被団協のノーベル平和賞の受賞について③
ブログに書いた座談会で、池田さんと一緒に友の会に参加し、東京に陳情に通われた「阿部さん」が、昨日のクローズアップ現代に出ていらっしゃいました。97才。でも、当時の事をしっかり話されました。森瀧市郎さんの座り込まれている所等の写真も沢山出たし、森瀧春子さんのお父様のお話しも聞くことができました。やっとやっと・・。
座談会からの転載です。広島県被団協の平和会館の件で、それは今も続くお金の問題ですが。
池田 第一回原水爆禁止世界大会の時に海外から四百五十万円の救援金の寄贈を受け、それで大手町の旧平和会館の土地と建物を買ったんです。それまでは、雑魚場町(現・中区国泰寺町)の教育会館の二階を事務所として借りていたんです。床が板の間でガタガタでしてね・・・。
高橋 その前に、やはり雑魚場町の運送会社の二階に間借りをしていましたよ。当時は分裂前の広島原水協と一緒でしたから。
近藤 平和会館の購入で、やっと自前の事務所を持てたというわけです。
坪井 平和会館の誕生は県被団協の結成より大分後に後になるわけですね。
(略しますが、この後、ソ連の核実験の「いかなる国の核」をめぐって、共産党系の原水協系の人たちが県被団協から出て行き別組織を作って、分裂。その原水協系の人たちから、「平和会館は我々にも権利がある」と裁判の準備を始めたことより、平和会館を県被団協と切り離して財団法人となりました。やがて、平和会館は老朽化で建て替えをしなければならなくなり、そのためにはお金がない。競輪事業からお金を助成してもらおうという話になり、それに森瀧さんは強く反対されます。さらに、平和会館の地下にスポーツジムを貸していたそこから立ち退き料の要求もありました。森瀧先生は直筆の辞任届を近藤さんに預け、火中の栗を拾ってほしいと頭を下げられたと。)
坪井 森瀧先生の考えは「われわれの生き方は崇高でなければならない」ということだったんでしょう。
(略)
坪井 森瀧先生は大変苦労されたようですが、家ではどうでしたか。
森瀧(春子さん) この問題で直接話を聞いたことはないですが、当時はいつも疲れ切って帰ってきてましたね。疲れてぐったりしているのに、電話が次々かかってきまして。今の皆さんのお話しを聴いていると、おそらく父の考えに反対だった人たちからの電話もだったんだろうと思いますが、一時間でも二時間でも相手をしていました。その後でさらに疲労困憊し、ほとんど眠れない状態だったですね。
近藤 総攻撃を受けていましたからね。みなさん、大手町の旧会館跡に建て替えるということにこだわり、カネの工面に頭を痛めていましたから。私は、募金を集めても旧会館跡での建て替えは無理と判断し、現在の(今の一つ前、中島町の)平和会館を選んだわけです。
藤川 近藤さんのおかげでいい具合になり、カネも残せたし・・。
近藤 ありがとうございます。もちろん私ひとりでなく多くの人たちの強力があってできたことですが、いずれにせよ旧会館の売却と現会館の購入火の差額として、立ち退き料を払ったうえに五千万円の残せましたからね。このカネがいま平和会館の基金になっているわけです。
坪井 おかげで基金の利子を平和会館の維持費にあたることができていますがね、ここ数年の低金利に泣かされていますよ。この低金利はどうにもいけませんね。
近藤 ところで、この会館問題でも森瀧先生に理事長を辞めてもらおうという話が出ましたね。ずっーと圧力があったんですよ。被爆者援護法ができないのは、森瀧先生が大原亨さんら社会党系の人を推薦するからだということですね。地元選出の大物政治家のところに被爆者援護法の陳情に行くと、はっきり言うんですよ。「森瀧の首を取ってこい。そうしたら、考えてやる」と。
藤川 近藤さんが言われてようなことはずっーと重なって来ていたんですよ。以前、私と重松さん、下江さんで、宮沢(喜一)さんに被爆者援護法を制定してもらうにはどうしたらよいかを相談に行ったことがあるんです。その時に宮沢さんから「灘尾さんを頭に国会議員を五人集めなさい。五人いれば、二十四、五人の同志を集めることができる。そうすればやりやすいから」と言われましてね。それで、かつて灘尾さんの秘書だった東城町の藤尾七郎町長に面談の時間を取ってもらうようにお願いし、灘尾さんに会いに行ったんです。町村長でさえ、せいぜい十分ほどしか会えないというのに、何とか三十分会えるようにお願いしましてね。結局、四十五分も会ってもらうことができたんですが、灘尾さんは「そうお願いされても、私は森瀧の『も』の字を聞くのも嫌でねえ。何とかならないかなあ。そうすれば話が進むんだが」というんです。それで、帰ってから、理事長を変えないといけない。誰にするかという話になりましてね。ある自民党県議の名前が上がったので、理事会に諮ったところ、理事会の雰囲気が途端に悪くなったんです。「これはいけん」と慌てて取り下げたんですが、そんなことがありましたよ。
近藤 そういう対立はあっていいと思うんです。きちんと処理さえすれば。藤川さんの場合は引き際がよかったですね。
坪井 聞けば、いろいろあったんですね。
藤川 難儀をしましたよ。森瀧さんと一緒に県北に講演に行った時に、森瀧さんはポロリ「あの人が理事長をやってくれればいいんだが」と話していたもんです。もちろん、この話は一切口外したことはありませんが。
この後、被団協の分裂、なぜ二つの被団協が?について、被爆者の思い、森瀧さんの座り込み、そして、反原発の活動について。お伝えしなければならないことが沢山あります。この際だから。もう少し、書いておきたいと思います。この写真はネットから頂いています。分裂の原因となったソ連の核実験に抗議する座り込みです。
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