2025年「8.6ヒロシマ平和の夕べ」③平和講演1市田真理さん(続き)
「8.6ヒロシマ平和の夕べ」の市田真理さんの平和講演録、昨日に続きます。
「第五福竜丸事件」ではない
だから、私たちは「第五福竜丸事件ではない」こと、少なくとも「ビキニ事件」というか、さらに他の海域でも実験が行われたことも忘れてはならない。「第五福竜丸」について話しましたが、第五福竜丸事件ではないことをわかってほしい。
焼津に戻った船からは、マグロなどが市場に出され流通した。当時の新聞記事に「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」とある。それまでアメリカも、日本政府も「実験に巻き込まれた」ということを認知していなかった。さらに誰よりも驚いたのは、第五福竜丸の乗組員たちだった。映画『第五福竜丸』(新藤兼人監督)には、そのシーンがある。
マグロは市場に出され、東京築地市場では全頭検査を行ない、「放射線を確認」し、処分している。広島の人たちは、いつ知ったのだろうと、調べると中国新聞に出ている。その後、全国の市場で全頭検査が行われることになった。「原子マグロ、原爆マグロ」と呼ばれ始めた。
魚が貴重な蛋白源だった時代、魚が危ないと言われ、延べ約900隻もの漁船が、魚を廃棄することになった。こうしたことからも、「第五福竜丸事件」ではないことを知ってほしい。魚だけではなく、こんどは普通に降る雨からも放射能が検出される。日本では各地の雨を計測しているが、じつは世界中の雨が汚染されていただろう。雨は田んぼに、川に、湖に降り流れる。それは食べ物にもということになる。
全国から起こった「原水禁」署名
教科書には、「原水禁運動が杉並の女性たちから」とあるが、これも杉並だけではなく、全国各地で始まっている。展示館で保管している、いくつもの署名簿は、表題も大きさもばらばら。「原水爆禁止要求署名」「請願署名」「原水爆戦争反対」もある。市民が、やむにやまれぬ気持ちで始めたことがわかる。
当時、日本の人口は約8000万人。3200万筆の署名が集まった。そのうち広島県民は、110万筆だった。杉並の場合は区議会に請願、決議。そして「原水爆禁止」のワンイッシューで多団体共闘、集計に至っている。いわゆる杉並モデルになった。「発祥の地」と言われる所以は、そこにある。
広島の場合は、少し違った。「ビキニの人たちだけが言われるのはおかしい」「広島の被爆者は10年後も、こんなに苦しい思いをしている」「国際社会に広島の現状を伝えたい」という趣旨になっていた。「百万署名」という目標を掲げ、それを達成したのも、広島も女性たちが中心になった。当時8月5日に89万筆だったのが、20日には100万を突破した。3000万筆を超える署名が、国連総会に提出される。
「私を最後にしてほしい」
1955年8月、広島で第1回原水爆禁止世界大会が、翌年には長崎で開かれた。それまで「プレス・コード」で知られなかった「原爆の実相」「被爆者の苦しみ」も、世界に届くようになった。1956年8月には、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の結成に至る。それを後押ししたのは、原水爆禁止を願う市民の力でもあった。
ビキニ環礁でアメリカの水爆実験に遭い、半年後に東京の病院で死去した久保山愛吉さんが、「原水爆の被害者は、私を最後にしてほしい」と言い残し亡くなったことを忘れないでおきたい。私たちは、展示館を訪れる子どもたちに、この言葉をかならず伝えるようにしている。願いは、まだ叶っていない。
最初に書いたように、市場さんの講演を聴いて、「ヒロシマ・ナガサキ」だけではない、世界中に被爆者はいるということが改めてよくわかりました。さらに、福島県の原発事故による被ばく者も。核兵器だけではない、核兵器に容易に繋がる原発も含めて。これから「核」による被ばくをなくすためには、再度森滝市郎さんの「核と人類は共存できない」という言葉の実現を目指すことが必要なのだと、決意を新たにさせられたとの思いでいます。
なお、当日市田さんの著書、二冊を販売しましたが、どちらも速攻売り切れたことをご報告しますね。
市田さんは、次の予定があって講演が終わると、すぐに会場を後にされました。ほんとうにお忙しい中をわざわざ広島に来ていただいてお話し下さってありがとうございました。会場のみんなに勇気を与えて下さいました。ひたすら感謝します。まだまだ若い方たちにお話を続けて下さいね。
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