2025年「8.6ヒロシマ平和の夕べ」①豊永恵三郎さんの被爆証言
被爆80年の「8.6ヒロシマ平和の夕べ」の被爆証言は、豊永恵三郎さんにお願いしました。だんだんと証言して下さる方が少なくなっていますが、これまでこの会では、証言して頂いたすべての方が、被爆の惨状と共に、その後の厳しい闘いを語って下さいました。そして、豊永さんもそうでした。ご自分の被爆と、その後の在外被爆者の支援とその両方を語って下さいました。
ご自分とご家族の被爆。被災地図を指さしながらお話して下さいました。
豊永さんは、沸き上がるキノコ雲の中に、ルーズベルトとチャーチルの顔が見えたと言われます。
中でも傷ついたお母さん、やけどで顔がパンパンにはれ上がって、目も見えないように。幼い弟が、つぶれた家から、母親に火事が来る、火事が来るといっても、お母さんは見えない。そこに近所の方が、ここも焼けるから、ここにいてはだめだと言って下さって。弟が母親の手を引いて広場に逃げたと。そこへ、お爺さんと豊永さんが二人を探しに行って、大声で呼ぶ声に、弟がここよーと言ったと。お母さんはどこにいるのかと聞くと、これがお母さんだと弟が指さしたと。そのシーンを基町高校の生徒が書いた絵です。
その後の貧しくて厳しい生活も、本当に大変で。高校卒業時、母子家庭の子になかなか就職が決まりません。そこで、お母さんの進めで大学に行くことにして、広島大学に合格したと。大学卒業後は、高校の教師になります。そして、韓国に行った時に知ったのが、韓国人被爆者の姿でした。そこから、豊永さんの在外被爆者、特に韓国人被爆者の支援が始まります。
豊永さんは、在外被爆者の特に裁判支援をずっと続けてこられました。その裁判の数々を、ここに乗せています。
http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2025/05/post-22876e.html
当日は、これらの中から孫振斗さんの三回の裁判など、いくつかの裁判について、具体的にお話し下さいました。
よくこれだけの裁判の支援を!!と頭が下がります。そのほとんどが勝訴です。でも、言ってみれば、これだけ裁判をしなければ、外国にいる被爆者には何の支援もされなかったということですね。豊永さんに頂いて、当時参加の皆さんにお配りした資料をここに載せますね。

これらの中に、日本と私たちが行ってきた差別がつぶさに語られています。
豊永さんは、私たちが無自覚であったことをしっかりと知らせて下さいました。
もう、豊永さんは90歳。前立腺がんと胃がんを患いながらも、まだまだ精力的に修学旅行生や要請された数々の場で語り続けて下さっています。深く感謝いたします。
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