2025年「8.6ヒロシマ平和の夕べ」②平和講演1市田真理さん
今年の「8.6ヒロシマ平和の夕べ」の平和講演はお二人にお願いしました。市田真理さんと青木理さん。今日は、そのおひとり、市田真理さんについてお話します。わたしたちのフライヤーに書いていたのは、次の文章です。
平和講演Ⅱ市田真理さん「記憶を開く第五福竜丸」
東京都立第五福竜丸展示館・学芸員。同館の企画展示、教育普及などに尽力。第五福竜丸平和協会事務局長。札幌生まれ。1954年3月1日、アメリカが初の水爆実験(広島原爆の1000倍、15メガトン)。マーシャル諸島の島々、住民、操業中の多数の漁船、漁民に『死の灰』が降り注いだ。第五福竜丸は乗組員23人が被ばく、久保山愛吉さんらが亡くなった。「船は記憶を開き共有させ、核廃絶の想いを新たにさせる」
若き市田さんのお話は、素晴らしいものでした。良く勉強していらっしゃるし、正確な資料を提示し、会場とのやり取りをしながらの話術もすごい。みんなうなったと思います。
当日市田さんが配って下さった資料から。第五福竜丸や久保山愛吉さんのことは漠然と知っていましたが、今回初めてしっかりと教えていただきました。


第五福竜丸の被爆とその後の署名運動の高まり。そして、学芸員をなさっている第五福竜丸展示館に配備されている船。その保存のきっかけについても。夢の島のごみの中に埋もれていた第五福竜丸を「沈めてよいか第五福竜丸」と朝日新聞に載った投書がきっかけに保存運動がおこりました。その投書主はその後40歳の若さで亡くなっています。訃報の中にその投書のほぼ全文が載っています。

以下、市田さんの講演録をスタッフがまとめたものです。長いので、二回に分けて。短くしようと思いましたが、どこも削られない。どれも必要なものばかりなのです。
◇平和講演Ⅰ 市田真理さん
「西から太陽が昇った」
第五福竜丸展示館(東京)には、全国から年間10万人ほどの訪問者がある。遠洋マグロ漁の木造船だった福竜丸は、1954年3月1日、南太平洋ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験(原爆の数百倍の威力)により、160キロの海域で放射性降下物「黒い雨」「白い粉塵」を浴び、乗組員23人が被爆した。
乗組員は「西から太陽が昇った」と驚いたという。マーシャル諸島は、戦前は日本が「委任統治」という支配をしていたところ。アメリカは、「世界と人類の平和のために、ここは核実験場になる。みなさんは避難してください」と住民に告げた。
その後、船は東京水産大の練習船に使われ、廃船となり東京湾に係留されていたが、「再び原水爆による惨事が起こらないよう」祈念し、展示館が建設された。市民が声をあげ、「1967年に原爆ドームの保存が決まったように、水爆実験による被害を記憶し、二度と起こさないために」と、保存されることになった。募金や署名も集められた。来年、50年になる。
2000回もの核実験
1945年7月に原爆を製造・実験し、8月6日、9日に広島、長崎に投下した。その時点では、核兵器はアメリカの独占物だった。ところが、すぐに旧ソ連が開発、製造し追いついた。さらにイギリスもつくった。その後、フランス、中国、朝鮮ほかが実験、保有するに至る。
世界は、2000回もの核実験を行なってきた。その「実験」の1回、1回は、ただの実験ではなく「核兵器を使用した」ということだ。
カツオ、マグロは、当時は高値がついた。アメリカの実験を知らずに、第五福竜丸は南太平洋の漁場に出かける。「延縄漁」~長い縄に針をたくさんつけ、何十キロも流していく。流すのも、引き上げるのも何時間もかかる。その漁のために、マーシャル諸島周辺まで出かけていった。
1954年3月1日の未明、まだ薄暗く水平線が見えるか見えないかのころ、乗組員の大石又七さんらが長い時間をかけ縄を入れ終わり、ひと休みしていたとき。突然、周りが光った。まるで「西から太陽が昇った」ようだった。「なんだ!西から太陽が昇るか!」と、みんな不思議に思った。大石さんは、何度も中高校生たちに証言してきた。生徒たちが「何色でしたか」と聞くと、「空が真っ赤に染まり、大きな夕焼けのようだった」と話していた。
巨大なきのこ雲、黒い雨、白い粉
「なんだ、なんだ」と言っている間に、空は黄色になり、また白く戻っていった。次に「ドドドドッ」という地鳴りのような音が来た。光を見てから音まで8分くらい。ピカッ、ドーンという距離感ではなかった。それを計算してみると、約180キロ、ほぼ東京~静岡間になる。広島からだと岡山くらいの距離、相当離れている。だから熱線を浴びる、爆風で吹き飛ばされることはなかった。
ところが、きのこ雲が崩れそれが「ワーッ」と追いかけてくる。雲が、空いち面に拡がり、雨が降ってきた。「黒い雨」と同じ現象だが、この時は「白いもの」が降った。やがて雨はあがったが、「白いもの」がパラパラと振ってきた。目に入るとチクチクし、はちまきをしている人は耳のところに溜まる。みんな「あー、仕事しづらいな」と言いながら、延縄を揚げた。
「怖かったですか」という質問に、大石さんらは「なんだ、これは。仕事がしづらいな~」と思い、口の周りに付くと舐めたりしたそうだ。熱くもない、味もない。みんな怖がることはなかった。3時間も「白いもの」を浴び続けた。もし危険とわかっていたら、逃げたり救助を呼んだりしただろう。
現在、展示館には船から回収した白い粉が、小さな瓶に入れて保管してある。その「白いもの」はサンゴのかけら。ビキニ環礁は29の島がある。環礁はサンゴ礁のこと。遠浅に環礁が幾重にも輪になっている。広島型原爆の1000倍という水爆の爆発により、海といっしょにサンゴ礁が砕かれ巻き上がり、それが降ってきた。それは、後に「死の灰」と言われた。ただのかけらではなく、放射性物質を含んだ欠片、粉塵だった。
乗組員に起こった異変
たまたまサンゴのかけらに付いたから視認できたけど、もっと細かい塵状のものは知らないうちに吸ったり、食べ物や水に含まれ食べ飲んだだろう。福島で講演をさせてもらったとき、どうしてもこのことを言えなかった。「被害はない」という専門家の見解もあるが、「では安全」とは誰も言えない。何世代にもわたって影響があるかも知れない。
焼津に帰ってきた乗組員たちに、異変が起こる。「なんか、ご飯がまずい」とか、「頭が痛い」とか。何日か過ぎると、「白いもの」が付いたところが黒ずんできた。1週間、10日すると髪の毛が抜ける。2000~3000mSVを受けたであろう人たち。広島に置き換えると、爆心800メートルくらいに相当するのではないか。
光を見て死の灰を浴びたのは、第五福竜丸の人たち、日本人のことだけではなかった。ビキニ環礁の人たちは「強制移住」させられた。ところが、第五福竜丸と同じくらいの距離にあったロンゲラップという環礁の人たちも、そうだった。子どもたちは「白い粉」が珍しく、競って集めたりした。そして「目が痛い、ピリピリする、黒ずんでくる」同じことが起きた。
明日に続きます。
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