被団協のノーベル平和賞の受賞について⑤
昨日は、弁護士会館にて「被爆地ヒロシマが被曝を拒否するー過去は変えられないが未来は変えられるー伊方原発ひろしま裁判いよいよ高裁へ~ノーモア・ヒバクシャひろしま集会~」がありました。小出先生をはじめとして、いろいろな方からの発言、提言があり、とっても勉強になりました。現地参加者90人以上、ズームでの参加者54人。これは始まる前の会場です。これについては、また、お知らせしますね。
その前に、被団協の座談会について、いつまでも引きずっているので、どうしても分裂の事について、先に済ませておきます。すでに保守系の人たちが抜けていった後のことです。
坪井 (略)1964年に被団協が分裂してしまいましたが、これは大変な事だっんでしょう。
近藤 あの分裂は大きかったですね。ソ連の核実験をめぐって分裂したんですよ。
池田 「いかなる」問題ですよね。
近藤 そうです、そうです。「いかなる」問題です。当時は職場にいたんですが、すさまじかったですよ。会議では怒鳴り合いをやるわ、物を投げるわ・・・。
藤川 平和記念式典にもどーと押しかけて来てね。右翼までバケツに糊を入れてやって来て、バーと書けるんですわ。うまいことを考えたもので、糊をかぶったら取れなくて大変なんです。右翼は三年くらい続けましたが、そのうちに学生も入ってきましたね。
坪井 学生もすごかったですね。
藤川 ああゆう騒動がなければ、国会議員さんもうまくやってくれたんですがね。庄原出身の永山(忠則)という国会議員がいて、十八人の国会議員を集めて被爆者懇談会を作ったんです。これがいい具合にいってくれたらと期待していたんですが、分裂するやら騒ぎになるやらで国会議員さんに頼めるような状態ではなくなってしまって。どうにも物事はうまくいかんものです。国会議員さんがやっと歩調をそろえてくれたかと思うと、あんなことになってしまって・・・。
坪井 分裂する前は請願なども一緒にやっていたんでしょう。
近藤 そうですよ。一緒でした。
池田 そうでしたよね。
藤川 東京では一泊三百五十円ほどの安宿で一緒に寝起きしてね、やりましたよ。
坪井 当時は、原水禁、原水協というようなことは全くなかったんですね。
藤川 そうです。
坪井 阿部さんも請願行動には参加されていたんでしょう。
阿部 ええ、最初のうちは動いていました。でも途中、年寄りの世話と子育てで動けない時期もありました。
坪井 それでも証言活動では国内のあちこち回られたのでしょう。
阿部 ええ、回りました。あちこち行きました。
坪井 それらの活動もすべて分裂前のことですよね。当時はそういう状況ですから国会議員のかかわりも幅広かったのではないですか。
藤川 そうですよ。陳情行動は全ての政党に行きましたよ。
近藤 当然ですよ。
坪井 そうなると、あの分裂の影響は本当に大きかったんですね。うまくいっていたのが「ガバー」ですからね。
近藤 本当に大きかったですね。
坪井 その当時も国会請願には毎年行っていたんですか。
藤川 そうです。それも春に行き、夏に行き、秋に行きですよ。
坪井 請願は主として被爆者援護法だったんですか。
藤川 そうです。
近藤 もちろん援護法ですよ。
坪井 核兵器廃絶の問題はまだそれほどではなかったんですか。
藤川 核兵器廃絶も最初から当然ありましたよ。
坪井 当時から二本柱だったわけですね。
藤川 当時の請願行動は今と大分違っていましたね。理解のある県会議員さんがいて、東部の県会議員さんなんですが、私たちの請願に同行してくれ、段取りも議員さんの方で「きょうは厚生省に行きましょう」とやってくれました。厚生省に行くと職員に、「被爆者の話を真剣に聞きなさい」と迫るんです。だから厚生省の職員も私たちの話を本気で聞いてくれましたよ。ありがたかったですよ。
坪井 厚生省も当時は真面目だったんですね。今の厚生省には被爆者の声に耳を傾けてくれるような熱心さはないですよ。「はいはい承っておきます」という感じで・・・。
藤川 当時は、熱心に聞いてくれましたよ。被爆者健康手帳の一本化の時も、「特別と一般の二種類の手帳があることは被爆者の差別を招く、差別しないようにしてほしい」と要望したら、翌年には一本化されましたから。差別という言葉を受け止めてくれたと思うんです。
坪井 そういう時代もあったんですね。
池田 私たちの国会請願も必死でしたからね。当時だって、こちらが黙っていてやってくれたわけじゃありません。何度も何度も頼みに行かなければ、動きませんでした。国の方からしてあげようなんてことは一度もありませんでしたよ。
坪井 こっちの熱意も今と違っていたんですね。
近藤 今池田さんや藤川さんの話されたのは、県被団協の請願行動ですが、私は当時、職域でしてね。県労被爆連です。カネがなかったという状況は私らも待全く同様で、夜行列車で行き、ホテルは一人分の宿泊費で四、五人ももぐりこんだりして苦労しましたよ。請願では、厚生省、大蔵省、官邸などを回りましたが、役所は冷たかったですよ。広島出身の国会議員のところへ行けばいいんですが、役所は本当に冷たかったです。
坪井 お話しを聞いていると、当時の請願行動には熱が入っていたんですね。
藤川 そりゃー、命を懸けていましたからね。
(以下略します。)あと、もう一回、座り込みのことについて書いて、終りとしますね。
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