被団協のノーベル平和賞の受賞について⑥
広島で、被爆者は1973年7月20日、フランスの核実験に抗議して原爆慰霊碑前で座り込みを行い、以後核実験の度に座り込みは行われ続けました。
1990年3月13日、慰霊碑前の座り込みはついに500回となりました。森瀧市郎さんは、93年7月20日、核実験抗議20周年記念座り込みに参加されました。
その直後の8月4日、被爆48周年原水爆禁止世界大会開会総会で主催者を代表して挨拶。8月6日には広島県被団協の原爆死没者追悼慰霊式典で追悼の辞を述べられました。そしてすぐに広島日赤、原爆病院に入院。一旦退院、10月18日胃がんのために入院。11月16日、病院から外出許可を得て平和記念公園を最後の散策。94年1月25日に亡くなりました。森瀧先生最後の座り込み、93年7月20日は亡くなる半年前です。
森瀧市郎さんの「人類は生きねばならぬ」の日記1984年2月15日「座り込み十年・その前史と理念」から。
昭和四十八年、フランス核実験に抗議して原爆慰霊碑前で触り込み行動をして以来、いかなる国が核実験をやっても、その都度抗議の座り込みを行って来て、昨年はついに一〇周年を迎えた。座り込み行動一〇年の継続は動かしがたい反核の力を培ってきた。「継続は力なり」を実感しないではおれないのである。
この貴重な一〇年の歴史にはさらにその「前史」というべきものがあり、反核座り込みの精神や理念はその前史の中に躍動していた。それが言わず語らずの裡に受け継がれて座り込み一〇年の歴史を為したのではないか。
私がここで「前史」と呼ぶのは、具体的には昭和三二年の慰霊碑前座り込みと、昭和三七年四月の慰霊碑前座り込み行動である。
昭和三二年と言えば、英国がクリスマス島で水爆実験を行い、米・ソに続いて第三の核保有国となった年である。あの年一月七日英国政府がクリスマス島水爆実験計画を発表し危険水域を設定した時、日本では俄然強い抗議行動が起こり、実現されなかったとはいえ「抗議船団」派遣が熱心に討議されたり、米英ソ核保有参加国に抗議のための国民平和使節団が送りだされたりしたのであった。
その時広島では三月下旬から四月中旬にかけて被爆者数名が原爆慰霊碑前で「祈りと抗議の座り込み」を続けた。吉川清、小林薀徹、南小一、河本一郎などの諸君であった。三月下旬の夜はまだ寒いときであった。その頃慰霊碑のまわりに堀を巡らす工事で土が掘り上げられて塹壕のようになっていた。寒い夜風を避けるために、その塹壕のような窪みに降りて、蝋燭を付けて座り込んでいた被爆者有志の姿は今も眼底に焼きついている。
この数名の被爆者有志の行動に動かされて広島県被団協は四月六日にこの人たちを包んで「祈りと抗議の座り込み」をおこない、その場で被団協の抗議大会を開いた。
しかしこの数名の被爆者の座り込みは猶もつづけられ、遂に四月二〇日の実験抗議広島大会にこぎつけて座り込み行動を打切った。そしてその大会の抗議決議文を引っ提げて上京し、米英ソ三国の大使館に乗り込んだのであった。
(略)
四月二〇日の実験抗議広島集会で私は「世界への質問」という打出しで次のように訴えた。
「きょう私は二〇数万の原爆犠牲者が眠るこの慰霊碑の前で一個の倫理学者として全世界に向かって一つの質問を厳粛に提出します。
『今日世界で最も強い国というのは最も大きな罪悪を犯さなければならない国のことであろうか。』」
私たちは今日もこの質問を以て全世界に問いつづけ核大国に迫りつづけているのである。この問いの根底には核絶対否定の理念が強く働いているのである。
「前史」のもう一つの大きな事例は昭和三六年四月の慰霊碑前一ニ日間の座り込み行動である。
(長くなりました。もう少し、明日に続きます。後一回で終わります。)
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