被団協のノーベル平和賞の受賞について②
「核兵器のない明日を願って」の座談会で、池田さんが畑賀で40人近くが集まって被害者の会を作ることができたと話されています。その池田精子さんには、「8.6ヒロシマ平和の夕べ」に、2010年と2016年の二回、お出でいただいて、お話しして頂いています。2016年の私のブログは、ここにあります。
http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/86-1282.html
陳情に鳩山邸に行った時の事、前に出さされて焼けた顔を見て、鳩山夫人が涙をこぼされたと。その時の写真です。
その請願後で組織を作ろうとなったと。それについて、座談会に戻ります。
阿部 参加するのはいたんですが、まだ精神状態が不安定だったので無我夢中でした。阪神大震災の被災者には精神的ケアが必要となどが言われていますが、私ら被爆者は十年以上の間全く放置され、繰り返すようですが、虐げられ虐げられの我慢の連続でしたから、今のように強い人間じゃありませんでした。ですから、会場の暖かい雰囲気に接して、涙が止まらずどうしようもありませんでした。同じ境遇に置かれていた被爆者仲間に囲まれ、涙もろい人間になっていたんでしょうね。
坪井 何か悲壮な感じですね。あの当時、被爆者は本当に悲惨な状況にありましたから同じ被爆者に出会い、溜まっていたものが一気に噴き出したんでしょうね。
池田 本当にそうでした。
坪井 そして、その大会が終わっていよいよ、みんなが集まらなければいけないということで、その年の五月二七日に県被団協の結成となるわけです。この結成には行政も加わったんですよね。
近藤 そうです。県被団協は行政が音頭を取り、全県ぐるみでできました。その後、愛媛県や長野県、福岡県などにも被団協ができ、八月一〇日の日本被団協の結成となったわけです。
池田 被団協の結成は本当にとても嬉しかったですね。被団協に集まるようになって、「生きていて本当によかった」という気持ちになりました。体がだるくてだるくてやり切れなくても、周囲の者からは横着病と言われ、医者に行くと栄養失調だとバカにされて取り合ってもらえない日々でしたから、心を許せる仲間との語らいはほんとうに救いでした。
(少し略します。その被団協が、1960年の日米安保条約をめぐって意見対立が起き、自民系の人たちが飛び出して1961年にいわゆる任都栗(広島市議)被団協を結成してしまいます。保守系の人たちのほとんどがいなくなってしまったのです。)
藤川 そう、こんなことがありましたよ。県被団協が中区大手町の旧平和会館に移って間もないころ、初めて訪ねていこうとした時のことですが、道が分からないので水主町付近の橋の上で通りがかりのおじいさんら三人に尋ねたんです。すると、「あれかい。ありぁ、赤の集まる所よ」と言われて・・・。(略)
池田 本当に「赤」攻撃はすごかったですね、畑賀の被爆者の会は私が作り、会長も務めていたんですが、警察官だった副会長が「池田さんは赤じゃけぇ。あれについていったら、どういうことになるか分からんぞ」と反対運動をおこしましてね。その内に、私が中野に引っ越すことになって、後をその副会長に託したら、さっさと任都栗被団協に入ってしまった。とにかく当時は運動をしていたら「赤」にされてしまいました。実は1988年頃のことですが、あるカルチャーセンターで女性から「あなた、畑賀に住んでおられた池田さんでしょう」と声を掛けられたことがあるんです。全く記憶にない方人なので「どなたでしたかね」と尋ねた所、女性は「昭和32,3年頃、畑賀の駐在所にいたんですよ」と答えるんです。駐在所の警察官の奥さんだったわけですが、三十年近く経っていたのに私の顔をはっきり覚えていたということは、私がマークされていたことの証明です。私のように「赤」攻撃で運動をつぶされたケースは少なくないと思いますよ。
阿部 吉川さんの所に集まっていると、警察官が外をぐるぐる回っていたそうですよ。戸外にあった便所に用足しに行くと、警察官にばったりあったようですよ。
高橋 吉川さんは観光客の前でケロイドの上半身を脱いだりしていましたからね。そして、それがマスコミにバーンと出ましたから。
(略)
藤川 だから被爆者援護を求める請願行動は熱心にやりましたよ。請願のための上京費用は全部自分持ちでね。それで、ほとんどの者が宿泊代節約のために夜行列車を利用して上京したもんですよ。汽車の中で寝て、東京駅で顔を洗って、食事はむすびですませて、そして、そのまま手分けして議員会館に行ったり走り回り、頑張ったもんですよ。
池田 そうでしたね。広島を午後二時発の急行「安芸」というのがあって、翌朝八時に東京に着くんです。駅で顔を洗って、国会に行きましたよね。(略)
池田 私たちは街頭募金にも立ち、カンパのお願いにも回りました。選挙の応援をした町長に助成を頼みに行ったこともあります。私は、町からちゃんと助成金を出してもらいたかったのに、町長は、「じゃー、わしのポケットからだそう」と財布からいくらか出したんです。その時は情けなくて、頼みに来なければよかったと思いましたよ。助成金を出してもらうことに意味があったのに。
実は、「核兵器のない明日を願って」はでかい本です。その本を抱えながら、ここに転写するのは、とても時間がかかります。一気に済ませたいところですが、なかなかです。こうして、私が転写するのは、被団協というのは、一人でにできた物ではありません。結成に苦労された方たちのことを知って頂かないとという思いで。これを一体どれだけの方が読んでくださるだろうかと疑問を持ちながらも、続けますね。ここから、いよいよ森瀧さんを辞めさせろという攻撃になって行きます。また明日・・。
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