映画「ヒロシマ1966」②
当時は、オーデションという言葉なんて知らなかったけれど、後で監督が話してくださいました。エキストラの募集のようにしたけれど、実は、誰か主役がやれるような人がいないかと、その目的があったのだと。結局映画に出るとなって、いろいろと大変でした。監督と吉川清さんと、まだ他にもどなたかが家に来て、両親と長く話していました。父は広島二中の教師をしていました。その被爆の状況、吉川さんの被爆の事など、ずいぶん気があって話をしていました。私はそばで聞いているだけでしたが、吉川さんが、「子どもはできんのです。」と言われたことが強烈に残っています。背中一面の大やけど、そのケロイドは、私も小学校の時に平和公園で見せて頂いたことがあります。そんな大変な火傷と放射能で、子どもを作る能力が失われたということなのでしょう。
それから、台本を渡されました。まだ完成稿ではないけれど、と。私のする予定の役は、高校のバスケット部でした。私は、バスケ部だった友人にお願いして、卒業したばかりの高校のバスケのコートで、教えてもらいました。パス、ドリブル、シュート、体育の授業でしたバスケットも好きだったのですが、結構早くマスターできました。監督は、準備のために一旦東京に戻るけれど、入学試験の結果を教えるようにと。撮影のスケジュールは、ちゃんと考えるからということでした。
合格を確認して、当時ですから、丁寧にお手紙を書きました。吉川さんには、ずいぶんと可愛がっていただきました。ごはんを食べたり、奥様がなさっているお店に行ったり。即興で詩を作って、曲も作って、その場で歌って下さりもしました。きっと、娘のような気持ちでいらっしたのだと思います。
それから、白井監督が帰って来られて、話がありました。私にしてもらいたかった役は、母親役の望月優子さんのお嬢さんがすることになったと。望月さんが強く主張なさって、娘がその役をしないのだったら、自分は降りると。監督は、山田五十鈴さんとか、いろいろと探されたそうです。でも、どなたも急なことでスケジュールが無理で、どうにもならなかったそうです。そのことは、監督さんからではなく、広大の映画研究会の方に聞きました。望月さんは、「こんな大切な役を、素人の女の子ができるわけがない」と言われたそうです。私は、「いい映画を作って頂きたいので、そのために協力をします。」と言いました。監督は、台本の中の、私が改めて演じることになった友人の役の出番をずいぶん増やしてくださいました。
撮影は、一か所は当時被団協があったビルの地下にある喫茶店で。私は、そこを切り盛りする女性の娘の役でした。高校から帰ると、その喫茶店で働いています。そこで、主役の少女といろいろと話をするというシーンなど。思い出は沢山あります。
わたしが残念なのは、私はまだそのころは子どもでした。もう一組の主役、加藤剛さんと松本典子さんのカップルについて等、何にも知らなかった。60年安保で挫折した医師同士の事。安保なんて知るのは、私が大学に入ってしばらくしてからです。だから、もう一度見てみたいと思うのです。

次回、この映画のストーリーなどお話しますね。それで終わります。
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