AYさんのエッセイの続きです。
昨日の、AYさんのエッセイの続きです。
手紙を読み終え自分の席に戻ろうとすると、N先生が、顔をくしゃくしゃにして、
「あれら家族はな、お父さんお母さん皆、朝鮮人なんや。Mも在日朝鮮人の子供や。あの暗い炭鉱の坑内で、カンテラ一つでもって、坑内の最先端で、Mのお父さん、働いとったんや。事故があって、いつも死んでいくのは彼等朝鮮人の人達なんや。」と、話出しました。
突然の在日朝鮮人の話で、当時の私には、
その歴史的背景と事実を含め、理解できませんでした。しかし、講堂での卒業式を終えて教室に戻り、先生が、黒板の上の額縁に書いてある「批判」という言葉の意味を、皆に話したことを思い出しました。
「ものの見方、考え方にはいろいろある。
批判という目をもって考えてみることも必要です。」と。今思えば、先生の私達への最大の「贈る言葉」でした。
そして先生からM君の住所を書いたメモ用紙を渡され、「手紙でも出してみらんか。」
「はい!」と、大きな声で返事をして、
私は、小学校を、あとにしました。
中学校へ入った私は、ギョロ眼のM君との文通を期待し、手紙を書いていましたが、彼からの返事はありませんでした。私も慣れない中学校生活に追われ、彼のことが頭の中から消えかかっていた時、郵便局から「ある通知」が、届きました。「貴方の出された郵便物は、宛先に該当される方はおられません。」という趣旨。「なんや、これは?あいつ何処へ行ったんか。そうや、N先生の所に行ってみよう。」。
暫くして先生から連絡がありましたが、
その声には、何時もの元気は無く、
「調べてみたが、消息は分からん。石炭産業は不況のどん底、採掘止めて他の仕事に、
夕張から出たかも知れん。美唄、歌志内、石狩、あの時別れたみんなとも連絡を取って貰ったが、中学校も、どこへ行ったか?」と。
肩を落とした先生の姿が浮かぶと同時に、
私は、「ギョロ眼のM君が、ボタ山で石炭屑を背負っている姿や、俺は長男だからと、お母さんや妹弟の面倒を見ている様子」を思い出し、想像していました。
この中学校時代で、私とM君との時間は止まります。このお話、回想もこれで終わるわけですが、やはり彼は、「私の記憶」に、残る人でした。
あれから50年、半世紀が経ちました。
M君!今でも鮮明に覚えています。あのお別れ会での教壇上の姿、そしてシミのついたあの手紙、これらが貴方との最後の「接点」となりましたが、君は私に大きな「宿題」を残してくれました。
この間私は、貴方を追い求める中で、書物、写真集、歴史資料館を通じ、在日朝鮮人問題や炭鉱の歴史を描き告発する画家:「山本作兵衛」、そして作家:筑豊文庫「上野英信」との出会いもあり「いろいろな見方、考え方」を学び、行動する機会が、ありました。
そして今、M君家族を含めた在日朝鮮人の歴史検証の一つとして、彼らの「無縁仏」をテーマに、筑豊、北九州を歩き写真を撮り続けています。ある写真集に、以下のようなタイトルがつけられています。「人間の山」「大いなる火」「カンテラ坂」「六月一日」「アリラン峠」「地ぞこの子」等。
日本近代史にその負の影を落とした朝鮮人労働者の問題、人命を奪い続けた炭鉱災害とその離職者達の苦闘。
しかし、その悲しい暗闇の中に唯一の光、
運命共同体としてあった子供達。これらの点を、赤い糸で結んでくれたギョロ眼のM君。「記憶」の中の君は、「記録」を残す宿題を、私に与えてくれました。
そして何時も私達を優しく見守ってくれ、背中を押してくれたN先生。
私は、国籍、民族、宗教を超えた人間の繋がり:共同体を、「友達」という言葉の中に求めていきたいと考えています。完
8月の終わり、北海道「笹の墓標強制労働博物館」に行ったとき。幌加内町朱鞠内湖畔にこんな碑が立っていました。ここにダムを作るための強制労働で、多くの方が命を落としたところです。マイナス41.2度を記録した所です。
どんなにか寒かったことでしょう。あの頃ですから、暖房も、着るものも、ろくな食べ物もない中で。想像を絶します。AYさんの文章のM君と、博物館にあった強制労働させられている人たちの写真が重なります。
今年の北海道のテレビで、こんな放送をしています。(安藤先生に送って頂いた動画からです。)
AYさん、転載させていただいてありがとうございました。胸に重く響いた文章でした。ここに転載することでもっと多くの方に読んで頂ければ幸いです。感謝します・・。
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