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ボリショイサーカスの司会をしたこと(2)

 私が司会をした時のボリショイサーカスの何よりの呼び物は「キオの魔法使い」でした。しかし、キオは、初めて日本に来た時は「キオの魔術師」と呼ばれ、それはボリショイサーカスの来日二回目昭和36年のことです。この時はボリショイサーカスは広島には来ていません。そして、広島に来た時のキオさんは、二代目、初代のキオの息子さんでした。彼は、国立の工科大学(モスクワだったか、サンクトベテルブルクだったか)を卒業した、若くて工学、科学を駆使したさらに驚くようなマジックを展開しました。

 今回、このことがあって、いろいろと調べると、とても面白い記事に突き当たりました。一つは、ボリショイサーカスを日本に呼んだ、興行師の神彰氏について書いた「神彰―幻を追った男」であり、もう一つは、「手塚マンガあの日あの時」でした。そして、古い二つの本を知り、中古ですが、アマゾンで注文しました。早く届かないかとワクワクして待っています。本来なら、この原稿もそれらの本が来て読んでから書いたほうがよかったかもしれません。

キオについて、これは手塚まんがについて書かれたのが分かりやすいのでこれから。

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注文している二つの本はこれらです。

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手塚マンガから。


雑誌『少年』昭和3610月号から連載が始まった「第三の魔術師の巻(原題:三人の魔術師)」では、ゲストキャラクターとしてロボット魔術師キノオが登場し、華やかなマジックショーを披露している。(中略)


 キノオというのは何とも奇妙な名前だが、これは実在する"キオ"というマジシャンの名前をもじったものだ。
 レナルド・キオはソビエト連邦(当時)の国立サーカス団ボリショイサーカスに所属するマジシャンだった。昭和36年6月、ボリショイサーカスの二度目の日本公演の際に初来日し、東京、福岡、大阪など5都市でショーを開催した。東京公演は7月から8月にかけて東京体育館で行なわれ、連日大入り満員の大盛況だったという。

 キオの大魔法と名付けられたそのショーは、周囲を客席に囲まれたサーカスの舞台で、オリの中に入れられた美女がライオンに変身する「美女とライオン」や、高い台の上に立つ美女にカゴをかぶせて火を放ち、カゴが焼け落ちると中の美女が消えているという「美女の火あぶり」など、20のイリュージョンが展開された。

 手塚が当時このキオのショーを見たことはまず間違いない。というのは、この時のボリショイサーカスのパンフレットには手塚もマンガを寄稿しているからだ。キオのスマートで現代的なステージを見た手塚は、そこから未来のロボット魔術師・キノオのアイデアを思いついたのだろう。(引用ここまで)

そっか。手塚さんも観たのか。ライオンが美女に代わるのが、漫画では男の子が豚に代わったりするのですが。そして、豚に代わると名指しされた男の子はいやだいやだと大泣きするのですが。

そして、神さんのことについて書かれていたのが、もっと面白くて。神さんは、それまでの興行で赤字になって大変な思いをしたこともあって、このボリショイサーカスの宣伝にあれこれ知恵を絞っていました。横浜港に着いた動物たちと東京まで延々とパレードをしたり。そして、事前にマスコミの方たちを招いて、キオの魔術を見せています。記者たちはびっくりして。

その部を転載します。

「そして6月23日会場となる千駄ヶ谷の東京体育館で記者会見とデモンストレーションが行われた。


 これは神にとっても、AFAにとっても大きな賭けだったのだ。
 通常マジックは、さまざまなトリックが仕掛けられている舞台で演じられることが多い。背景や袖は黒い幕で被われ、死角がいくつもつくられ、天井にはバトンも吊るされている。それに対してキオのマジックは、サーカス場の四方から観客に取り囲まれる円いリング上で演じられている。ここが通常のマジックと大きく異なるところである。しかしそこにはひとつ、トリックが隠されている。つまりソ連のサーカスは、常設のサーカス場で演じられているため、マジシャンのために床に穴を開けることは簡単だったのである。床に穴をあけることで、信じられないような早替わり、消失が可能となっていた。

 前年交渉のためにモスクワを訪れた工藤は、床に穴をあけなければできないようなマジックは番組から外してくれと注文をつけていた。円いリンクでも床に穴を開けているのではないかと思われては、謎ときの興味がうすれてしまうことを恐れてのことだった。これは賢明な判断だった。謎ときで夢中にさせること、それが日本公演の成功の鍵を握っていたのだ。

 それを最初に試す場が、この記者発表であった。裸舞台にちかい状態、しかもまだ舞台はできておらず、床に仕切りの箱枠が円形にただ並べられているだけである。何の仕掛けもないところで、デモンストレーションをしようというのだ。
 しかし神たちには勝算があった。何の仕掛けもないところだかこそ、キオのスケールの大きなマジック、しかもなぞときが難しいマジックの魅力を存分に見せつけることができるはずだという読みだった。


 神たちは、この日「美女とライオン」と「炎に消える美女」というふたつの番組をデモンストレーションとして見せることを決めていた。
 前評判も高く、各社への案内も徹底していたこともあって、当日は大勢のマスコミ関係者がつめかけた。マジックのデモンストレーションにも関わらず、大がかりなセットもなく、床に箱枠が並べられただけのステージを見て、取材陣は一様に驚きの表情を浮かべる。神たちが仕掛けた罠に、彼らはひっかかってきたのである。主催者の挨拶と簡単な説明のあと、キオがいよいよマジックを披露する。

 まず人間の腰ほどの高さの脚に車輪のついた、空っぽの大きな鉄の檻がステージ中央に運び込まれた。続いて助手が箱型の踏み階段を押してくる。そして美女の手をとったキオが登場。美女は踏み階段を昇ってゆっくりと檻の中に入る。ポーズをとり、笑顔をふりまいたあと、すばやく助手たちが、大きな被いを檻にかけた。キオが檻をたたきながらゆっくりと一周したあと、踏み階段が運び去られる。キオの合図とともに被いが取り去られると、檻の中では美女が消え、ライオンがあたりをにらみながらゆっくりと歩いていた。
 この場に居合わせた外国部の工藤は、この瞬間のことをこう回想している。


「みんな呆気にとられて、声もない。そしてわずかの間をおいて大きなどよめきと万雷の拍手が起こった。これは主催者のぼくらも同じで、何がどうなったのかわからず、ただ首をひねるばかりだった。
 その場でインタビュー取材の予約申し込みが殺到し、処理しきれないほど、首都の話題をさらうことは確実になった」

 さらに、週刊文春のアイデアだったそうですが、こんなことをしています。

「これは、日本を代表する文化人を集めて、実際にキオのマジックを見て、その謎ときをしてもらおうというものだった。
 デモンストレーションの時は、取材陣をけむに巻けることは十分に予想できていたが、この取材はさらにリスクが多い。神たちが仕掛けたものではなく、マスコミが仕掛けた取材で、もしもトリックが簡単に見破られてしまったら、せっかくの盛り上がりに水をかけることになるかもしれない。それでも神はあえて、この取材要請を受けたのである。


謎ときに挑戦


 ボリショイサーカスの幕が開いて4日目の7月4日8時10分、第二部キオの魔術が始まったこの時、正面最前列に6人の男女が居並んでいた。
 推理小説家の松本清張、東大教授で東京マジシャンズクラブ会員の上野景福、推理作家の戸板康二、特殊撮影監督の円谷英二、漫画家の西川辰美、シャンソン歌手の石井好子の面々である。」

うわあ、松本清張!戸板康二!石井好子!この人たちがキオのマジックの謎解きをしようと待ち構えていたなんて。

 すみません。長くなったので、次に続きます。ちょっと忙しくなりますので、いつ書けるかわかりませんが、必ず書きます。



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