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根岸昌功先生

もう多くの方はご存じと思いますが、根岸昌功先生が6月23日お亡くなりになりました。最初に訃報を知らせて下さった京都のメモリアルキルトの斎藤さんの24日のフェイスブックを転載させて頂きますね。



根岸昌功先生が昨日昼過ぎに他界されました。

半年前まで四谷三丁目の「ねぎし内科診療所」で多くのPWH(Person with HIV) PWA(Person with AIDS)の方たち中心に治療を続けておられたのですが、体調を崩され、入院された時には、すでに末期癌に。半年で不帰の人となってしまいました。最期は眠るようだったとのこと

1990年にお会いしてから36年、暗闇の中の確かな灯りのような存在でした。無念です。




6/7の代々木公園でのPride Paradeでキルトたちと11人の仲間と歩いた翌日の6/8に根岸先生が入院されている青梅市の慶友病院にホワイトキルトたちも共にお会いにいきました。松本の一人人形芝居がらくた座の木島知草さんや、平田豊さんやアルファのキルトを作られたボランティアグルーブうんどうぐつメンバーなど、先生との御縁のあったキルト仲間も一緒に。




ホワイトキルトのお二人 イニシャルでしか表現できない命 そんな社会を変えようと闘い続けて来た人がそこにおられました。AIDS/HIVという難病の治療の前線に立ち続け、辛い病を抱え、さらに社会的差別などにより苦しむ人の一度握った手は決して離さない姿勢はずっと変わらず生きた人が、そこにおられました。

ホワイトキルトたちをベッドを囲むように広げました。根岸先生嬉しそうやった。これからは楽しんで、って言ってくれました。まだやらなければならないことがあるとも。




私たちメモリアル・キルト・ジャパンはホワイトキルトから始まったんだよね。

ありがとうございました

先生の命に光を!

 私は、一昨年秋、京都のAIDS 文化フォーラムで、斎藤さんと根岸先生がお話されるのを知って、会いにに行きました。先生は、私を見て握手かと思ったら、ハグして下さいました。根岸先生には、患者さんにどんな事情があろうとも、全ての患者さんに真摯に向き合うという、医師の基本を教えて頂きました。その京都のことを2024年10月8日のブログに書いています。途中からですが、再掲しますね。ここでも半分以上は斎藤さんの記事の転載で、申し訳ありません。

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そして、いよいよ全大会。「薬害エイズ和解から学ぶ感染症との向き合い方」です。これについては、私は自分の広島エイズダイアルでの事を色々と思い出しながら、沢山の亡くなった方の事も想いながら、胸が詰まりながら聞いていましたので、冷静ではありませんでした。演者の一人である斎藤さんがフェイスブックにまとめていらっしゃいますので、それを一旦フェイスブックにシェアさせていただいたのですが、このブログにももう一度転写させて戴きます。




AIDS文化フォーラム in 京都 終了しました。

昨日は、東京四ツ谷の、ねぎし内科診療所の根岸昌功先生が、仙台からは「ネットワーク医療と人権・MARS」の和生治友さんが来られ「薬害エイズ和解から学ぶ感染症との向き合い方」というテーマの全体会に、私も加わり語り合いました。

アメリカからの非加熱輸入血液製剤により血友病のある人の1.433人が感染、2023年5月末の統計では、742人が死亡しております。この明らかな薬害に対し国・製薬会社の責任を問う訴訟は、

1996年3月被告が責任を全面的に認め和解が成立。国は被害者救済を図るため原告らと協議をしながら各種の恒久対策を実現させることを約束しました。

その結果、全国の拠点病院の充実、治療法の劇的な進化もあり、HIV/AIDSによる死亡率は減少し、今は慢性疾患の一つのようなコントロールしやすい病となってきています。(ただ同時期に肝炎ウイルスに感染していた人たちもいて、肝炎由来で亡くなる人たちも多くおられます)




私たちMQJ(メモリアル・キルト・ジャパン)に最初に託されたキルトは白い布(がら紡綿布)に御夫婦のイニシャルのみが縫い付けられた、ごくシンプルなものでした。1991年3月末、このキルトを届けてくださったのは、当時、都立駒込病院感染症科医長の根岸昌功先生でした。

HIVにより汚染された血液製剤により感染した夫、2次感染した妻。他界された後、看護士の方たちが決して忘れまいと制作されたものでした。

私たちと共に33年半歩いてきました。

その根岸昌功先生と共にステージにたち、その「ホワイトキルト」の前で話した時間は、言葉に尽くせないものがあります。

 私が根岸先生に出会ったのも、広島でのキルト展がっきっかけでした。キルト展を終えた後、多くの人とキルトをもって、平和公園に行き、そこでキルトを囲んでみんなで話をしました。

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イニシャルだけのホワイトキルト。まだまだ感染した人への差別が激しい時でした。

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京都での話を聴いて書いたブログの続きです。

斎藤洋さんのお話しも。今まで、私は斎藤さんがアメリカに行った時に、膨大なキルトを人々が囲んで泣いたり話をしたりしているのを見て・・。そして日本に帰って、メモリアルキルトジャパンを作ったと。乱暴に言えば、その様な私の認識でしたが、それを詳しく話をされて、改めて、これは斎藤さん自身が持っている感性と暖かさがあって、こうなるのは必然であったと思いました。根岸先生がお勤めなさっていた都立駒込病院で初めて亡くなった薬害エイズの患者さんとその妻の方、そのお二人を偲んで、でも、名前は出せないので、イニシャルだけのホワイトキルト。これは駒込病院の看護師の方たちが作られたものです。石田吉明さん、赤瀬範保さん、屋敷恭一さん、後で平田豊さんなどなどのお名前も話の中に出てきました。

これらの方たちとの私の思い出にも胸がふさがりそうになりました。広島でのキルト展の後、キルトをもって平和公園を歩いて、その後で資料館の下でキルトを囲んでみんなで話した時。「なんか、人を信じられそうな気がする」との言葉を聞いて、高田先生が涙ぐんだりしたこと。

 広島エイズダイアルでやった様々な研修、全国一斉の電話相談、そして、独自で保健所の匿名検査の調査をしたこと、その発表会が爆笑の数々で、県の役人の方が「大恥をかいた」と汗びっしょりになっていたこと。広島のソープランドで一斉にコンドームを使うように働きかけたこと。ソープランド組合の組合長に会いに行ったこと。市が講演会を開いてくれたこと。講師に私が行ったら、広島市の職員の方が私にこちらに座って下さいと、ソープの人たちの席に案内されたので始まるまでその席に座っていたことまで思い出しました。

つぎの日のブログです。

昨日の、京都での書き忘れです。根岸先生に「先生、おいくつになりましたか?」と尋ねたら、「81才」と。「で、いつまで続けられますか?」そしたら、「分かりません。まだやりがいがあります。それがある間は続けます。私を必要としているだれかがいる限り」と。「で、河野先生はいくつに?」「77才です。」と言ったら、「わっかいねー」ですって!!私、若いと言われたことなんてないのでびっくりしました。「でもね、先生、おっきな船にのって、外国に行ったりしたいと思いませんか?」というと「なんか、ちょっとね、癒しがあるといいなとは思いますよね。」と。「きっと先生は、死ぬまでされるんでしょうね。」と言ったのですが。多くのHIVの患者さんたちが先生を頼りにされているのだから、先生も、できる限り力になりたいと思われているのでしょうね。素晴らしいです。

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そんなお話をしたのですが、本当にその通りになりました。このころには、もう先生の体のどこかにがんができていたのでしょうか。

その時に頂いた根岸先生が作られた年表です。貴重な財産を皆さんへと残して下さいました。これをアップさせて頂きます。私は、お通夜にもお葬式にも行くことができません。日曜日や木曜日であったなら・・。合掌。根岸先生、ほんとうにありがとうございました。

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