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兄の文章から②

兄の文章を続けます。小さいころから、私にとって兄は怖い人でした。それなのに花や小鳥が好きで、それが不思議でした。これらの文章を読んで、やっぱりするどく怖い人だと思います。その一方、子どもやお年寄り、障害のある人などには、とことん優しい人でした。その根底には、幼い頃に分かれたままの三人のわが子の存在があると私は思います。パソコンの中に、子どもと孫の写真のぺージがひっそりとありました。どうやって手に入れたのでしょう。


論理のすり替え         香住ケ丘バプテスト教会壮年会


                      2010.4.18 長谷川康行


. 論理のすり替え


1.    49日、日米密約訴訟の判決で東京地裁は、外務省の対応を「国民に対する裏切り行為」と断罪し原告全面勝訴の判決を下した。


1971年毎日新聞記者の西山太吉氏が日米間の密約の存在を示唆する記事を掲載。


「知る権利の侵害」に対して世論が噴出した。


当時東京地検特捜部で起訴を担当した佐藤道夫氏(のちに参議)は[空気を変える方法はないか考えた]と証言した。


国民に対する裏切りである国家的謀略を、男女関係のスキャンダルにすり替えることによってうやむやにしたのである。


2.  よくある話。交通違反で検挙された者が、違反の事実でなく「取り締まりのやり方が悪い」と抗議をする。いわゆる「逆切れ」であり、「すり替え」である。


.  私は最近2度この体験をした。


    委員会に疑問を呈したところ、委員は一所懸命にやっている。批判は間違っているとの異議であった。一所懸命にやっているかいないかの問題提起をしているわけではない。まさにすり替えである。


  また、転入会希望者に対する対応に疑問を感じて、問いただしたところ「物の言い方が悪い」とのおしかりをうけた。質疑の内容に関し         てではない。これもすり替えである。


.  このような論法は問題の本質を見えなくする。論点が2つになってしまう。だからそのような指摘は時を改めて別途検証すべきである。


.  何のために話し合いをするのか。


 「現時点の結論は正しいか。もしかして間違えていないか。もっと良い考えがありはしないか。人間は間違える存在であるから、確認が必要ではないか。」


   他人は自分の気付かなかったことを教てくれるありがたい存在であると思って、他人の意見を聴いているか。


   自分と異なる考えを吟味しないなら話し合いの意味もないし、進歩も無い。別紙、新宮文化に掲載した「全会一致は良いことか」は、そのよ   うな問題提起である。

次の文章です。

 私が生まれたのは1941年で
ある。


 序  


先の戦争は全国民を総動員したものであった。兵士とか戦場だけの話ではない。


女も子供も一般国民の多数の命が失われた。日本人では死亡した兵士は230万人、一般市民も80万人が死亡している。一例を上げると1945年3月10日の東京大空襲では27万戸の家が焼かれ8万4千人が死んだ。沖縄では兵士と同数の9万4千人の住民が死んでいる。


したがって兵士だけではなく当時生きていた全ての国民が戦争体験者である。


 
私が生まれたのは1941年である。


島根県松江市に生まれ、まもなく広島市に移り高校まで過ごした。


 1931年、日本軍の謀略によって端を発した満州事変以来、中国との長い戦争で国が疲弊し、遂に太平洋戦争に突入した年である。


したがって記憶にあるのは、物心ついた終戦間近以降である。


各地がアメリカの無差別爆撃に更されるに至って、山奥の親戚に避難していた。


爆撃から身を守るために、庭に掘られた穴(防空壕)の記憶があるくらいで、緑豊かで平穏な日々であった。


私の原風景であり、植物と土が好きな田舎志向はこの時期に刷り込まれたものだと思う。


  骨        


 戦争が終わって山奥の疎開地から広島市内に戻った。


当時遊び道具などは何もない。サッカーボールなどあるわけもなく、テレビも無ければゲームも無い。縄跳びや鬼ごっこ、唯一の道具と言えば空き缶くらいのものであった。


庭のあちこちに瓦礫の小山。そこらに転がっている真っ白い骨。それを蹴飛ばして遊んでいた。街なかゆえ大動物は考えられず、人間の骨であったに違いない。


 子供は土いじりと穴掘りが好きだ。小学校の校庭を5センチも掘れば小さな骨が無数に出てきた。それを両手にいっぱい乗せて遊んでいた。人間の指の骨であっただろう。それが何であり、何故そこにあるのか等考えたことも無い。ごく日常的な行動であった。


   同級生や教師で首から上半分がケロイド状になっている人が複数いた。耳はふさがっている。首から下は衣服で見えない。それが被爆によるものだということは皆分かっている。


  誰もことさら話題にしない。からかったりいじめたりすることも無い。


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父の遺品の中から被爆直後の焼け野原に立たずむ写真が出てきた。広島市中心部で右後ろはキリスト教会と思われる。


当時父は旧制中学の教師をしていたが当日はたまたま伝令を持って観音の三菱軍需工場に行っていたので助かった。


教え子は全滅した。


原子爆弾爆心地の地上温度は3000度から4000度。


1㎡当たり19トンの圧力、


風速毎秒280メートル。


年末までの死者14万人。


太き骨は先生ならむ   


  そのそばに小さきあたまの骨あつまれり       正田 篠枝


2001.8 第6回アジア工芸展  「暁光Ⅱ」 小坪亭の玄関にあります。

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