小坪則子さんのお通夜、お葬式
一昨日小坪則子さんが亡くなって、昨日お通夜で今日がお葬式で、三日間斎場に通いました。小坪さんはとても面倒見のいい人だったので、たくさんの方がお通夜にもお葬式にもいらっして下さいました。皆さん、とても驚いて、残念がって、悲しんでいらっしゃいました。私も泣きすぎて、頭がボーとしています。私でさえこうなのだから、お連れ合いやお子さんたちはさぞお辛いと思います。
実は、亡くなった日、斎場でご家族といろいろと準備や打ち合わせをしていた時、葬儀は家族葬だと聞いて、びっくり。他にも来ていた方たちもみんな、小坪さんのお世話になった人たちが後で知ったら、皆さんびっくりして、残念がって、どうして教えてくれなかったのかと悲しむよ、と言いました。で、急遽葬儀場に電話をして、家族葬でなくって、普通の葬儀にして頂きたい旨をお話ししました。お通夜も100人を超える方たちが来られていて、ああ、よかったと思いました。
小坪さんは、かつて衆議院議員時代の秋葉さんの秘書でした。有能で、やさしくて、気も強くて、秋葉さんとはぶつかる時もありましたが、その姿勢は一貫して、秋葉さんを守ることに徹していました。時には、むずかしい交渉をしなければならないこともあって。陰で泣いていたことも。
お母さんは、今でいう助産師さん。両親とも被爆者で、則子さんの一番上のお姉さんを原爆で亡くしています。そのお母さまの毅然とした姿勢のことはよく話してもらいました。被爆からしばらくして、いろいろと病気があって、生きられない赤ちゃんがよく生まれたと。そのたびに、家で白い布で、その赤ちゃんに着せる着物を縫っていたと。赤ちゃんを取り上げても、お金がない家からはお金を頂かなかったら、家の前にたくさんの薪が積んであったとか。取り上げた子が暴力団員になって殺されたら、みんなに止められても、毅然として、私が取り上げた子だからと、暴力団の葬儀に参加したとか。そんなお母さまに育てられた彼女の正義感は半端なものではありませんでした。
それは,住んでいた廿日市市の市長選や市議選にも力を発揮し、皆さんに頼りにされていました。なかかな思うようにいかず、情けないこともありましたが。市議選は、ほんの二か月前のことでした。いまから思えば、体がしんどかったでしょうに。いろいろと支持する候補者の支援をされていましたよ。
やはり三月の終わり、安塚かのんさんのコンサートのために、ものすごい尽力をしていました。舞台一面にLEDのろうそくを置くと。その数をそろえるのに、あっちこっちのお店を探し回って、とうとうそろえたと。あとで写真を見ると、それは素敵な舞台でした。
無茶苦茶明るい人でもありました。済州島に行ったとき、大きなイ・ビョンホンの前で写真を撮ったら、ちょうど小坪とイ・ビョンホンとがキスをしているように写っていて、大爆笑で。その写真を年賀状に使うと言って、お連れ合いに止められたとか。クリニックのみんなと一緒にバリにも行きました。その時、小坪の前にとびっきり大きなロブスターがおかれて、これも大爆笑でした。
というような楽しい思い出も思い出されて。
息子さんやお孫さんに運ばれて。ピンクのかわいいお棺で似合ってました。
私は、これで相談相手を失いました。一緒にどこかに行く人もいなくなりました・・。
葬儀が朝早かったので、午後から「8.6ヒロシマ平和の夕べ」のチラシの発送をしました。つらい時には、こういう単純作業がありがたいのです。
大量にダンボールに入れて自転車で中央郵便局にもっていって発送完了しました!!
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