平和記念式典、過剰な警備で守られる人は来るな。
「8.6ヒロシマ平和の夕べ」については書かなければならないのですが。あまりの事に胸が痛いので、こちらを先に書きます。広島市の平和記念式典の警備について。私はあまりにびっくりして、8月6日の朝のブログで書きました。しかし、私だけでなく、他の場所から平和公園に入られた方がこんなことを書かれていました。また、写真には、装甲車だけでなく、消防自動車もバリケードにされていました。
次は、丸ごとシェアの許可を戴きましたので、スクショで。
そうなのです。これは、私の写真ですが。私が足止めされた所の、歩道です。あまりに密度濃く人の壁ができているので、一体誰だろうと思いました。市の職員は、腕章をつけているし。そうでない、若い人が綱をもってぎっしり並んでいます。
総理も通り過ぎた後、私が二中の式典の記帳をしようとすると、まだ綱を張っていて、それをくぐり通らなければならなくって「もう、こんなの、やめなさいよ」と言った相手は、確かに高校生でした。私は、てっきり二中の後進の観音高校の生徒かと思ったのですが、撤収した姿は、観音の生徒ではありませんでした。観音の生徒さんは、その後、式典の役をしていましたので。
だれが警備のために動員されているのでしょうか。
そして、やっぱり胸のもやもやが消えません。どうして、こんな過剰な警備をするのか。誰のための式典なのかと。
私、こんな警備をして守られなければならない人は広島に来なければいいと思います。そもそも、総理は広島の記念式典には、来ていなかったのです。初めて総理大臣が広島の式典に来たのは、1971年、時の佐藤総理です。私はまだ広島大学の学生でした。そして、貧しく、病んだ被爆者の手当もなく、核兵器の日本持ち込みをもくろんでいた佐藤首相の車をとりかこんで、「クルナ、カエレ」と拳を上げました。その頃は、まだマスコミも私たちの訴えに耳を傾けてくれていました。そして、「総理の背に被爆二世の叫び」などと、取り上げてくれました。
後日談ですが、あるマスコミの方が、広島駅のプラットホームで帰ろうとする総理に「広島はいかがでしたか?」と尋ねたら、佐藤総理は、真っ赤な顔になって「せっかく来てやったのに。」と言ったのだそうです。
それまでは、本当に来ていなかったのです。そして、8月6日の式典は家族を亡くした遺族が集まって、涙ながらに祈り、核廃絶を決意する場でした。
いつのまに、政治家のための場になってしまったのでしょうか。政治家がむなしい言葉を吐くために、多くの市民が締め出され、公園の中に入る人は、厳しいチェックを受けなければならなくなりました。いえ、私なぞは、公園のなかに入るのではなく、外の慰霊祭に行くのでも、荷物をチェックされ、黄色のリストバンドを付けられました。竹本さんは、お水の毒見までさせられたと。
市民を信用できなくて、撃たれるかもしれない人は、来るな。来なければいいのです。ウィキペディアの「広島平和記念式典」にはこう書かれています。
式典は会場である平和記念公園の原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)前において、原爆死没者の遺族をはじめとして、市民多数の参加のもとで挙行されるものである。1950年(昭和25年)を除き毎年歴代広島市長によって行われる平和宣言は核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現を訴え続けているものであり、世界各国に送られている[2]。
サミットでは、平和公園の川の向こう岸の、広島市の花である夾竹桃まで50センチの高さまで切られました。切られた夾竹桃を見に行きました。今、たくましく大分伸びてはいますが、何十本も切られたうち、一本だけ数個の赤い花をつけていました。サミットでの過剰警備が、今回の平和記念式典にまで再現されました。これが、来年もその次も延々と続くのでしようか。
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