竹田昭義さんの手記①
「8.6ヒロシマ平和の夕べ」のスタッフのおひとり、竹田さんがお兄さんの手記を配って下さいました。竹田さんの二番目のお兄さんは、広島二中の一年生で、全滅したそのお一人ということは知っていました。彼のお弁当箱は、資料館に寄贈され、私たちも見学に行きましたが、大切に保管され、時々資料館に展示されています。少し前に展示されたのですが、今もそうなのかどうかはわかりません。
上のお兄さんのことについては、広島一中の生徒でひどい被爆をしたけれど、生き延びられたこと、でも、一切自分の被爆については語らなかったと。そのお兄さんが突然手記を書き、竹田さんに託し、そして一年も経たない内に亡くなられたと。
その手記を初めて読ませて頂きました。淡々と整然と書かれた中に、悲痛なメッセージが入っています。これはもったいない、もっと多くの人に読んで頂きたいと思いました。竹田さんの許可を得て、ここに転載させて頂きます。
「私の、ヒバク」 思い出すのも嫌だ 竹田 昭義(故人)
1945年8月6日、午前8時15分(これは後から知った事で、その時は正確な時刻の認識はない)突然、バリバリバリという轟音と、何もかも一瞬見えなくなる強烈な閃光を左前方から感じた。熱いーッ、と思った時、もう頬の皮膚がベロリと縮れて垂れ下がっていた。
空襲や爆撃があった時は「指で目と耳を押さえ、地面に伏せろ」と教えられていた。とっさにその通りに行動、次の瞬間、地面をずるずるーッと数メートル引きずられた。爆風のためか、立ったままだった友人は京橋川まで十数メートル跳ばされたと、あとになって聞いた。
当時、私は旧制の廣島県立第一中学校(現・国泰寺高校)3年生。前日5日に15歳の誕生日を迎えたばかりだった。8月6日は建物疎開(焼夷弾攻撃による類焼を防ぐため、一定地帯の建物を壊す)の作業に動員され、爆心から東南へ1.5キロの鶴見町にいた。原子爆弾が炸裂したのは、作業はまだ始まらず整列して先生から注意事項の説明を受けていた時だった。
しばらくして目をあけると、煙と埃か1メートル先も見えない。さっきまで一緒に整列していたはずの友人たちの姿もない。逃げなければと立ち上がり閃光の反対方向と思われる鶴見橋を探すと、何とか見つかった。だが粉塵で向こう岸が見えない。鶴見橋は、当時は木橋。途中で壊れ落ちているかも知れない。しかし、渡るしかないと意を決し、すすむ。幸いこの時、橋はまだ無事だった。電車通りを横切って比治山へ登った。登るにつれて粉塵から上に出た。やけどは頬だけでなく左耳、首、肩もやられていると気づく。当時廣島一中は、校則で夏でも長袖の冬と同じ服。その肩が焼けて破れていた。胸に墨で名前を書いた白布が縫いつけてあったが、黒い名前の部分だけ焼け落ちていたのが奇妙だった。
比治山から見下ろすと広島市内は粉塵の底になり、どうなっているのかまったくわからない。その中からゾロゾロ、ゾロゾロ人が登ってくる。作業着、カーキー色の服、女子学生の白いセーラー服(下は、もんぺ)。皆それぞれ、やけどやケガ。中でも女子学生は無残だった。半袖の服がぼろぼろになり、髪や腕、胸まで焼け爛れた人もいた。まるで亡霊のような姿が粉塵の闇の中から次から次へと現われて来る様相は、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』と重なって思えた。
反対側の段原(だんばら=町名)に降りると、そこは別天地だった。山の陰だったためか、家々もほとんど無事のようだった。そこから下宿させてもらっていた広島駅方面、尾長町の叔母の家に向かってひたすら歩いた。
叔母の家にたどり着いたのは、何時ころだったのかよく憶えていない。私の部屋は2階。重傷を負っているのに、なぜかとにかく“虎の子”のカメラ(そのころは貴重品)が気になった。やけどで熱が出始めていたが、何とか2階へ上がろうとした。しかし、階段に壁が崩れ落ちており、諦めるしかなかった。
そのうち市の中心部から火の手が迫ってくる。消火の水も人手もなく叔母と3、4歳だった従弟、私の3人が近くの広場にゴザを敷き、近所の人たちと一緒に家が焼失していくのを、ただ茫然と眺めていた。そのころにはとっぷり日も暮れ、ゴザの上で一夜を明かした。誰かがくれたトマトが、やけどで火照った身にとても美味かった。思えばこの日、被爆後まだ何も口にしていなかったのだ。
翌8月7日、叔母が矢賀駅まで行けば芸備線に乗れると、どこからか聞きつけて来た。40キロほど離れた高田郡吉田町に叔母と私の母の実家があり、何とかそこまで行こうという事になった。矢賀駅まで1キロくらいだったか、とぼとぼと歩いて向かい、ようやく満員の汽車に乗ることができ吉田口駅に着く。そこから母の実家までは約7キロ、やけどで熱があるのに炎天下を歩くのが、とても辛かった。
途中通る吉田町の中心部に病院があるのを知っていた。「叔母さん、ぼくは母の実家まで行かんと、吉田病院に入院させてもらう」と叔母に言った。しかし、病院に着いて驚いた。私などよりもっとひどい、全身焼け爛れた人がトラックでどんどん運び込まれているではないか。もちろん病院には入りきれず、前庭で力なく蹲くまったり、寝かされたりしている。仕方なく、やはり母の実家に身を寄せる事になり、また歩いた。
祖父母たちが、やけどで腫れ上がった私の顔を見てびっくり。すぐに寝かせてくれ、蚊帳も吊ってくれた。蚊よけよりも、やけどに蝿がたかってウジが湧かないようにするためである。お陰で同じ場所で被爆した友人たちより、あとあとケロイドが比較的に軽くてすんだ。
蚊帳の中で寝ていると、祖父母たちのヒソヒソ話が聞こえてくる。「誰々さんが広島市内に被爆した知人を捜しに行き、帰って3日目に亡くなった」などと言っている。私に聞かすまいと気を遺っているのがよく判る。しかし、そんな話が毎日のように繰り返されるのである。どうしても耳に入る。事後に市内に入った人でも、そうだ。まして私は直爆、もう助かりようはないなと覚悟した。自分でも意外なほど冷静に、先生や友人に遺書を書いて枕の下に置いた。(明日に続きます。)
竹田昭義さん
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