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竹田昭義さんの手記③

 2日にわたって紹介した竹田昭義さんの被爆の手記「私の、ヒバク」について弟の竹田雅博さん博(注)と解説を書かれています。それもともに紹介します。原爆についてまったく語らなかった方が80歳になって初めて手記を書かれた、それはなぜなのかも含めて、背景などを語って下さっています。

◆(注)と解説 (竹田雅博)

兄2人が被爆(父親は入市被曝)し次兄は被爆死。上記の文章は、被爆後を生き延び、いっさい語らなかった上の兄が80歳になった晩年に、何を思ったか書いた。

(注1)「冷たいように思われるかも知れないが…」。父親は8月6日のあと翌日から毎日、息子を捜しに広島市内に入り、母親は末弟の私がお腹におり9か月の身重。十数キロを歩き、昭義が寝ていた吉田町の実家まで看病に行くことは難しい。そういう事情があったという意味だろう。

(注2)母は後年、このときのことを「ゆっくり、ゆっくり車を引いたが、昭義が『痛い、痛い。もっとゆっくり行ってくれ』と言う。それじゃあ、ひとつも進まん、あのときは困ったよの~」と言っていた。

  • この弟について、「父が(雅郎が瀕死でたどり着いた唯信寺の)住職から聞いた話では、弟は後に『天皇陛下万歳』と言ったそうだ。何とも言い難い気持ちと、戦争責任の所在を考えざるを得ない」…、『中国新聞』(1999年11月17日)が、全滅した広島2中1年生を特集した際、昭義はこのようにコメントしている。後日聞いたところ、日ごろ原爆や戦争について自分の考えを出さないのに、「自分が勤めていた新聞に載るということもあり、表現を抑えた。お前はどう思う。おれは、『天皇に戦争責任がある』と言いたかった」と話していた。
  • 兄の長女が2007年ころ「悪性リンパ腫」を発症した。幸い何とか治療が功を奏し回復したが、そのとき兄は非常に苦慮していた。家族のことなどわかりにくいところもあり、以下に少し「解説」を付ける。

<解説>

長兄・昭義と、次兄・雅郎(まさろう)は1945年8月6日の朝、広島市内で被爆した。当時それぞれ中学3年生と1年生。彼らは市内に近い親戚に下宿し通学しており、その日は広島市内の家屋疎開作業に動員されていた。

雅郎は爆心近く、いまの平和公園西端あたりで被爆し8日に死亡。昭義は約1・4キロ離れた鶴見橋付近におり、重症ながら助かった。私たちの実家は広島市の北約20キロにある。『私のヒバク』は、原爆を一切語らなかった昭義が、何を思ったか2010年8月下旬に書いたものである。

私(たち)が2008年、「8・6ヒロシマ平和の夕べ」の企画を始め、最初に「電車内被爆者」の米澤鐵志さんに、路面電車内で被爆した体験を話してもらうことになった。2009年は、被爆2世である産婦人科医の河野美代子さん、2010年には作家の高史明さんに「『近代合理主義』がもたらした植民地支配、侵略戦争、核開発」について話してもらった。

2010年の関連企画に米澤鐵志さん、原爆ドーム直近の中島本町に家があり一家全滅した福島和男さんに証言を依頼した。当時、中学1年生だった福島さんは郊外の工場へ動員され、早朝に家を出て家族のなかで一人生き残った。福島さんは退職後、修学旅行生たちに被爆体験を話す「語り部」となり、証言活動を海外にも広げた。アメリカ、ヨーロッパ、中国などを訪問。アメリカでは「終戦を早めた」という意見も少なくなく、中国では「原爆は当然の報い」という対応も受けたが、核廃絶の信念は変わらない。

依頼する際、福島さんが兄と同時期に中国新聞社に勤め、お互い親しかったことがわかった。原爆のことを語らない兄に(福島さんに証言をお願いすることを)知らせずに黙っていると、後で機嫌を損ねられても困る。帰省したときに、「こういう会を行ない、福島さんにお願いしたい」と兄に話すと、意外にも「福島君が話すのなら、ぼくも出なければいかんな」と、特別運行した被爆電車にも乗り、福島さんの実家があった(平和公園のドーム川向かい)など平和公園フィールドワーク、そのあと資料館会議室でおこなった学習会にも参加した。

兄は被爆後、避けてきた「場所」へ初めて踏み込んだのかもしれない。後日、「福島君の話は率直な語りで、よく伝わっていた」と、これも意外な感想をのべていた。

その秋に、「こういうものを書いてみた。人に見せるつもりはないが、一応お前は読んでおいてくれ」と、『私のヒバク』という、この一文を渡された。その半年後に、福島第1原発の大事故が起こる。兄は「政府、東電、テレビ発表は嘘だ。あれは原爆と同じ。大変だ」と危機感を顕わに、毎日のように私にメールを送ってきた。

翌年2011年の夏に、兄は急に亡くなった。被爆と核問題について報道を続けてきた中国新聞社(広島市)に勤め、文章を生業にした人が66年の後、わずかこれだけしか残さなかった。「人に見せるつもりはない」と渡されたが、他界し10年を過ぎたこともあり公表することにした。(竹田雅博)

ウィキペディアから、被爆直後の広島市。上の真ん中が竹田昭義さんが被爆した鶴見橋。その向こうが比治山です。手前のTの字の橋が原爆投下の目印にされた相生橋。今もTの字の橋が架かっています。

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今の鶴見橋。私が行けるのは夜なので。いつも自転車でこの橋を渡ってマツダスタジアムにカープを見に行きます。

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鶴見橋を渡った所に被爆したしだれ柳があります。今も頑張って生き続けています。

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こんなのが橋にかけてあります。

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文を転載します。

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竹田昭義さん、竹田雅博さんに感謝します。

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コメント

被爆80年:願平和 点滴穿石、広島に通いだして数年、
先ずは駅を降りたら電車で比治山方面へ、そして鶴見橋のたもとのお好み焼き屋「KAJISAN」へ直行、梶山さんご夫婦から「原爆8・6と9月の枕崎台風」のお話を、お好み焼きを食べながら聴く、これが訪広時の何時ものスタートでした、残念ですがお二人ともご高齢のため、お店は閉じられましたが、今も文通は続いています。「竹田昭義さんの手記①~③」、広島を知る上で大変参考になりました、有難うございます。先生、気温差の激しい毎日です、くれぐれもご自愛ください。

投稿: 小倉っこ | 2025年11月 5日 (水) 09時56分

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