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被団協のノーベル平和賞の受賞について①

 日本被団協のノーベル平和賞受賞おめでとうございます。これについて、多くの報道に接しましたが、驚いたことがあります。

 一つには、受賞の瞬間の日本被団協の代表委員のコメントに何とも違和感がありました。嘘でしょうとほほをつねって、そして、うれしいと涙を流されました。この平和賞は、世界中に存在する多くの被爆者(核実験などによる)の事、核兵器の使用をちらつかせ、今も多くの市民が惨殺されつつあるガザやウクライナについて言及することもなく・・。(これについては、後で話されたようです)さらに、すでに亡くなっているあの困難な状況の中での先輩被爆者の方たちの闘いについての言及・・。国に対して核兵器禁止条約の批准を求めることなどの言及も。一緒にいたのが高校生の平和大使。もっと誰かが、もしも受賞したら、その時のコメントをと書いて渡しておくことぐらいしないといけなかったのでは?


 そして、驚いたこと二つ目。被団協のこれまでの闘いについての報道に、さまざまな被爆者の方たちの名前が出ていますが、どうして森瀧市郎さんの名前が出ないのでしょう。本当にびっくりしました。

 あまりに納得できないので、私はこれらの本を引っ張り出してまた読み返しています。被団協のこれまでの壮絶な闘いについて書かれている本です。

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読み始めたら、あれもこれもで、止まらなくなりました。頭がいっぱいになって、まとまりが尽きません。

「人類は生きねばならぬ」(この装丁は、今や弁当作家として注目されているナンシーさんです)には、数々の森瀧さんの文章や手紙が沢山収録されていて、今読み返してまた、感動しています。

「核兵器のない明日を願って」の最後には、初期のころから被爆者運動を闘い続けた方たちの座談会があります。これが、ものすごく良くって、どんな活動をしてきたか、と同時に森瀧市郎さんがどんなに迫害されてきたかもつぶさに出てきます。みんなこれを読むべきだと思います。

 今まだ混乱していますが、少しずつ書きたいと思います。

まず、核兵器のない明日を願ってから、の県被団協小史から。なぜ私が森瀧市郎さんを報道しないのかと怒っているその根拠です。

1956年5月27日  県被団協結成。代表委員に、藤居平一、井上昇、日野義隆
          各氏を選出。
     8月10日  日本被団協結成。事務局を広島に設置し、代表委員に森瀧
             市郎氏、事務局長に藤居氏が就任。
1959年4月16日  広島平和会館が広島市中区大手町八丁目に会館。県被団協
                          の事務局を同会館内に置き、会館の初代理事長に森瀧氏就任。
1960年8月    日本被団協が代表委員制を廃止して理事長制を取り、初代
            理事長に森瀧氏就任。
1961年5月28日  県被団協が代表委員制を廃止し、初代理事長に森瀧氏、
          事務局長に桧垣益人氏を選出。
1962年1月21日  日本被団協が全国理事会で「原爆被害者援護法獲得国会
          請願行動」を起こすことを決定。
1964年6月3日   原水禁運動の分裂に伴い、日本原水協支持派の被爆者が
          県被団協を脱退し、まったく同名の組織を結成。
1965年6月26日  日本被団協で初の理事長選が行われ、森瀧氏を再選。

このように、森瀧さんは、一貫して被団協の運動をけん引してこられました。

その闘いは壮絶といってもいいと思います。先述の座談会から。座談会の参加者は高橋昭博さん、池田精子さん、近藤幸四郎さんなど、初期の被爆者運動を文字通り闘ってこられた方たちです。なお、この座談会の司会者は坪井直さん。坪井さんが皆さんの運動を訪ねる形で進められています。というか、坪井さんは、これらの一番困難な時期の被爆者運動には関わっていらっしゃいません。

高橋   「原爆一号」と言われた故吉川清さんらが「原爆被害者の会」を結成
      したのが1951年のことでした。
      (会は間もなくして「八・六友の会」などに分裂していきますが、
      高橋さんや池田さん等は、この友の会に参加されます。中略)
池田   初めての原爆被害者大会が千田小学校で開かれたのが、1956年3月
     18日でした。その時はお互い肉親でもないのに肉親以上の者が集

     まったような親密感を覚えたのを昨日のことのように思い出します。

     それまでは原爆という言葉を使うことはタブーでしたし、結婚
     したら「ようあんな者もらってから」と言われ、子どもがいても
     「離婚して帰らせ、帰らせ」というようなひどい仕打ちを受けて、
     ただ我慢してうつむいて生活していましたから、大会に集まった
     被爆者たちはお互いに手を取り合って泣き合いました。私も当時ま
     だ若かったですから、年配の方から「あんた、本当によう我慢して
     きたね、よう生きて来たね」と励まされて、嬉しくて嬉しくてウ
     ォンウォン泣きじゃくりました。
      この大会で、国会請願しようということになって、3月20日に
     45人で白いたすきをかけて第一回の国会請願に行ったんです。私と
     阿部さんも着物を着て、下駄をはいて参加しました。東京では鳩山
     首相の音羽御殿を訪れ、夫人にも会ったんですが、私はいつもの
      ように陰の方で顔を隠すようにしていると、伊藤サカエさんだった
     か船越の婦人会長さんだったか、「あんたら一番前に行きんさい」
      と一番前に出さされたんです。「見世物にせんでもよかろうに」と
     思いながらも一番前に立つと、年配の人が私たちを紹介して「この

      原爆に焼かれた姿を見ちゃってください」と切々と訴えていま

     した。その後、県出身の池田勇人さんの私邸も訪ね陳情しました。
      この請願行動を終えてから、「組織を作ろう。組織がなきゃ何もで
     きん」という話になりまして。それで私も早速、同時住んでいた畑
     賀の役場で被爆者の名簿をもらい、40何人かの被爆者がいたんですが、
    一軒一軒通知を出して集まってもらいました。すると、よく集まりまし
    て、40人近くが集まってくれて、被害者の会を作ることができました。

この後、吉川さん、池田さんたちへの猛烈なあか攻撃、森瀧さんを引きずり降ろせという、保守の国会議員などの攻撃が起こります。長くなりました。また、明日に続きます。ノーベル平和賞をもらった今だからこそ、ここに書いておきたいと思います。


         

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