ブックトーク「西瀬戸内海回天巡礼」③
回天は、コスパが悪かったと言われましたが、その成功率は、2~3%であったそうです。一方、訓練中の事故で多くの若者が亡くなりました。故障で動くことができなくて、そのまま酸欠で亡くなるということです。じわじわと酸素が亡くなって、苦しくなってついに亡くなるという、その胸中は一体どうだったのでしょう。そもそも、回天に乗るということは、自らの命が亡くなるということ。世を上げて戦争に突き進んでいく時に、自らの命をささげるという決心は、どのようにして作られていくのでしょうか。これがいつも私の胸の中にありました。それを知りたくて、今回のブックトークにも参加したともいえます。
山口県の上関に、「回天特別攻撃隊員和田稔記念碑」が建っています。説明版に、「一九四五年七月、特攻兵器回天の搭乗員和田稔少尉(東京帝国大学在学中・当時二十三歳)が光基地から発進し行方不明となりましたが、同年九月の枕崎台風により白井田の高瀬の岩礁に漂着しました」と書いてあるそうです。和田氏の日記は「わだつみのこえ消えることなく」として出版されています。和田氏は1945年5月にウルシー方面に出撃しました。しかし、敵に遭遇することなく帰還。 7月の再出撃に備えた訓練中に行方不明となったものです。彼は、東京帝国大学に入学前の一高時代の日記に「我々の経済は常に時代道徳にのみ支配され、それに追随して行くことしかできないのであろうか」と当時の社会への疑問も書いているとのことです。また、本の中の佐田尾さんの特別寄稿「和田稔と同じ時代の妹たち」の中に、和田稔氏のことについての記述があります。その中に書かれています。和田は、熱狂的になるでもなく退廃的になるでもなく、宿命を受け入れ、おのれの考えを弟や妹にすべて伝えたいと願った。と。また、和田が同期の回天搭乗員大石法夫にもらした無一言がある。殉職する前々日、自身のアルバムを見せて「これは妹の若菜というんだ。可愛いだろう」「死にとうないのー」と漏らした。しかし、それが弱音の様には聞こえなかったという。
こうして、戦争に突き進む社会、為政者たち、大人たちは若者たちを死へと追いつめて行きました。そして、殉死した若者たちをお国のために命を捧げて立派に戦ったとし、そのおかげで今の平和があるとさえも。しかし、和田氏のように優秀な若者たちが一体どれだけ命を落としたことか、それでも日本は原爆の惨禍も加えて、本当にみじめに敗戦を迎えざるを得ませんでした。あの大勢の亡くなった若者たちが生きていたなら、もっともっといい社会がつくられたかもしれません。
私は今日(日が変わったのでもう昨日ですが)市民劇場の演劇を見ました。青年劇場の「星をかすめる風」。治安維持法で福岡刑務所に収監された朝鮮人詩人ユン・ドンジュ氏が九州大学の医療班により獄死させられる話です。言いようのない悲しみ、怒りで観劇しながら体が震えました。もう少し、回天とこの演劇について、戦争というものについて、考えたいと思います。
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