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お野菜たちで食卓が豪華です。

 先日、長い付き合いの患者さんからお米とどっさりお野菜を頂きました。ありがたいことです。

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 写真は撮っていませんが、丸ごとの白菜も。そして一昨日は、オフ会で頂いた野菜たちも。早速にぬたを作ったのですが。そのほかも、今、新鮮なうちにと、忙しく野菜を使っています。

白菜二枚に冷凍餃子を使ってスープ。先に芯の硬い部分をくたくたにて、葉の部分は餃子が煮えてから入れました。

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沢山の立派な大根の葉っぱを使って。塩でもんで塩抜きしてからどっさりの鰹節を入れて浅漬けにしました。ごはんにまぶして食べると最高です。

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同じく大根葉と小さめのいりこを炒めました。味付けはお砂糖とお醤油を軽めに。

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カブと日高昆布の甘酢漬け。

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そのカブの葉っぱと干しエビを戻して炒め物。

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そして、今日は、スタッフの竹下さんに教えてもらったショウガご飯を作りました。

金たわしで洗った生姜をマッチ棒くらいに細く刻み、油揚げ二枚をお湯で油抜きして、一センチ幅に切って。

生姜を牡蠣オイルで炒めてしんなりしたら、塩とお酒を入れる。そして油揚げを入れて、揚げに焦げ目がつくくらいになったらお醤油をジャッと回し入れて、それを炊き立てのご飯に混ぜるだけ。写真がピンボケだったり暗かったりですが、急いで作りながらなので・・。

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今日は忙しくて遅く帰ったのですが、チャッチャッと簡単に作って、でも、うまあ!!でしたよ。炊き込むのでなく、炒めてごはんに混ぜるだけなので。本当においしくて。頂き物のお野菜たちで、このところ、食卓が豪華です。おかげです。ありがとうございます。


 


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ふっかつ!ケンホクオフ会②

ふっかつ!ケンホクオフ会が開かれた旧郷野小学校は、江の川に面しています。会の途中で、川に行ってみました。坂を上がって土手に。このあたりの川は大きいのですが、水が少なくて、真ん中あたりに流れているだけでした。でも、そこには、多くの鴨が泳いでいました。もうシベリアあたりから飛んできたのでしょう。白鳥はいませんでしたが。泳ぐ姿がかわいくて。

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「鴨が泳いでいました。」と、水藤さん、くんちゃんにいうと、「そう、このころ飛んでくるから。もう心配で」と言われます。一瞬うん?と思いましたが、すぐに気づきました。「鳥インフルエンザのことですね。一羽でも罹ったら、全部埋めないといけないんですね。」「そう」と。クンちゃんは「クンちゃん卵」の生産者です。平飼いの有精卵で、fanで配達してもらう方が多い美味しい卵です。

 そんな方にとって鳥インフルエンザは、大変なことでしょう。無邪気に「鴨かわいい!」なんて言ってて反省です。

はるめさんと、テンペさんが、お野菜をどっさり持ってきて下さいました。みんなへのお土産と。町から来た人、もって帰ってと。ありがたいことす。私は、立派な分葱と生姜と赤大根を頂いて帰りました。帰ってすぐに分葱を茹でて、ぬたにしました。あさりのあけみが欲しかったのですが、お店になかったので、浅利を買ってさっと茹でて、身を取り出して使いました。新鮮なお野菜、うれしいです。

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水藤さんたちが買い取って運営している旧郷野小学校。素敵な所ですが、民間での運営、なかなか厳しいものがあるそうです。私たちもこれからも協力したいと思います。今回は完全におんぶにだっこでしたが、何かできることをしたいと思いました。

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集合写真です。

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皆様、本当に楽し方かったです。ありがとうございました。 またお会いできますように。

 

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ふっかつ!ケンホクオフ会①

 今日は、県北オフ会でした。何年振りでしょう。以前は本当によく集まっていたのですが、コロナ以来集まることもなくなっていました。私は音さんと途中合流して行きました。場所は安芸高田市の旧郷野小学校。廃校となった学校跡を校舎を解体するということになったのを、水藤さん、クンちゃんたちが頑張ってNPOを作り、市から買い取って、今は民間の物となっています。と聞いていたのですが、運動場も広く、校舎も大きく、体育館も立派で、立派な学校だったのでびっくりしました。もう少しこじんまりしたイメージをもっていました。この校舎を潰すのは、それはもったいないことです。でも、維持もなかなか大変で、クンちゃんたちがクラウドファンディングで資金集めをし、コンセントを作って電気が使えるようにし、新しくトイレを作ったりして、いろいろ貸し出しているのです。

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その校舎の一年生の教室が会場です。14人が集まって、まずクンちゃん先生が出席を取り、始まりました。

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皆さんとは広島blogで知り合って、もう20年になります。なつかしい人たち。暖かく楽しい会話。クンちゃんがみんなにお弁当を用意して下さっていました。それに持ち寄りのお料理。ごちそうでです。

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テンペさんがテンペ汁を、よし爺さんがお刺身や焼き鳥を。はるめさんのきんぴらごぼう、お肉入りです。音さん手作りの味噌ピーナツと巻きずし。どなたのかわからなかった、柿なます。それにゆきりんさんが焼いて持ってきてくださったパン。プロのパン職人みたい。

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私は、昨日の内に買っておいた材料で今朝デザートを作りました。

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これにココナッツミルクを入れて、ちょっと濃かったので、オレンジファンタも入れました。

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みんなの近況報告、いろいとつもる話。の後、頭の体操、クイズが始まりました。4人一組で、校舎全体を使って、階段を上ったり下りたりしながら。それは難しいクイズでしたよ。頭をひねって、とても時間がかかりました。

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本当に楽しくって。この後、明日に続きますね。 


 


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竹島宏のライブに行きました。

13日の木曜日、竹島宏氏のライブに行きました。私は、全く知らない人なのですが、親しい柴田さんが大ファンで追っかけをしていて、いろいろと話は聞いていました。その竹島さんが広島でライブをするから、ということで誘われました。ちょうど木曜日の休診日、それに講演も入っていない、奇跡みたいに空いていた日にはまりました。なんか、東方神起以外はコンサートもあまり行かなくなっていて。以前は美川憲一はコンサートもディナーショーもずいぶん熱心に行っていました。姉と妹と一緒に。でも、今はその二人とも行けなくなったので。あとは、吉田拓郎、郷ひろみ、西城秀樹、などなと。

 会場は、薬研堀のライブハウス。タクシーで会場に行くと、びっくり。行列でした。ああ、私が知らなかっただけで、ファンは沢山いるのでした。

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開演前の会場です。始まるともう写真は撮れないので。

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始まる時には、会場はいっぱいでした。竹島宏さんはかわいい男性ですが、もうデビュー以来25周年になるということ。大学を卒業してからだから、47歳?とてもそうは見えない。次々と歌われますが、当然私には初めての曲ばかり。中でも、ええっとびっくりしたのが「プラハの橋」という曲。柴田さんによると、これはミュージカルで歌われた曲と。戦争カメラマンと夫がいる女性との愛のミュージカルで、ものすごく感動したと。私も観てみたいです。一曲の歌を聴くだけでも感動したのですから。

 2時間余り、楽しい時間はアッという間でした。終わった後は、握手もしてもらって。柴田さんは二部も観るということで、お別れしました。私は、その日の夜はズームでの研修があるので、自宅へ帰りました。そう、こんなお休みの日があってもいいです。柴田さんに感謝しなければ、ですね。


 


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冬のおくりもの

失敗!!ごめんなさいでした。今日は、楽しみにしていた音さんたちの「冬のおくりもの」の初日でした。音さんに、ランチの予約までしてもらっていたのに。音さんから電話があって「いつ来ますか?」と。その時私は、そごうの地下でラーメンをべ終わった所でした。会場はそごうのすぐそばなので、急いで行きましたが。ランチ、音さんがキャンセルして下さっていました。

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本当に申し訳なくって。もう2時近かったので、お客さんは少なくなっていましたが。おかげでゆっくり見れて良かったのかも。音さんともゆっくり話ができましたし。午前中の開場と同時にすごい人がどっと押し寄せたそうです。


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音さんのコーナーです。

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赤ちゃんのお顔を見ながら授乳ができるカバー。アイデアが素晴らしいです。

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私は、音さんのデニムのバッグと眼鏡ケースと、デニムのブローチを買いました。それと、音さん作ではないのですが、藍染め作家の方の手袋。どれも素敵です。

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皆様ほんとうに力作ばかりで素晴らしい。同時にうらやましくもありました。「冬のおくりもの」は明日も開催されます。

主催の皆様、ありがとうございました。そして、もう一度ごめんなさい。

 なぜそごうのラーメンかというと・・。地下の中華料理「接えん」(えんの字がパソコンで出ません。竹かんむりに延です)。時々お惣菜を買うのですが、そこの奥で麺やどんぶりが食べられると。そして、そのお店は横浜の中華街の有名なお店だと、今日知って、それなら食べてみなくっちゃと行ったのです。担々麺を食べました。それは美味でした。でも、全部食べられず、3分の1残しました。990円と今時ではリーズナブルだし。まだ食べたいどんぶりもありました。またいつか行くでしょう。

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ユン・ドンジュさん

 私は、今回この演劇「星をかすめる風」を見るまで、恥ずかしながら「ユン・ドンジュ」さんのことは知りませんでした。でも、韓国では教科書に詩が載っていたりして、みんなが知っているほど有名な存在でした。私の韓国語の李先生ももちろん、同じ教室の小林さんも知っていると。

 クリスチャンであるユン・ドンジュ氏は、現延世大学を卒業後1942年4月立教大学に入学、10月に同志社大学文学部英文学科専科に転入します。1943年7月、もう故郷に帰る予定で送別会もすんでいた所で、従兄と共に治安維持法で逮捕されます。そして懲役二年の判決を受け、福岡の刑務所に収容されたのです。

 演劇の中での会話です。「どうして逮捕されたの?」「詩を書いたから」「詩を書いてどうして逮捕されるの?」「朝鮮語で書いたから」「どうして朝鮮語で書いたの?」「朝鮮人だから」本当に当たり前のことなのに。日本人がアメリカに行ってもブラジルに行っても、日本語と日本の文化は大切にするのが当たり前なのに。

 序詩

死ぬ日まで天を仰ぎ
一点の恥じ入ることもないことを、
葉あいにそよぐ風にも
私は心痛んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そして私に与えられた道を
歩いて行かねば。

今夜も星が風にかすれて泣いている。

福岡の刑務所に乗り込んできた九州大学の医療班。医療を施すふりをして、囚人たちに人体実験をしていました。わけのわからない注射を打たれて。彼がこれまで書いてきた詩や文も押収され、焼かれてしまいました。彼が亡くなった後、遺体を引き取りに来た父親に、従兄がわからない注射を打たれていると言いました。そしてその従兄もほどなく亡くなっています。アメリカ人の捕虜にした人体実験は戦後問題になったのに、刑務所でひっそりと亡くなっていった朝鮮人の囚人たちのことはなにも知らされないままです。

以前、譜族という演劇を見ました。日本が、朝鮮人たちの名前を奪い、言葉を奪ったこと。それに抵抗する人達の演劇でした。創氏改名をしない人達には、ひどい差別をしました。それらに苦しんで、結局は主人公は身を投げて自死してしまいました。やはり日本がやったことは許されないと思います。

 私は、アジアの人たちに日本の戦争推進者たちがしたことと、日本の若者たちにしたこと、多く若者たちの命を奪ったことは同じく許されないことだと思っています。それだけでなく、沖縄をはじめとして、日本本土の空襲で逃げまどい殺された人たち。原爆により子どもたちも含めてあらゆる年代の人々が焼かれ亡くなっていったこと。なんのために戦争をしたのでしょうか。

 私は、以前、韓国の「八月のクリスマス」やぺ・ヨンジュン氏の「四月の雪」などの映画監督、ホ・ジさんと食事をしたことがあります。その時、韓国人の反日感情と、日本がやってきたことを考えればそれは当然でもあること等を話した私に、ホ・ジノさんは、「国に対してと、一人ひとりの人に対しての感情は異なるものだ」と言われて本当に助かったことを思い出しました。

その時のことを書いています。良ければ読んでみて下さい。

http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-e24c.html

その時の写真です。

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日本がやってきたこと、それに対して私たちがどうしたらいいのか、国がちゃんと謝罪をした上での外交をしないから、いつもでも私たちはうしろめたさを持ち続けなければなりません。

回天のブックトークを聴き、ユン・ドンジュ氏の演劇を見たことで、そんなことを考えました。まだまだ私たちの課題は続きます。


 


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回天とユン・ドンジュ氏

 回天や飛行機などの特攻隊員の戦死者数。特攻隊戦没者慰霊顕彰会によると、海軍が4146人、陸軍が2225人の合計6371人とされています。これらの若い人たちは、日本国ため、天皇の為、家族のためにと、純粋にそう考えて、自分の命を懸けて戦ったのでしょう。若者たちは、教育により、洗脳されて行ったのでしょう。

 しかし、戦争は一体、誰が初めて、どうやってこのように国を挙げて戦うのが当たり前になっていったのでしょうか。日本がアジアに侵略していくときに、それを止めることはできなかったのでしょうか。もし、そのようなことを考え、だれかに語ったなら、それは即非国民となり、人々の攻撃の対象となりました。

 私は、「はだしのゲン」のすごいところは、ゲンのお父さんに尽きると思っています。あの社会の中で、戦争反対と言い、息子が軍隊に入ることに反対し、朝鮮人と仲良くし、そして、非国民として逮捕、監禁され拷問され・・。中沢啓二さんは、そのような父親の元で育ち、だからこそ、あの様な「はだしのゲン」を描くことができたのだと思います。

 私が何にこだわっているのかというと。私は、この20年近く、「8.6ヒロシマ平和の夕べ」のスタッフとして活動を続けてきました。その中心を貫いているのは、当然「反戦・反核」です。その中でも、もう数少なくなってお話を直接聞けなくなる被爆者にその体験を語って頂くことを続けています。それも、単なる被爆体験だけでなく、様々な闘いを続けて来られた方に。今年は韓国人被爆者の救済活動を続けて来られた豊永恵三郎さんに、昨年は核兵器廃絶の闘いを続けている千葉たか子さんに、一昨年は被爆教師の会で子供たちへの平和教育を続けてこられた森下弘さんに。この年の平和講演には原爆小頭症きのこ会の事務局長の平尾直政さんにも話して頂きました。という具合に。中沢啓二さんや李鍾根さん、那須正幹さんなどもうなくなった方たちにも。それは、貴重なお話を聴くことができました。

 でも、それら語って下さる被爆者の方たちのこれまでの壮絶な闘いを、「被爆者は、なぜ被爆をしたのか、それまでの日本がしてきたことの反省がない」という人がいるのです。日本がアジアに侵略し、国民みんな一体となって戦争に加担したではないかと。朝鮮人などの差別もしてきたではないかと。確かにそうです。日本がしてきたことは紛れもない事実です。でも、その責任をなぜ被爆者に求めるのか、それが私には理不尽だと思えるのです。あの状況の中で、戦争に国民が巻き込まれて行くなかで、だれがどうやってそれを止めることができたのでしょうか。生きるだけで精一杯だった被爆者にその責任を求めるのは、あまりに酷だと思うのです。精一杯生きて来たその生きざまを見せていただくだけで、私たちはありがたいと素直に思います。

 しかし、同時に私は、若者を回天に追いやった、そして、詩人のユン・ドンジュ氏を治安維持法で逮捕し、獄死させた、それら為政者たち、戦争を推進し続けた人たちを今もなお追及しなければならないと思います。そうしないと、また同じことを繰り返してしまうと。今を戦前にしてしまうのではないかと。私たちにそれを止めることができるのかと。本気で怖いことだと思うからです。

 明日からユン・ドンジュ氏のことを少し書きたいと思います。

これは、私が感動の中で演劇「星をかすめる風」を見た後買ったパンフレットと詩集「空と風と星と詩」です。

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ブックトーク「西瀬戸内海回天巡礼」③

 回天は、コスパが悪かったと言われましたが、その成功率は、2~3%であったそうです。一方、訓練中の事故で多くの若者が亡くなりました。故障で動くことができなくて、そのまま酸欠で亡くなるということです。じわじわと酸素が亡くなって、苦しくなってついに亡くなるという、その胸中は一体どうだったのでしょう。そもそも、回天に乗るということは、自らの命が亡くなるということ。世を上げて戦争に突き進んでいく時に、自らの命をささげるという決心は、どのようにして作られていくのでしょうか。これがいつも私の胸の中にありました。それを知りたくて、今回のブックトークにも参加したともいえます。

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 山口県の上関に、「回天特別攻撃隊員和田稔記念碑」が建っています。説明版に、「一九四五年七月、特攻兵器回天の搭乗員和田稔少尉(東京帝国大学在学中・当時二十三歳)が光基地から発進し行方不明となりましたが、同年九月の枕崎台風により白井田の高瀬の岩礁に漂着しました」と書いてあるそうです。和田氏の日記は「わだつみのこえ消えることなく」として出版されています。和田氏は1945年5
月にウルシー方面に出撃しました。しかし、敵に遭遇することなく帰還。 7月の再出撃に備えた訓練中に行方不明となったものです。彼は、東京帝国大学に入学前の一高時代の日記に「我々の経済は常に時代道徳にのみ支配され、それに追随して行くことしかできないのであろうか」と当時の社会への疑問も書いているとのことです。また、本の中の佐田尾さんの特別寄稿「和田稔と同じ時代の妹たち」の中に、和田稔氏のことについての記述があります。その中に書かれています。和田は、熱狂的になるでもなく退廃的になるでもなく、宿命を受け入れ、おのれの考えを弟や妹にすべて伝えたいと願った。と。また、和田が同期の回天搭乗員大石法夫にもらした無一言がある。殉職する前々日、自身のアルバムを見せて「これは妹の若菜というんだ。可愛いだろう」「死にとうないのー」と漏らした。しかし、それが弱音の様には聞こえなかったという。

 こうして、戦争に突き進む社会、為政者たち、大人たちは若者たちを死へと追いつめて行きました。そして、殉死した若者たちをお国のために命を捧げて立派に戦ったとし、そのおかげで今の平和があるとさえも。しかし、和田氏のように優秀な若者たちが一体どれだけ命を落としたことか、それでも日本は原爆の惨禍も加えて、本当にみじめに敗戦を迎えざるを得ませんでした。あの大勢の亡くなった若者たちが生きていたなら、もっともっといい社会がつくられたかもしれません。

 私は今日(日が変わったのでもう昨日ですが)市民劇場の演劇を見ました。青年劇場の「星をかすめる風」。治安維持法で福岡刑務所に収監された朝鮮人詩人ユン・ドンジュ氏が九州大学の医療班により獄死させられる話です。言いようのない悲しみ、怒りで観劇しながら体が震えました。もう少し、回天とこの演劇について、戦争というものについて、考えたいと思います。


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ブックトーク「西瀬戸内海回天巡礼」②

 人間魚雷回天は、第二次世界大戦(回天巡礼本の中では大東亜戦争と語ってありますが)末期に開発された海軍の特攻兵器です。そもそも開発の拠点は、大型の特殊潜航艇「甲標的」の開発が行われていた今の音戸町です。

 私は知らなかったのですが、海軍は「兵士の死を前提にした兵器は作らない」とされていたのが、回天は、爆薬を搭載した魚雷に一人の兵士が搭乗して敵艦につっこむという、確実に兵士の死を前提とした兵器でした。


 その訓練所は山口県に3か所と大分県の速見郡日出町大神の4か所にありました。

 筆者はそれらのみならず、江田島の兵学校など関連の場を訪れ、丁寧に取材をして、沢山の写真を撮り、資料を掘り起こし、「回天」とは何だったのかと検証を行います。

本からの転載です。このような場所を訪れています。

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そもそも著者の堀さんは、靖国神社の初回宮司青山清さんの子孫だそうで、びっくりです。そして、宇部という地方に居住しながら、今回の本だけでなく、「戦争歌が映す近代」「ハワイに渡った海賊たち」「中原中也と維新の影」など多くのノンフィクションの執筆をなさり、且つ自らUBE出版を立ち上げて出版なさっています。

本に語られたことを実際に生の口で語られるのには、説得力があり、ただひたすら関心してお話を伺いました。本の目次を載せますね。

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そして、戦争末期。敗戦が濃厚となった時期にこれらを作り、そして堀さんもおっしゃってました、大変コスパが悪かったと。実践での有効な働きはほとんどなく、多くの若者が訓練中に亡くなったり、実践でも、役目を果たさずに亡くなったりした現実があります。

 多くの有能な若者たちをこうして亡くならせてしまったこと。「この人たちのおかげで今日本が平和に暮らせている」という人達がいます。それについて??明日書きますね。


 


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ブックトーク「西瀬戸内海回天巡礼」①

11月4日の午後2時から、「『西瀬戸内海回天巡礼』ブックトーク」に参加しました。でも、私のお昼時間は午後3時まで。3時直前に断腸の思いで失礼しました。この会については佐田尾さんがお知らせくださいました。初め、あきらめようかと思ったのですが、どうにもお話を聞きたくて、大変失礼ながら、一時間だけでもと参加させてもらったのです。

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本はこれです。

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宇部在住の堀雅昭さん編著。人間魚雷「回天」の形跡を求めて、西瀬戸内海を丁寧に歩き、綴られた本です。多くの写真や資料が掲載されています。会の前に読んでおこうと買ったのですが、知らないことばかりでした。

会について書く前に、会場について。会場の「kitokoi樹と鯉」は、昨年の3月28日に行っています。観音高校演劇部OB会主催で「土橋先生・脇田義さんをしのぶ会」でした。その時のことは、ここから二日間にわたって書いています。今読み返してみると、結構大切なことを書いています。


http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2024/03/index.html

始めて行ってびっくりしたのが、会場に大きな鯉が悠然と泳いでいる事。今回ももちろんそうなのですが、今回撮った写真よりも昨年3月に撮った写真のほうがかっこよく写しているので、そっちを今回も載せますね。

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そして、この度びっくりしたのが、これです。kitokoiの前に被爆あおぎりが植えてありました。昨年3月、まだ植えたばかりに見えました。案内板によりますと、2023年4月21日にグーン・レガシー・ヒロシマより寄贈されたものと。1945年8月6日に広島に投下された原爆の惨禍を生き抜いた樹木の子孫だと。ひょろりと棒だけのような幹ですが。

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この樹が、なんと今回行ったときにこんなになっていました。本当にびっくりしました。たくましいものです。きっとお店のオーナーが丁寧に育てていらっしゃるのでしょう。

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今回のイベントには、沢山の参加者で、会場は満杯です。30人の方が集まられました。

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会は佐田尾さんの司会で始まりました。この会場がある土地について。昔、この土橋は最大の遊郭があったところだと。私も、最近になって、ここにいた方たちは原爆でおそらく全滅でしょうが、それでも、彼女たちの調査とか記録だとか資料がないものだろうかと、そんなことを考えていたのです。だから佐田尾さんのお話にびっくりしました。

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何人かの参加者の方たちの紹介があって、そして堀さん。佐田尾さんと堀さんの掛け合いのような形で進行していきました。

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内容について、また明日書きますね。上手に書けるか不安なのですが・・。


 


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クリニックからズームで講演でした。

5日水曜日の夜は、診療を終えるとすぐに講演でした。と言っても、ズームでクリニックから。Wi-Fiの関係や、二人の付き添いの方がいらっしゃる関係で、クリニックの待合室に臨時のスタジオを作りました。画面のバックに、私の好きな絵が入るようにして。

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対象は、ある企業の方たち。愛知県から九州、沖縄までの方たちがパソコンの画面を通して聞いて下さいました。画面に沢山の人がいらっしゃるのにびっくりしました。

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ひたすら画面に向かって話すのは苦手ではあるのですが、でも、こうして遠方の方にも聞いていただけるのは、ありがたいことでもあります。日頃あまり話す機会がない方たちに、性教育について話すことができました。動画も含めて、何もトラブルもなく話せました。あとの質問にも、中学生や高校生の男の子、女の子を育てていらっしゃる方から、これから具体的にどうしたらいいのかという質問もありまして・・。

 そして、今日木曜日は、午前中に取材が入っていました。緊急避妊薬のOTC化について、私の懸念を、データを提示して話しました。さて、どのような記事になるか心配ではありますが。5年前から、緊急避妊薬については、ずっとデータを取り続けています。なぜ緊急避妊が必要になったかという理由も含めて。レイプの被害はワンストップ、警察、児相などから連れて来られた方も含めて全体の7%でしかありませんでした。あとはもうひたすら性教育の不足によるものと言えるでしょう。その教育をしっかりしないためのとばっちりが女性たちに来ています。

 午後1時から用が入っていて、その前に、さて。久々にしっかりしたお昼ご飯を食べようかと、自転車で栄家に行きました。何年振りでしょうか。そしたら、お昼時で、お店の前に行列でした。すなおに行列に並びました。順番が来て、一人なのでカウンターに案内されました。目の前に東方神起とカープの黒田さんと、山下達郎さんの色紙が張ってありました。

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そう言えば、東方神起がここで食事をしたということが伝わると、若い女性たちでここに行列ができたと聞きました。東方神起だけでなく、本当に沢山の人来ています。後ろの壁一面に色紙が張ってありました。

私が頼んだのは、ミニ天丼、ミニうどんがついています。それは美味で、多くの方が来る理由がわかります。かつ丼が多くの人に好まれているようですが、他にも魅力的なメニューがいっぱいです。またほかの物を食べに来ましょう。

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夕方にまたクリニックに戻って、レセプトや銀行に行ったり、いろいろと雑用を片付けました・・。もう少ししたら、猛烈に忙しくなりそうです。二週間の内に大阪と、東京に三往復、神石高原町に行かないといけません。でも、診療は休みません。


 


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初めてのピースウィング

 4日火曜日に、初めてピースウィングに行きました。これまで行ったことがなかったのですが、広島県日韓親善協会から招待券を送ってきました。対戦は韓国の江原FC。ピースウィングは、その建設の過程から、あまりいい感じをもっていなかったし、サンフレッチェについても別にファンでないしで。でも、日韓のご招待なら行かなければ。チケットは二枚。韓国語の教室の同級性のゆかさんと一緒に行くことにしました。何しろ行ったことがないので、その作りも分からないし、どこで待ち合わせをすればいいのかも全部、ネットで勉強をして。

 さすがにとてもきれいだし、エレベーターを使って無理せずに入ることができました。ゆかさんと、座席はああだこうだと言いながら。でも、座る前に腹ごしらえ、何か買わなければ。座席に一番近い所で購入。すごい行列ですが、でも、販売する人達も大勢で手際よく。だから、あまり待たないで買うことができました。私は、トマトスープとホットドッグのサルサ、チーズトッピング。

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トマトスープは暖かくてベーコンと野菜たっぷりでとても美味でした。さるさのホットドックも、ピリ辛でおいしかったです。

座席は前から6番目。選手とすごく近いいい席です。なんと、審判はみんな女性でした。きびきびと。なんか、あとでネットに女性主審のことを、サンフレッチェの選手へのレッドカードのことで良くなく書かれていましたが、私には、なぜそんなことを言うのか不明です。

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何せ、私は選手のことも何にも分からないので。でも、さすがサンフレッチェはうまいと思いました。江原FCの若い人たちの応援団。韓国から来られたの
でしょうか。ずっと熱心に飛び続けて歌い続けて、すごいエネルギーです。

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初めての物見遊山で何にもわからずきょろきょろするばかりでしたが。招待して下さったサンフレッチェと日韓親善協会の皆様に感謝いたします。もう一度行くなら、あのトマトスープをまた頂きたいです。


 


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竹田昭義さんの手記③

 2日にわたって紹介した竹田昭義さんの被爆の手記「私の、ヒバク」について弟の竹田雅博さん博(注)と解説を書かれています。それもともに紹介します。原爆についてまったく語らなかった方が80歳になって初めて手記を書かれた、それはなぜなのかも含めて、背景などを語って下さっています。

◆(注)と解説 (竹田雅博)

兄2人が被爆(父親は入市被曝)し次兄は被爆死。上記の文章は、被爆後を生き延び、いっさい語らなかった上の兄が80歳になった晩年に、何を思ったか書いた。

(注1)「冷たいように思われるかも知れないが…」。父親は8月6日のあと翌日から毎日、息子を捜しに広島市内に入り、母親は末弟の私がお腹におり9か月の身重。十数キロを歩き、昭義が寝ていた吉田町の実家まで看病に行くことは難しい。そういう事情があったという意味だろう。

(注2)母は後年、このときのことを「ゆっくり、ゆっくり車を引いたが、昭義が『痛い、痛い。もっとゆっくり行ってくれ』と言う。それじゃあ、ひとつも進まん、あのときは困ったよの~」と言っていた。

  • この弟について、「父が(雅郎が瀕死でたどり着いた唯信寺の)住職から聞いた話では、弟は後に『天皇陛下万歳』と言ったそうだ。何とも言い難い気持ちと、戦争責任の所在を考えざるを得ない」…、『中国新聞』(1999年11月17日)が、全滅した広島2中1年生を特集した際、昭義はこのようにコメントしている。後日聞いたところ、日ごろ原爆や戦争について自分の考えを出さないのに、「自分が勤めていた新聞に載るということもあり、表現を抑えた。お前はどう思う。おれは、『天皇に戦争責任がある』と言いたかった」と話していた。
  • 兄の長女が2007年ころ「悪性リンパ腫」を発症した。幸い何とか治療が功を奏し回復したが、そのとき兄は非常に苦慮していた。家族のことなどわかりにくいところもあり、以下に少し「解説」を付ける。

<解説>

長兄・昭義と、次兄・雅郎(まさろう)は1945年8月6日の朝、広島市内で被爆した。当時それぞれ中学3年生と1年生。彼らは市内に近い親戚に下宿し通学しており、その日は広島市内の家屋疎開作業に動員されていた。

雅郎は爆心近く、いまの平和公園西端あたりで被爆し8日に死亡。昭義は約1・4キロ離れた鶴見橋付近におり、重症ながら助かった。私たちの実家は広島市の北約20キロにある。『私のヒバク』は、原爆を一切語らなかった昭義が、何を思ったか2010年8月下旬に書いたものである。

私(たち)が2008年、「8・6ヒロシマ平和の夕べ」の企画を始め、最初に「電車内被爆者」の米澤鐵志さんに、路面電車内で被爆した体験を話してもらうことになった。2009年は、被爆2世である産婦人科医の河野美代子さん、2010年には作家の高史明さんに「『近代合理主義』がもたらした植民地支配、侵略戦争、核開発」について話してもらった。

2010年の関連企画に米澤鐵志さん、原爆ドーム直近の中島本町に家があり一家全滅した福島和男さんに証言を依頼した。当時、中学1年生だった福島さんは郊外の工場へ動員され、早朝に家を出て家族のなかで一人生き残った。福島さんは退職後、修学旅行生たちに被爆体験を話す「語り部」となり、証言活動を海外にも広げた。アメリカ、ヨーロッパ、中国などを訪問。アメリカでは「終戦を早めた」という意見も少なくなく、中国では「原爆は当然の報い」という対応も受けたが、核廃絶の信念は変わらない。

依頼する際、福島さんが兄と同時期に中国新聞社に勤め、お互い親しかったことがわかった。原爆のことを語らない兄に(福島さんに証言をお願いすることを)知らせずに黙っていると、後で機嫌を損ねられても困る。帰省したときに、「こういう会を行ない、福島さんにお願いしたい」と兄に話すと、意外にも「福島君が話すのなら、ぼくも出なければいかんな」と、特別運行した被爆電車にも乗り、福島さんの実家があった(平和公園のドーム川向かい)など平和公園フィールドワーク、そのあと資料館会議室でおこなった学習会にも参加した。

兄は被爆後、避けてきた「場所」へ初めて踏み込んだのかもしれない。後日、「福島君の話は率直な語りで、よく伝わっていた」と、これも意外な感想をのべていた。

その秋に、「こういうものを書いてみた。人に見せるつもりはないが、一応お前は読んでおいてくれ」と、『私のヒバク』という、この一文を渡された。その半年後に、福島第1原発の大事故が起こる。兄は「政府、東電、テレビ発表は嘘だ。あれは原爆と同じ。大変だ」と危機感を顕わに、毎日のように私にメールを送ってきた。

翌年2011年の夏に、兄は急に亡くなった。被爆と核問題について報道を続けてきた中国新聞社(広島市)に勤め、文章を生業にした人が66年の後、わずかこれだけしか残さなかった。「人に見せるつもりはない」と渡されたが、他界し10年を過ぎたこともあり公表することにした。(竹田雅博)

ウィキペディアから、被爆直後の広島市。上の真ん中が竹田昭義さんが被爆した鶴見橋。その向こうが比治山です。手前のTの字の橋が原爆投下の目印にされた相生橋。今もTの字の橋が架かっています。

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今の鶴見橋。私が行けるのは夜なので。いつも自転車でこの橋を渡ってマツダスタジアムにカープを見に行きます。

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鶴見橋を渡った所に被爆したしだれ柳があります。今も頑張って生き続けています。

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こんなのが橋にかけてあります。

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文を転載します。

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竹田昭義さん、竹田雅博さんに感謝します。

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竹田昭義さんの手記②

竹田さんのお兄さんの手記の続きです。実は、この手記は2020年に一度掲載しています。しかし、途中まで。全文ではありません。なぜ途中でやめたのか、その理由をはっきり覚えていません。おそらく、お兄様の妻のがんの闘病などが書かれているため、5年前にはまだ遠慮したのではないかと。ここでは全文載せます。


父母も時々、様子を見に来てくれていた。「時々」とは、父母が冷たい言い方のように聞こえるかも知れないが、実はそうではない(注1)。原爆投下の日、私の弟も中学1年生(廣島県立第二中学校=現・観音高校)で建物疎開作業に動員され、爆心からわずか500メートルの中島新町にいた。父と伯父がたぶん2日後から、ほとんど毎日焼け跡を捜し回っていたのである。やっと本人の弁当箱を見つけ、遣骨代わりにとその辺りの砂を詰めて持ち帰ってきた(この弁当箱は、父が高齢になった後、私が原爆資料館に寄託した)。弟は級友の実家である舟入町の唯信寺までいっしょに逃れ、2日後の8日、苦しい息の下「天皇陛下万歳」と叫んで絶命したという。この事を知ったのは、随分あとになってからであった。本川沿い2中の慰霊碑には、弟を含め全滅した2中1年生、3百数十の名前が刻まれている。


寝ていると、8月15日に祖父が「日本が負けた」と慌てたように帰って来た。まさかそんな事が…絶句。寝床の中で涙がとまらなかった。


そうこうして夏も終わりに近づき、9月に入るころには、やけども少しはよくなり、何とか寝床から起きあがることができるくらい身体も回復してきた。そこで父の郷の根野村(いまは安芸高田市八千代町=私の現住地)に移ろうという事になった。大八車に布団を敷いて寝かされ、ジリジリと陽が照りつける中、舗装されていなかった現在の国道54号線をゴトゴト十数キロ、3時間半ばかり運ばれた。痛いのと、暑いのと眩しいのと、頭がぐらぐら揺れるのが辛かった(注2)。


 秋になると、ようやくやけどの治療をしなくてもよくなり、外に出て歩けるようになった。学校に連絡をとると、校舎はもちろん焼失。翠町の寮に詰め所があるのが判った。やっと寮を訪ねる事ができたのは、もう年末近かった。「江波町の旧陸軍病院で授業を再開している。明日から出て来い」という。住む所もないのに、ちょっと待って下さいと返事、その日は帰った。年が明けて、皆実町にあり焼け残った縁類の家の2階が借りられる事になった。それも骨組みだけの吹きさらし、雨戸、障子、ガラス戸もなし。その辺りに散らばっていた障子、ふすまの使えそうな物を集め、一間だけどうにか住めるように囲った。江波の仮校舎もひどいものだった。もちろん窓ガラスなし、寒風が通り抜ける冬、あるだけ着込み授業に出た。その後、父兄の方が風船爆弾用の紙(割合い丈夫なものだった)なるものを手に入れ、ガラス代わりに張ってもらい少しは寒さ凌ぎになった。


どのくらいたってからだっただろうか、廃墟だった元の雑魚場町の跡地にバラック校舎が再建され、ようやく、まずまず普通に学校生活が送れるようになった。有り難かった。


ゲンバクは悲惨だ、残酷だという。確かに、いままでにない大量殺戮兵器である。原始以来、最初はこん棒、石斧だった武器は時代と共に進化し、刀や槍、鉄砲、大砲、毒ガス、爆弾、焼夷弾となり、ついには原爆、水爆を生んだ。ただ、大量殺戮が必ずしも残酷だとは言えまい。原爆で死ぬのと刀で一寸刻みにされるのと、どちらが残酷なのか。本人や見る人の主観であると言えないか。どっちにしても当人にとって死という事に変わりはない。


私は80歳になる今日まで、原爆の事を思い出すのも、語る事も嫌だった。まして記述するなど考えた事もなかった。確かに特異な体験には違いない。「もったいない。核廃絶のために、ぜひ」との声もかかった。なぜ嫌なのか本当は私にもよく判らない。たぶん、あまりにも悲し過ぎるのか、どれだけ話しても到底言い尽くせないと思うからなのか。二つとも違うような気もする。


それがどうして記述する気になったのか、白分の事なのにこれもよく判らない。誰に見てもらおう、読んでもらおうというのでもない。


15歳のあの時、弟と同じように死んでいても何の不思議もなかった(注3)。以降は余生、オマケの人生だと思ってきた。「エエ格好をするな」と言われそうだ。しかし、そんなに気張っているつもりもない。それにしても80歳とは、長いオマケだ。そろそろオマケにも限度を感じ出したからかもしれない。ゲンバクは自分にも一生封印するつもりだった…。


私の妻も「被爆者」だ。当時は高等女学校の生徒で、広島市の東端の家から西端の学校へ汽車と電車で通学していた。8月6日、原爆が投下された時、幸い既に市の中心部を通り抜けていた。学校に着いたら広島が壊滅、当然その日は学校に足止めになった。翌7日、家の近い者同士まとまって帰宅しようという事になった。そのためにはどうしても爆心地を通らなければならない。妻の話では、爆心200メートル以内ではないかという地点を通過している。そして二十数年前に右乳癌、右甲状腺癌を相次いで発症、どちらも全摘出した。その影響もあって、いまもいろんな障害に苦しんでいる。


現在は両癌に対して、積極的な治療はしていない。喜ぶべきことではないが、いまの基準であれば当然原爆症認定患者。二十数年間苦しんで来たのをどうしてくれると、先般認定申請を出した。結果は見事却下、認定されれば手当が出る。手当をいただけるなら、正直欲しい。だが、それだけで言っているのではない。発症の時期で、何でこんな差別があるのか、まったく理解できない。


私がいま、一番怖れているのは子や孫への影響である。実は最近、そうなのかなという兆候があった。自責悶々、やりきれぬ思いである(注4)。


私も世の中、身の回りみんな平和でありたい。そうでなくてはいけないと思う。微力だが平和に貢献出来れば尽くしたい気持ちもある。私は少しヘソ曲がりなのか(少々どころか)。現生人類発祥から約5万年、いやそれ以前からも争い事が絶えたことはなかっただろう。その度にみんな平和を願ってきたはずだ。それがどうして性懲りもなく繰り返えされるのか。『ゲンバクは違う』と言う。果たしてそうか。この過ちは二度と冒してはならない、核廃絶、恒久平和のため語り継がなくてはならない。今度こそは、もう全人類の滅亡だ。それはよく判る。


その一方で戦術核がどうの、戦略核がどうのと真面日に議論されているのも事実。総すくみで核戦争は、そう簡単には起こせまい。しかし対戦車用の劣化ウラン弾なら、大国が平気で使った。核爆発でこそないが、放射能の微粒子を大量にまき散らし、敵、味方、一般市民にまで障害が出た。某国、某集団がヤケクソで核爆弾を使う恐れはないと断言できるのか。いったい誰が『ゲンバクは違う、二度と起こさない』と保証できるのだろう。すべて虚しい。とても悲しい。ゲンバクは思い出すのも嫌だ。


(たけだ・あきよし 2010年8月30日、記/1930年8月5日生まれ、2011年8月13日没。81歳)

本文中に出てくる上の弟さん、二中の一年生で爆死しされた竹田雅郎さんのお弁当箱です。これは、2013年に原爆資料館に行って見せていただいた時に私が写真を撮りました。

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見せてもらいに行ったのは、竹田さんと沖縄の知花さんと平和の夕べの中村周六さんと私。知花さんと中村さんの二人のお坊さんの対談をして頂いた時です。

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明日、竹田さんの解説を載せて終わりますね。


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竹田昭義さんの手記①

「8.6ヒロシマ平和の夕べ」のスタッフのおひとり、竹田さんがお兄さんの手記を配って下さいました。竹田さんの二番目のお兄さんは、広島二中の一年生で、全滅したそのお一人ということは知っていました。彼のお弁当箱は、資料館に寄贈され、私たちも見学に行きましたが、大切に保管され、時々資料館に展示されています。少し前に展示されたのですが、今もそうなのかどうかはわかりません。

 上のお兄さんのことについては、広島一中の生徒でひどい被爆をしたけれど、生き延びられたこと、でも、一切自分の被爆については語らなかったと。そのお兄さんが突然手記を書き、竹田さんに託し、そして一年も経たない内に亡くなられたと。

 その手記を初めて読ませて頂きました。淡々と整然と書かれた中に、悲痛なメッセージが入っています。これはもったいない、もっと多くの人に読んで頂きたいと思いました。竹田さんの許可を得て、ここに転載させて頂きます。


「私の、ヒバク」 思い出すのも嫌だ             竹田 昭義(故人)


1945年8月6日、午前8時15分(これは後から知った事で、その時は正確な時刻の認識はない)突然、バリバリバリという轟音と、何もかも一瞬見えなくなる強烈な閃光を左前方から感じた。熱いーッ、と思った時、もう頬の皮膚がベロリと縮れて垂れ下がっていた。


空襲や爆撃があった時は「指で目と耳を押さえ、地面に伏せろ」と教えられていた。とっさにその通りに行動、次の瞬間、地面をずるずるーッと数メートル引きずられた。爆風のためか、立ったままだった友人は京橋川まで十数メートル跳ばされたと、あとになって聞いた。


当時、私は旧制の廣島県立第一中学校(現・国泰寺高校)3年生。前日5日に15歳の誕生日を迎えたばかりだった。8月6日は建物疎開(焼夷弾攻撃による類焼を防ぐため、一定地帯の建物を壊す)の作業に動員され、爆心から東南へ1.5キロの鶴見町にいた。原子爆弾が炸裂したのは、作業はまだ始まらず整列して先生から注意事項の説明を受けていた時だった。


しばらくして目をあけると、煙と埃か1メートル先も見えない。さっきまで一緒に整列していたはずの友人たちの姿もない。逃げなければと立ち上がり閃光の反対方向と思われる鶴見橋を探すと、何とか見つかった。だが粉塵で向こう岸が見えない。鶴見橋は、当時は木橋。途中で壊れ落ちているかも知れない。しかし、渡るしかないと意を決し、すすむ。幸いこの時、橋はまだ無事だった。電車通りを横切って比治山へ登った。登るにつれて粉塵から上に出た。やけどは頬だけでなく左耳、首、肩もやられていると気づく。当時廣島一中は、校則で夏でも長袖の冬と同じ服。その肩が焼けて破れていた。胸に墨で名前を書いた白布が縫いつけてあったが、黒い名前の部分だけ焼け落ちていたのが奇妙だった。


比治山から見下ろすと広島市内は粉塵の底になり、どうなっているのかまったくわからない。その中からゾロゾロ、ゾロゾロ人が登ってくる。作業着、カーキー色の服、女子学生の白いセーラー服(下は、もんぺ)。皆それぞれ、やけどやケガ。中でも女子学生は無残だった。半袖の服がぼろぼろになり、髪や腕、胸まで焼け爛れた人もいた。まるで亡霊のような姿が粉塵の闇の中から次から次へと現われて来る様相は、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』と重なって思えた。


 反対側の段原(だんばら=町名)に降りると、そこは別天地だった。山の陰だったためか、家々もほとんど無事のようだった。そこから下宿させてもらっていた広島駅方面、尾長町の叔母の家に向かってひたすら歩いた。


叔母の家にたどり着いたのは、何時ころだったのかよく憶えていない。私の部屋は2階。重傷を負っているのに、なぜかとにかく“虎の子”のカメラ(そのころは貴重品)が気になった。やけどで熱が出始めていたが、何とか2階へ上がろうとした。しかし、階段に壁が崩れ落ちており、諦めるしかなかった。


そのうち市の中心部から火の手が迫ってくる。消火の水も人手もなく叔母と3、4歳だった従弟、私の3人が近くの広場にゴザを敷き、近所の人たちと一緒に家が焼失していくのを、ただ茫然と眺めていた。そのころにはとっぷり日も暮れ、ゴザの上で一夜を明かした。誰かがくれたトマトが、やけどで火照った身にとても美味かった。思えばこの日、被爆後まだ何も口にしていなかったのだ。


翌8月7日、叔母が矢賀駅まで行けば芸備線に乗れると、どこからか聞きつけて来た。40キロほど離れた高田郡吉田町に叔母と私の母の実家があり、何とかそこまで行こうという事になった。矢賀駅まで1キロくらいだったか、とぼとぼと歩いて向かい、ようやく満員の汽車に乗ることができ吉田口駅に着く。そこから母の実家までは約7キロ、やけどで熱があるのに炎天下を歩くのが、とても辛かった。


途中通る吉田町の中心部に病院があるのを知っていた。「叔母さん、ぼくは母の実家まで行かんと、吉田病院に入院させてもらう」と叔母に言った。しかし、病院に着いて驚いた。私などよりもっとひどい、全身焼け爛れた人がトラックでどんどん運び込まれているではないか。もちろん病院には入りきれず、前庭で力なく蹲くまったり、寝かされたりしている。仕方なく、やはり母の実家に身を寄せる事になり、また歩いた。


祖父母たちが、やけどで腫れ上がった私の顔を見てびっくり。すぐに寝かせてくれ、蚊帳も吊ってくれた。蚊よけよりも、やけどに蝿がたかってウジが湧かないようにするためである。お陰で同じ場所で被爆した友人たちより、あとあとケロイドが比較的に軽くてすんだ。


蚊帳の中で寝ていると、祖父母たちのヒソヒソ話が聞こえてくる。「誰々さんが広島市内に被爆した知人を捜しに行き、帰って3日目に亡くなった」などと言っている。私に聞かすまいと気を遺っているのがよく判る。しかし、そんな話が毎日のように繰り返されるのである。どうしても耳に入る。事後に市内に入った人でも、そうだ。まして私は直爆、もう助かりようはないなと覚悟した。自分でも意外なほど冷静に、先生や友人に遺書を書いて枕の下に置いた。(明日に続きます。)

竹田昭義さん

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今日は針仕事。

今日の夜は久しぶりの針仕事。何かを作るというほどのものではなく。作ったのは、単なる紐ですが。

 もう何年も前、広島そごうでの「伝統工芸展」だったか、日本の職人展だったかで購入した宮城県伝統的工芸品である若柳地織りの綿入れ?なんて呼ぶのでしょうか、室内着?ちゃんちゃんこ?お気に入りだったのだけれど、片方の紐が切れて、その紐がなくなってしまいました。切れた紐があれば縫い付けるのだけど、どこで切れて、どこでなくなったのか、さっぱりわからずでした。腕が自由になるし、背中があったかで、作業をするのにも快適でした。紐がないと着れなくって残念で。

 ここの所急に寒くなって、あの綿入れが着たいなあ、でも紐が切れてて。いつかまた伝統工芸展があったら、若柳地織りの人が来られるだろうから、そしたら直してほしいと言ってみようかとは思っていて。でも前回お会いした時に、確か、今、もう縫う人がいなくて・・」と言われていたので、来られるかどうかわからないし。でも、着たいから何とかしなければと。


 そして、今日、ふと思いつきました。紐をつくればいいじゃんと。同じ生地はなっくても、似たような生地だったら。早速端切れを引っ張り出しました。多分千代田の道の駅かどこかで買った端切れです。何にするというでもなく、端切れが好きで、見つけるとよく買っています。その中に、赤と黒で、イメージが合う生地があったので、それで。同じ生地は望めないけれど、まあ、こんなのを着て外に行くのは、お風呂に行く時くらいのものですら、似ていればいいのです。

ちくちくしながら、孫のことを思っていました。孫ちゃんが小学5年生くらいだったと思います。ママが靴下に穴が開いたのを、縫って直す方法を孫ちゃんに教えたと笑って教えてくれました。私、感動しました。いい子育てをしているなあと。確かに、昔は破れた靴下は縫ってまた履いたものです。でも、今は私は穴が開いたら捨てています。

 ちくちくと手縫いで、出来上がったのが、これです。

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ね、おかしくないでしょ?何せ、この貴重な綿入れがよみがえったのがうれしくて。どうしてこれまで気づかなかったのでしょう。

 私も孫を見習わなくっては。で、その一号でした。


 


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