「神部ハナという女の一生」の取材の続きです。
昨日の続きです。今度の「神部ハナという女の一生」の中国新聞のインタビューの場に板倉さんが持ってきて下さった文章。一つは、私が書いています。まだ脇田さんが健在の時だから、少なくとも、20年以上前に書いた物です。それと、脇田さんが書かれた文章。昨日の亘先生の文章とも、同じ時に書かれたものなのかどうかも分かりません。
私の文章から。
観音高校演劇部時代の思い出
広島県立広島観音高校卒業 河野美代子
私が観音高校に入学したのは1963年。その前年、「花火」で演劇部が地区大会、県大会て最優秀賞を取っていたことを知っていた。中学時代に少しだけ演劇をかじって、その魅力をすでに知っていた私は、ほとんどためらうことなく、演劇部に入部した。
新入部員の前に現れたのが、観音高校演劇部4年生(?)の現広島テレビの脇田義信氏と板倉氏である。土橋先生、中洌先生、それに脇田氏と板倉氏、まるで4人の顧問とも言える強力な指導の元で活動した。
「花火」に続く戦争物「象の死」はやはり地区大会、県大会を制覇。翌年は「黄色い土地」で同じく県大会で最優秀賞となった。中国大会で徳島へ。そこで徳島県立板野高校の「藍染めのころ」に負けてしまった。審査員の「出来合いの台本ではなく、これからは創作劇を」の言葉が身に滲みたものだ。
「象の死」で福山に行った時、衣装の一つの風呂敷包みを広島に忘れてしまった。軍人の履く長靴は余っていた短靴にするとして、私の履くもんぺ、白衣はどうしよう。あてもなく外に飛びだした。当時、福山駅周辺には小屋のような店が並んでおり、そこでもんぺがぶら下げてあるのを見つけて、ほんとうにうれしかった。それを買い、今度は薬局に飛びこんで、白衣を貸して欲しいと必死の思いで頼んだ。おやじさんが、渋い顔で貸して下さって、一段落。その白衣をドーランで汚してしまい、返す時に縮こまる思いで謝った。今だったらクリーニング代を払うのだろうが、ひたすら謝ったことしか覚えていないので、そんな時代ではなかったのだと思う。今から思うと、まだ当時は戦後間もない国中が貧しい時代だったのだろう。
そんな中で、出来合いとはいえ、ひたすら戦争物に取り組んだことは、今日の自分の思考の基礎となったと思う。激論を交わしながら培った、今も続く得難い友人たち。青春時代に演劇にひたすら取り組んだことは何より私の血と肉と、財産となっている。
今の高校生たちも、みんなこんな場を持つことができたらなあ、と、日々診察室で若者たちに向かい合いながら考えている。 (河野産婦人科クリニック院長)
最期に脇田さんの文章です。亡くなる何年前なのでしょうか。
第2回大会「花火」・第3回大会「象の死」
伊藤先生から頂いた゜高等学校総合演劇大会のあゆみ」を見て40年前が一瞬に蘇った。
第一回の県大会は高校2年生の初冬。顧問の土橋先生が事務局長。連盟の発足にあたって、いろいろお手伝いしたことを覚えている。それだけに第1回の県大会はどうしても出場したかった。
条件は広島地区大会で3位以内に入ること。しかし、大竹、皆実、進徳に次いで4位。悔し涙を流した。第1回大会は裏方にまわり、大会の準備、運営にあたった。会場は市民球場の裏にあった児童文化会館。いまは青少年センターになった。隙間風が通り抜けるような老朽化した会場だったが、舞台は熱気にあふれていた。各地区代表校の熱演はいまも鮮明に残っている。
古森先生率いる三次高校の「猿の手」は高校生離れした秀作で第1回の最優秀校に選ばれた。柏村武昭氏がその舞台に立っていたことを知るのは十数年後である。
当時は高校演劇は既成の脚本が全盛期で、広島地区では創作にはまだどこの学校も取り組んでいなかった。3年生になった私は進学のことも忘れてクラブ活動に没頭することになる。脚本の選定にあたっては自分達が内容に共感し、理解でき、消化出来るものを大前提にした。
部員の構成、力量から先輩たちがかつて取り組んだ林黒土先生の「花火」と決めた。原爆で失明した姉が手術を受け光を取りもどすが、自分の顔のケロイドを見て死を決意する。その姉を側でかばい励ます弟の姉弟愛を描いたものだ。
とにかく「よく練習した」という記憶と、舞台装置で泣いた1年前を教訓に徹底的に研究したことを思い出す。町工場群の中にある2階の部屋。僚友板倉と2人でそうした場所を探し、出かけて何枚もスケッチを描いた。より写実を目指し舞台前面に瓦の屋根を作った。
地区大会は皆実の「おーい・救けてくれ」と(注・肖像の間違いです・河野)と互角の勝負だったが、私たちが第1位に選ばれ、皆実、進徳とともに県大会にコマを進めた。
第2回の県大会は呉市民会館。前年最優秀校の三次は三好十郎の「獅子」で参加した。私たちは初日に出場。演じきったという満足感と充実感があった。2日目、各代表校の舞台を観た時、別の感銘を受けたことを思い出す。
結果は時の運、審査員の好みの問題もある等々、自問自答しながら発表を待つ。「最優秀賞ははなび・・・」ワ―と歓声があがり、大きな拍手の中で第1位を確認した。並んで発表を待っていた裏方を担当した板倉・青野が大きな声を上げて泣いた。強烈な印象として忘れられない思い出だ。
この時から観音高校演劇部の新たな歴史がはじまった。あまりクラブ活動に積極的でなかった青野、伊藤、安部、という私の中学校の後輩が目の色を変え、新入部員の長谷川(現河野)たちを迎えて取り組んだのが第3回で絶賛を受けた斎藤瑞穂作「象の死」だ。
私が中学生の時脚本を読み、やりたかった作品だが力量がなく断念した。
私は卒業していたが、3年生の3学期まで演劇活動をやっていては大学受験は出来ない。「予備校へ行く」と家を出て、パチンコ屋で時間をつぶし、放課後を見計らって演劇部に顔を出して取り組んだ作品だ。
土橋先生や新しい顧問の中洌先生の寛容さがなければ、あれだけ自由には参加できなかった。
作品には自信があった。日々の猛練習の中で各部員が成長して行く手ごたえを感じた。わが家の3畳の狭い部屋でOBの板倉と現役の青野・伊藤と徹底的に脚本分析を行った。
演じる側には絶えず不安が同居するが、一歩引き下がって見る側にまわった私には絶対の自信があった。私が現役の時よりりはるかに高いレベルで素晴らしい作品に仕上げていたからだ。特に1年生で主役を演じた長谷川美代子は出色の出来栄えで日に日に成長した。
地区大会も、県大会も文句なしに最優秀賞に選ばれた。審査員の先生から絶賛された。観音高校演劇部として一番バランスがとれていた。
「象の死」の成功はより高いレベルをめざし、木谷茂生作「広い黄色い土地」への挑戦となる。
私の青春の全てがここに集約され、人生がここで決まったといって過言ではない。私にとって高校演劇は良き思い出ではなく、人生そのものである。高校演劇万歳。
(広島テレビ編成制作局長)
写真がないのです。象の死も広い黄色い土地も。あるはずなのに、ごっそりどこかに行ってしまいました。これは、板倉さんが持ってきてくださった文章のコピーの中にあった、広い黄色い土地の白黒の写真のコピーのコピーです。かろうじて、人の顔が分かります?前におさげ髪をして座っているのが私です。
今、亡き脇田さんの文章を一文字ずつキーを叩きながらなぞらせていただいて、何度か涙しました。お葬式の悲しかったことも思い出しました。ああ、もう少し長生きしてほしかった。60歳なんて若すぎます。この伊藤さんの「神部ハナと・・」は脇田義信没後20周年追悼祈念公演でもあります。脇田さんの文章の中に40年前とありますので、59歳?もしかして、これは脇田さんの絶筆かもしれません。
それにしてもおかしかったのは、私の文、福山に忘れ物をした話。あの頃は、スポーツバックでもスーツケースでもなく、荷物ケースでもなく、「風呂敷」だったのです!!大きな唐草模様の風呂敷に荷物を入れて、それをいくつも持って行ったものでした。あはは、大昔ですね。
明日、もう一度、「神部ハナという女の一生」について話しますね。私の仕事と関係あることですので。
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