兄の文章を続けます。「陶芸閑話」の一部から。陶芸について書いてはいますが、読んでいてとても楽しく、これはどんな世界にも通じると思いましたので。
1.修業 ロクロ 湯呑み100個
私は小学校から老人ホームまで様々な対象の指導に取り組んで来ました。病院のリハビリセンターにも3年間ボランティアで通いました。中心に据えているのは一麦窯教室です。内容は入門から大学の陶芸専攻のレベル以上です。
私もお世話になったことのある芸術学部では、陶芸専攻の学生で卒業時点にロクロの満足に使える人は、まずいません。ですから一般に、大学で陶芸を専攻したら卒業後、窯元修業を何年も経験して独り立ちします。土こね3年 ロクロ10年と言われます。
芸術学部の在学生、卒業生の指導もしてきましたが陶芸に関しては、経験浅く知識も技術も未熟ですがデッサン、立体構成等幅広く基礎的な勉強をしていますから理解が早く、センスが良いので気持ちが良いものです。
陶芸では練習とか稽古とは言わず修業と言います。
テレビで相撲を見ていたら、大記録を樹立して引退した魁皇関が「30歳を過ぎて強く感じたことは、相撲は基礎が大事だということだ」と語っていた。あれだけの人の言葉である。そんな当たり前のことを実感するまでに長い年月かかったのだ。陶芸の初心者が分からないのは無理がないということだろう。
基礎をしっかり身につけると応用が利くようになる。色々な、作りたいものが何でも自由に作られるようになる。ちょこが出来ても徳利が出来ないと面白くない。コーヒーカップが出来るとソーサーもほしくなる。ごく限られたものしか作られないのでは作品の幅が制限されて面白くない。
前衛的な仕事を主にしてこられた京都市立大学名誉教授の鈴木修氏もロクロの大事さについて「若い人はロクロを使った仕事よりもオブジェを作るほうが格好良いと思ったりするが、まずロクロを勉強すべきだ」と言っておられる。九谷焼の北出不二雄氏も「現代的、前衛的な作品を数々世に送り出している作家たちは、ろくろなど古くから基本とされる技術をきちんと身につけている。」と言われている。
ロクロの基礎を習得するために湯呑み茶碗を100個作るよう勧めます。この湯呑み100個が中々出来ないようです。私が陶芸を始めた時、師匠からまず湯呑み茶碗を200個作るように勧められました。今までに1000個以上作ってきましたが今だに課題が残ります。
ロクロの基礎的練習には湯のみ作りが一番適しているのです。ロクロによる成形をするときは粘度を輪切りにしたときに、上から下まで真円になっていなければなりません。そうでないと回転によってぶれて、薄くするとやぶれます。置いた粘土が、離れて見ると静止して見えるように、きちんと回っていなければなりません。
これができればなんでも出来るのです。ロクロが使えるか使えないかはこれだけのことです。
陶芸はフォルム(形)が優先されます。形の良いものはそれだけで鑑賞に値します。シンプル イズ ベストと言われます。形の悪いものにどんな釉薬をかけても、装飾を施しても良くなりません。良くしようとあれこれ手を加えると段々騒がしくなり下品になるだけです。釉薬を使わない備前焼が美しいのは形が良いからです。
学校教育では年齢も能力もほぼ一定です。私の教室では制限を設けていませんから様々な人が入会してきます。陶器製造業のための職業訓練ではなく、人生の豊かさのための生涯学習の場と位置付けているからです。
年齢も、知的能力も体力も、家庭環境も、経済力も様々です。一度で理解し取り組んでいく人もいれば、同じことを何回教えても出来ない人がいます。
いずれ分かる時が来ますからその時を待つことになります。
本物を目指す人には湯呑み200個を勧めますが達成する人は一部です。
大抵60個くらいで音を上げます。
一つの課題を追うことの面白さを感じてほしいものです。100点満点で80点の作品が出来るようになると他の作品も80点のものが出来るようになるものです。30点で次に進むとやっぱり30点のものしかできません。それは技術ではなく取り組む心の状態だからです。
陶芸に飛び越しはできないのです。
湯呑みが一応出来るようになると、トンボと呼ぶ簡単な道具を作って縦横の寸法にそったものを作るように勧めます。この作業をすると格段に向上しますが、実行する人は一部です。行きあたりばったりの作業は、コースの無いところで車の運転練習をするようなものです。
苦し紛れに、「自分はプロになるわけではないのでこれで良いのだ」と言う人もいます。うまくいかないと、すぐに投げやりな発言をする人もいます。
趣味であっても進歩向上がなければ面白くありません。囲碁でもゴルフでも少しずつでも上達しなければ面白くないでしょう。
陶芸はボケ防止に良いと言われます。作業もさることながら新しい課題に取り組むことが脳の活性化を促すと思います。与えられた課題に対して、出来ない理由を探すのではなく、出来る道を探し考える。
陶芸も音楽も書道も何処まで行っても終わりがなく新しい課題に事欠きません。
私の教室メンバーが他の窯元で湯呑み100個の話をしたら、それは違うと言われたと言います。
聞いてみると湯呑みは1000個だと言われたそうです。
職人を養成するには、ぐい飲みを一日200個作らせるという話を聞いたことがあります。
安野焼きの鶴我晃弘氏は土管製造業から陶芸家に転業する時、同じ形のぐい呑みを一日
300個二年間続けたと言われている。
ただし、この段階で数だけを追うと粗製乱造になり、後々まで影響します。常に丁寧に心をこめた作品作りを身につけることが非常に大切です。初期の段階で大雑把で雑な作業を身につけると、なかなか直りません。
これは練習だから適当でよいのだという取り組みではなく、全ての工程に真剣勝負を身に付けて欲しいものです。
私は大作に取り組むときは朝、滝に打たれて来なさい。滝がないなら水をかぶってきなさいといいます。
大事な作業を、へらへら笑いながらやっている姿を見るのは不快なものです。
どんな遊びも真剣に取り組んでこそ面白いものです。
このことについて横浜国立大学教授の木下長宏氏は次のように書かれている。
「手を使って土をこね一つの形にしたて、それを火の中へ入れて造形するという行為、それに伴う心構えも、身体の姿勢も何千年何万年変わらない。その繰り返しの一つである。だからいいかげんにちょいちょいとやって、失敗したらまたやればいいんだというふうになってはいけない。長い歴史の重みをしたたかにうけとめることが大切である。」
また、テレビで陶芸家が、良い作品はせいぜい一窯一つであると言って、ボンボン割る様子が紹介される。「こういう態度は、人類が営々として営んできた焼き物の歴史の最も大切な心を裏切るふるまいである。」と批判されている。自分の名誉のための傲慢なふるまいではないか。
自分ひとりの力で作品が出来たわけではない。粘土は自然からの恵みであり、道具も機材も釉薬原料も焼くための熱源も、人の力に寄っている。一つの作品が誕生するために、どれだけ多くの人の力がそそがれていることか。
相撲や柔道など伝統的なスポーツで、勝てばよいというものではないと言われる。マナーや、誠実に取り組む心の姿勢が重視される。それは茶道でも陶芸でも同じことだと思う。ただ粘土で何かを作るだけでは真の陶芸とはいえないということだ。
文学を志しながら40歳で陶芸を始め、後に人間国宝になった備前焼作家藤原 啓氏の長男である藤原 雄氏が次のような体験を語っています。
体調不良の父を助けるため、大学の文学部を卒業し出版社に勤めていたのをやめて、父に弟子入りをした。
昼間父の作業の助手をして夜、自分の作品を作って板に並べておくと翌朝全部板ごとひっくり返して潰されていた。5年間は100%壊された。そのうちに10点のうち1点が残り、次第に2点3点と残るようになった。
週に1、2度の話ではない。毎日の5年間である。
書道展で、何年書いているか聞いてみると50年と答える人が珍しくない。自分の字が書けるようになるにはその位かかるという。その間ひたすら模写である。
私の友人で栞の字を書いてもらった篆刻作家がこのような話をしたことがある。
書の師匠が「10枚や100枚書いて書いたというな。畳の上に、書いた紙を置いて重ねたものが天井まで届いた時に書いたと言え。」
書でも陶芸でも同じことだと思います。
永い自分との闘いが続きます。ですから修業と言います。しかしそれは苦痛ではなく希望のある楽しい歩みです。
陶芸を始めた人に、陶芸は短距離走ではなくマラソンですよと何度もいう。初めての体験にその面白さから、頑張りすぎる人の多くは続かない、潰れる。
頑張って長続きする人は本物になるが稀である。

いろいろなものが写って色が変わっているように見えますが、とても美しいピカピカの赤一色です。
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