なぜ広島・長崎だったのか・核兵器禁止条約
核兵器禁止条約は、2017年7月、国連本部で122カ国が賛成して、採択されました。これは、全国連加盟国193の国と地域の3分の2近くになります。そして、2021年1月22日に、批准国が50カ国を超え、新たな国際法として発効しました。
それにあたって、「8.6ヒロシマ平和の夕べ」のスタッフ、竹田が一文を寄せて下さいました。これまでも多くの人が、それも自分自身は何の傷も背負わず、何かの運動らしきことをして、それが免罪符のごとくにふるまい、広島の、特に被爆者の運動に対して、この文の中の映画監督の様なことを言っています。それに対して、私もいつものどに小骨が刺さっているような不快な思いをしてきました。
私は、特に原爆直後から、体中に火傷や放射能を浴び、住む所も食べ物もない中で何とか生き抜き、やがて核兵器反対の運動を細々とはじめ、それも地道に絶えることなく続け、世界中に訴え続けている被爆者の運動を尊敬しこそすれ、この監督に様なことを言う人たちに、強い違和感を持ちます。
日本のアジアの国や人々に対する加害性を、その責任を被爆者に求めることは間違っていると。その前に、自分たちはどうなのかを自らに問え、と思っています。ヒロシマの運動と一言でいうけれどそれをはだしのゲンの中沢さんにも言えますか?全身ケロイドで、時にはその姿を人々の目にさらしながらも、そして、アカ攻撃で公安に付け回されながらも被爆者が自ら語り合い、手を取って泣きながら、みんなで励まし合いながら夜行列車に乗って国会に訴えに行った、吉川さんなど初期の運動を闘った被爆者の方々にも、それを言いますか?
アジアの加害の責任のためにこのような目に遭ったのだと。まるで被爆者にその責任があるかの様な言い方は間違っていると思っています。
竹田さんの文をここに載せますね。
核兵器禁止条約採択から9年、発効から5年。
なぜ広島・長崎だったのか
高市首相の側近が「日本は核兵器を持つべき」と発言した。「原爆を知る」広島、長崎の被爆者、被団協は怒った。
核兵器禁止条約が国連で採択され、2021年1月に発効した。採択から9年となる。条約第1条は、「締約国はいかなる状況においても、『核兵器の…開発、実験、製造、生産、あるいは獲得、保有、貯蔵』を実施しない」と明記している。日本は唯一の「戦争被爆国」でありながら、署名も批准もしていない。締約国会議に、オブザーバーとしても参加しない(折り鶴が置かれた、欠席の日本席=写真)。
「軍都」だからか
戦前、広島には第5師団司令部、旧陸軍「被服支廠」(軍需品の工場、倉庫)など軍事施設が置かれていた。宇品港近くには陸軍船舶部隊なども配備され、「軍都」と呼ばれた。被服支廠はいまも崩れかかったレンガ壁や、歪んだ窓の鉄枠が並ぶ建物が保存されている。
「だから原爆が投下された」と言う人もいる。それは、私には「後付けの理由」のように思われる。何年か前、ある映画監督の女性と話したとき、少し「論争」になった。彼女は、「広島は軍都だった。軍事施設があったから原爆を落とされた」「広島の人たちは、広島が朝鮮・中国・アジア派兵の拠点だったという反省がない」…と言う。しかし、軍事施設、軍需工場、軍港などは他の都市にもあった…。「戦争に加担し、反省がない」のは日本中だった。なぜ「広島・長崎」だったのか。
アメリカの意図は、どこにあっただろうか。アメリカは1945年7月、「核分裂の巨大なエネルギー」を兵器とし、初めて「3発の核兵器・原爆」を完成させた。1発は、ニューメキシコ州アラモゴードの砂漠で実験爆発させた。長崎被爆者・作家の林京子は、トリニティサイトを訪れたときのことを、「トリニティからトリニティへ」(『長い時間をかけた人間の経験』=講談社)に記している。
数十万の都市、人間に
実験で、原爆の威力はわかった。しかし、「数十万の都市、人間に」投下すれば、どうなるか。それが、アメリカが最も知りたかったことだろう。当時、広島の人口は、約35万人だった。日本の植民地支配により、朝鮮半島から移住させられた数万人の韓国・朝鮮人も住んでいた。太田川など七つの川が流れる平野の広島、半島に囲まれた長崎…。
米軍はマリアナ、サイパンなどの基地に原爆投下のためのB29特別爆撃隊を編成、周到な準備を行なっている。重い危険な原爆を積み、目的地まで長距離を飛行しなければならない。目標上空で投下し、巨大な爆発と爆風から急速反転し離脱する…(計画と訓練の様子は、『原爆の落ちた日』半藤一利ほか著=PHP文庫に詳しい)。
1945年8月初め、日本は戦争を続ける力はなかった。アメリカは、7月26日に原爆の爆発実験を成功させ、すぐに2週間後に広島・長崎に投下した。アメリカの目的は「人間への投下」結果を知るとともに、「原爆の威力」を世界(とくにソ連:当時)に見せつけ「戦後の世界支配をアメリカが握る」ことにもあっただろう。
(以上、竹田雅博記)
以下、河野記
原爆の投下目標地はいろいろと候補が挙げられました。地形的に、また居住地が密集していることなどで被害効果が測定しやすいこと等が検討され、最終的には広島・小倉・新潟・長崎としました。京都は最有力候補でしたが、文化遺産が多いということで、スチムソン陸軍長官の反対で外されたこと。長崎は、小倉の上空が当時視界不良で長崎に変更されたとの情報もあります。
大量の人命を奪い、生き残った人たちの放射能の影響を調べる、正に巨大な核兵器の人体実験が広島と長崎になされたのでした。
三度核兵器は使ってはならないこと、核兵器製造に繋がる原発は廃棄、その根底には、すべての戦争に反対することが当然あります。自ら二つも三つもがんにかかり、命を懸けて訴え続けてきた、それらの被爆者の運動をだれが批判できる資格があろうかと思います。私は、その映画監督の映画も度々観ましたがもうこれからは観ることはないでしょう。
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