観音高校演劇部OB会「土橋先生・脇田さんを偲ぶ会」
ここのところ、すっかりブログを書くのをさぼっています。すみません。釜山から帰った翌日から連日、診療後に遅くまでの会議や講習があり、時間が全く取れないでいます。24日の日曜日の講習についても、ご報告できていません。心配して下さる方もおありで、ごめんなさい。
昨夜は、オフィスギネコロジストの会(ビル開業の産婦人科医の集まり)で、沢山の情報を得ることができました。
そして、今日は、観音高校演劇部OB会、土橋先生と脇田義信さんを偲ぶ会がありました。平日のお昼であっても、20人を超える方が集まりました。多くの方がもうリタイアしていたり、また、主に夜や不定期に働く人も。
最後に撮った集合写真から載せますね。早めに帰られた陶芸家の波多野氏と、彼を送って行った後藤氏が写っていませんが。右端の板倉さんが、今回の会を中心に企画と様々な準備をしてくださいました。
会場は土橋のカフェ「kitokoi(樹と鯉)」お店の前には被爆青桐。中には、大きな鯉が悠然と泳いでいでびっくりです。
板倉さんの司会と献杯。
土橋先生は、長年私たちの指導者でした。今日の板倉さんの話で初めて私は知ったのですが、新制広島大学の一期生で、一級後輩の、後の中国放送のディレターであり、被爆の語り部でもある新井俊一郎さんと共に広島大学に演劇部を作った方です。
脇田さんは、私が入学した時には、もう高校を卒業して浪人生だったのに、板倉さんと共に連日高校に来て、私たちの指導をして下さいました。お二人と土橋先生と中州先生のまるで四人の顧問のおかげで、私が一年生の時の「象の死」(この時地区大会で私たちが優勝して、皆実高校の「おーい助けてくれ」が二位で、それには吉田拓郎氏が出演していたとは、当時は知る由もありませんでした)二年生の時の「広い黄色い土地」等の中国大会突破、全国大会出場等ができたのです。
脇田さんは、後、修道大学で大学演劇に力を入れ、同時にRCCドラマグループ、小劇場等まさに演劇漬けの日々を送って、大学卒業と同時に広島テレビに。名物アナウンサーとして活躍されました。写真は、板倉さんが作ったスライドの接写になりますので、見えにくいのはごめんなさい。脇田さんと田村正和さんの共演が光ります。脇田さんは、60才でがんのために亡くなりました。翌日の3月29日が命日で、今年は20回忌となります。仕事をリタイアしたら、みんなで演劇をやろう、私もやるやると言っていたのに、若すぎる死で本当に残念でした。亡くなった時、ズームイン朝で、徳光アナウンサーが彼の事を偲んで語られたのを今も鮮明に覚えています。「8.6の日の朝、脇田さんが今日は、広島の命日です」と言ったと。脇田さん自身も被爆者でした。
そこから、今度は、東京で活躍している伊藤勝昭さん演出の井上ひさしし作「少年口伝隊」のDVDを見ました。
中国新聞は、被爆直後、新聞の発行はできませんが、それでも人々に報道すべく、原稿を三人の少年たちに覚えてもらって、口頭で人々にニュースを伝えに行ってもらいました。それを井上ひさししが朗読劇として作ったものを伊藤さんが動きのある演劇として演出されました。伊藤さんのこれまでの活躍。
この会について、もう少しお話しがあります。明日に続きますね。
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