たちの証言をしてくださいませ。

この本は、俳優で「ひろしまのピカ」の朗読をなさっている岡崎弥保さんのご尽力で出来上がったと伺いました。8.6ヒロシマ平和の夕べでの会場でも本を販売しますし、その後は、私の手元・クリニックにも置いております。どうぞ皆様手に取って見て下さいませ。

 

 

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