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被団協のノーベル平和賞の受賞について④

もうずいぶん前になります。ある会、それは広島と原発の事故の後の福島をつなぐ会でした。私は、一参加者でした。そこで、お二人の講演の後、会場から質問が出ました。その方は、被爆者だと名乗られました。

 医療機関で被爆者手帳を使って、医療費を免除してもらっている。でも、そのことを「被爆者だといっても何にもないのに、ただにしてもらっていいね」と言われることがある。とても遠慮なのだけれど、このまま手帳をつかってもいいのでしょうかと。

 それから、もう一人、これは講演の演者でしたが、とんでもないことを言われました。

「広島の運動には「原発」がなかった。誰も核兵器反対とはいっても、原発反対とは言わなかった。元の広島市民球場の後に、廃炉になった原発の炉を置いたら、原爆ドームと原発の炉を並べて、それで広島の運動は完結する。」と。

 びっくり仰天。私は、会場から手を上げました。

「被爆者手帳というのは、お上が、かってにくれたものではないのです。家も焼かれ、体も焼かれ、放射能で体がむしばまれた被爆者たちが、お金もないから、夜行列車で東京に行き、東京駅で顔を洗い、そして国会や厚生省や大臣の自宅や、さまざまな所に陳情に行き、それ何度も繰り返して、やっとやっと成立した被爆者医療法なのです。だから、被爆者の先輩たちに感謝して、堂々と使えばいいのです。やっかみを言う人は、それは恥ずかしい人たちだと無視すればいいのです。

 それから、〇〇さん、広島の運動には原発がなかったと、どしてそんなことを言えるのですか。森瀧さんを初めてして、原発に反対して来た人たちは沢山います。ただ、金と権力をふんだんに使う人たちに対して、運動としては弱かったのかもしれない、だから、いまだに原発も核兵器もなくすことはできないでいます。あなたがその運動を知らないだけです。それを原爆ドームと原発の炉を並べろとなんて、そんなジョークはこんな場でいうべきではないのではありませんか?」

 私は、本当に怒って言いました。彼は、「ジョークではないですよ。森瀧さんね。ふうん」と言いました。もしかして、彼は森瀧市郎さんを知らなかったのかもしれません。森瀧春子さんは知っていたのかも。それで、春子さんと思って、ふうんと言ったのかもしれません。彼は、名前が知られた人で、人気があって、いろいろとあちこち引っ張りだこです。以来、私は彼を大っ嫌いです。

 森瀧さんは、「核と人類は共存できない」と言われました。「核兵器」ではなく、「核」です。初期から核の平和利用に反対し、青森の六ケ所村にも行き、伊方原発の訴訟には、何度も足を運ばれました。「森瀧市郎の歩み―人類は生きねばならぬ」には、1979年4月25日夜、海老園の自宅にてとする日記があります。それは、「四国電力伊方原発訴訟における原告側「準備書面(12)の意味するもの」という長い長い日記です。はじめの部分だけ引用します。

米国ペンシルベニア州スリーマイル島原発で起こった事故の報道は、全世界に大きな衝撃を与えた。私は、三月末から四月初めにかけて、毎日時間のありったけをかけて、この事故の報道に耳を傾けた。
 そして、一年前の四月二十五日、松山地裁が下した「安全判決」にいたるまでの科学的論争を回想しないではおれなかった。科学裁判とよばれた四年余にわたる伊方原発裁判で、原告住民の弁護士・学者が展開した論述・証言の総まとめてもいうべき「準備書面(原告12)」は、その副題の示す如く「伊方原子力発電所の危険性及び違法性のすべて」に渡って体系的に委曲をつくして述べたものである。これは原発論争史上不滅の文献となるであろう。
 それにもかかわらず松山地裁の判決は、被告・国側の言い分を全面的に採用し、原告側の論述証言をいともあっさりとしりぞけてしまった。そして原発の安全性に太鼓判を押してしまったのである。
 私は、悲憤やるかたない気持ちで広島にかえった。その日の日記を見ると、「ガリレオはその地動説の放棄を命じられたが、『それでも地球は動く』とつぶやいた、伊方の人たちも『それでも原発は危険だ』と言い続けるであろう」と書いている。果たして伊方の人たちは高松高裁に上告した。そして進行中である。

(この日記は、ここまでのさらに六倍もの長さです)が、ここでこの引用は終わります。

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また、被爆者の運動には、加害がないと無責任に言う人がいます。1985年、森瀧さんは、被爆者訪中団の団長として、北京、南京、上海などを回り、日本の中国侵略を謝罪するとともに、非核太平洋のための連帯を訴えた。その時の日記です。

「私は南京の謝辞で、虐殺の罪悪を懺悔反省することが反戦・平和運動のもとであること。原爆惨禍の体験が反核のもとであること。反戦・反核の運動にまい進することが償いとなることを訴えた。」この時、森瀧さんは84才。

 89年4月9日には、青森県六ケ所村での「反核燃全国集会」開催であいさつ。核燃基地を包囲する"人間の鎖"の先頭に立ちました。この時、88才。

言うまでもなく、広島には、木原省治さんを中心とする「原発はごめんだヒロシマ市民の会」や、亡くなってしまったけれど、原伸幸さんなど、根強く反原発の運動をつないで来た人もいるし、私たちも「8.6ヒロシマ平和の夕べ」では、福島の事故以前から、反原発の姿勢を貫いてきました。2009年と2011年と2015年には、京都大学原子炉実験所の小林圭二先生、2012年には小出裕章先生にも来て頂いて、原発の危険性などについて、しっかり議論してきました。


〇〇さんが、広島の運動には「原発がなかった」なんて、何を見ているの?と思ったのです。

明日は、小出先生が、広島に来て下さいます。久し振りに先生の講演が聞けます。

しつこいようですが、まだ私は被団協のノーベル平和賞について続けたいと思います。順番が入れ替わってしまいましたが、明日は、被団協の分裂と、被爆者の東京行脚について話します。小出先生のお話しも書かなければ、ですね。忙しいです。 

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