竹田昭義さんの手記②
竹田さんのお兄さんの手記の続きです。実は、この手記は2020年に一度掲載しています。しかし、途中まで。全文ではありません。なぜ途中でやめたのか、その理由をはっきり覚えていません。おそらく、お兄様の妻のがんの闘病などが書かれているため、5年前にはまだ遠慮したのではないかと。ここでは全文載せます。
父母も時々、様子を見に来てくれていた。「時々」とは、父母が冷たい言い方のように聞こえるかも知れないが、実はそうではない(注1)。原爆投下の日、私の弟も中学1年生(廣島県立第二中学校=現・観音高校)で建物疎開作業に動員され、爆心からわずか500メートルの中島新町にいた。父と伯父がたぶん2日後から、ほとんど毎日焼け跡を捜し回っていたのである。やっと本人の弁当箱を見つけ、遣骨代わりにとその辺りの砂を詰めて持ち帰ってきた(この弁当箱は、父が高齢になった後、私が原爆資料館に寄託した)。弟は級友の実家である舟入町の唯信寺までいっしょに逃れ、2日後の8日、苦しい息の下「天皇陛下万歳」と叫んで絶命したという。この事を知ったのは、随分あとになってからであった。本川沿い2中の慰霊碑には、弟を含め全滅した2中1年生、3百数十の名前が刻まれている。
寝ていると、8月15日に祖父が「日本が負けた」と慌てたように帰って来た。まさかそんな事が…絶句。寝床の中で涙がとまらなかった。
そうこうして夏も終わりに近づき、9月に入るころには、やけども少しはよくなり、何とか寝床から起きあがることができるくらい身体も回復してきた。そこで父の郷の根野村(いまは安芸高田市八千代町=私の現住地)に移ろうという事になった。大八車に布団を敷いて寝かされ、ジリジリと陽が照りつける中、舗装されていなかった現在の国道54号線をゴトゴト十数キロ、3時間半ばかり運ばれた。痛いのと、暑いのと眩しいのと、頭がぐらぐら揺れるのが辛かった(注2)。
秋になると、ようやくやけどの治療をしなくてもよくなり、外に出て歩けるようになった。学校に連絡をとると、校舎はもちろん焼失。翠町の寮に詰め所があるのが判った。やっと寮を訪ねる事ができたのは、もう年末近かった。「江波町の旧陸軍病院で授業を再開している。明日から出て来い」という。住む所もないのに、ちょっと待って下さいと返事、その日は帰った。年が明けて、皆実町にあり焼け残った縁類の家の2階が借りられる事になった。それも骨組みだけの吹きさらし、雨戸、障子、ガラス戸もなし。その辺りに散らばっていた障子、ふすまの使えそうな物を集め、一間だけどうにか住めるように囲った。江波の仮校舎もひどいものだった。もちろん窓ガラスなし、寒風が通り抜ける冬、あるだけ着込み授業に出た。その後、父兄の方が風船爆弾用の紙(割合い丈夫なものだった)なるものを手に入れ、ガラス代わりに張ってもらい少しは寒さ凌ぎになった。
どのくらいたってからだっただろうか、廃墟だった元の雑魚場町の跡地にバラック校舎が再建され、ようやく、まずまず普通に学校生活が送れるようになった。有り難かった。
ゲンバクは悲惨だ、残酷だという。確かに、いままでにない大量殺戮兵器である。原始以来、最初はこん棒、石斧だった武器は時代と共に進化し、刀や槍、鉄砲、大砲、毒ガス、爆弾、焼夷弾となり、ついには原爆、水爆を生んだ。ただ、大量殺戮が必ずしも残酷だとは言えまい。原爆で死ぬのと刀で一寸刻みにされるのと、どちらが残酷なのか。本人や見る人の主観であると言えないか。どっちにしても当人にとって死という事に変わりはない。
私は80歳になる今日まで、原爆の事を思い出すのも、語る事も嫌だった。まして記述するなど考えた事もなかった。確かに特異な体験には違いない。「もったいない。核廃絶のために、ぜひ」との声もかかった。なぜ嫌なのか本当は私にもよく判らない。たぶん、あまりにも悲し過ぎるのか、どれだけ話しても到底言い尽くせないと思うからなのか。二つとも違うような気もする。
それがどうして記述する気になったのか、白分の事なのにこれもよく判らない。誰に見てもらおう、読んでもらおうというのでもない。
15歳のあの時、弟と同じように死んでいても何の不思議もなかった(注3)。以降は余生、オマケの人生だと思ってきた。「エエ格好をするな」と言われそうだ。しかし、そんなに気張っているつもりもない。それにしても80歳とは、長いオマケだ。そろそろオマケにも限度を感じ出したからかもしれない。ゲンバクは自分にも一生封印するつもりだった…。
私の妻も「被爆者」だ。当時は高等女学校の生徒で、広島市の東端の家から西端の学校へ汽車と電車で通学していた。8月6日、原爆が投下された時、幸い既に市の中心部を通り抜けていた。学校に着いたら広島が壊滅、当然その日は学校に足止めになった。翌7日、家の近い者同士まとまって帰宅しようという事になった。そのためにはどうしても爆心地を通らなければならない。妻の話では、爆心200メートル以内ではないかという地点を通過している。そして二十数年前に右乳癌、右甲状腺癌を相次いで発症、どちらも全摘出した。その影響もあって、いまもいろんな障害に苦しんでいる。
現在は両癌に対して、積極的な治療はしていない。喜ぶべきことではないが、いまの基準であれば当然原爆症認定患者。二十数年間苦しんで来たのをどうしてくれると、先般認定申請を出した。結果は見事却下、認定されれば手当が出る。手当をいただけるなら、正直欲しい。だが、それだけで言っているのではない。発症の時期で、何でこんな差別があるのか、まったく理解できない。
私がいま、一番怖れているのは子や孫への影響である。実は最近、そうなのかなという兆候があった。自責悶々、やりきれぬ思いである(注4)。
私も世の中、身の回りみんな平和でありたい。そうでなくてはいけないと思う。微力だが平和に貢献出来れば尽くしたい気持ちもある。私は少しヘソ曲がりなのか(少々どころか)。現生人類発祥から約5万年、いやそれ以前からも争い事が絶えたことはなかっただろう。その度にみんな平和を願ってきたはずだ。それがどうして性懲りもなく繰り返えされるのか。『ゲンバクは違う』と言う。果たしてそうか。この過ちは二度と冒してはならない、核廃絶、恒久平和のため語り継がなくてはならない。今度こそは、もう全人類の滅亡だ。それはよく判る。
その一方で戦術核がどうの、戦略核がどうのと真面日に議論されているのも事実。総すくみで核戦争は、そう簡単には起こせまい。しかし対戦車用の劣化ウラン弾なら、大国が平気で使った。核爆発でこそないが、放射能の微粒子を大量にまき散らし、敵、味方、一般市民にまで障害が出た。某国、某集団がヤケクソで核爆弾を使う恐れはないと断言できるのか。いったい誰が『ゲンバクは違う、二度と起こさない』と保証できるのだろう。すべて虚しい。とても悲しい。ゲンバクは思い出すのも嫌だ。
(たけだ・あきよし 2010年8月30日、記/1930年8月5日生まれ、2011年8月13日没。81歳)
本文中に出てくる上の弟さん、二中の一年生で爆死しされた竹田雅郎さんのお弁当箱です。これは、2013年に原爆資料館に行って見せていただいた時に私が写真を撮りました。
見せてもらいに行ったのは、竹田さんと沖縄の知花さんと平和の夕べの中村周六さんと私。知花さんと中村さんの二人のお坊さんの対談をして頂いた時です。
明日、竹田さんの解説を載せて終わりますね。
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