映画「ヒロシマ1966」①
この夏、映画「ヒロシマ」が再上映されるという記事を私も書いていて、その時にふと気になったこと。いろいろと探したので、記録のために書いておきたいと思います。
その昔、私が高校を卒業して大学の受験も済んで、結果を待ちながらのんびりしていた時、新聞で「広島で映画の撮影がある。それに出演する女性を募集している」という記事を見ました。ああ、ちょうどいい、応募してみようと思ったのです。暇でしたから。
それからほどなく、試験、今でいうオーディションの会場にいました。平和祈念館の一室だったと思います。そこには、たくさんの女性たちがいました。私は、順番を待つ間、持って行っていた本をひたすら読んでいました。その待合室には、何人かの大人の人たちがいて、その中の一人が話しかけてこられました。何をしている人かと。私は、高校を卒業したところです。受験も済んで結果を待っていますと答えました。後で知ったのですが、その人たちは広島大学の映画研究会の人たちでした。広島で映画の撮影がある、そのお手伝いをしようと来ていたのだそうです。そこで、こんな所に応募するのは、どんな女の子なんだろうと思ったら、本を一生懸命読んでいる、変わった子がいると話かけたのだそうです。
その内、順番が来て、部屋の中に呼ばれました。中には何人かの男性たちがいました。そして、先ほどとおなじようなことを聞かれました。私は高校では演劇部だったことも。どんな劇をしたのかと尋ねられ、一年生の時には「象の死。戦争で殺されて行く動物園の象の話。それでは女性の獣医役」をしたこと。「二年生の時には、広い黄いろい土地。日本に侵略されて行く中国の女の子の役」だったこと。すると、セリフを覚えていますか?ちょっとここでやってみて下さい。と言われました。私は、思い切って、中国の少女役のセリフ、それもしょっぱなの、軍靴の音に耐えられず、頭を抱えながら、「ああああっ!!もう嫌だあ、私の土地が踏みつぶされて行くー!!」というような意味の事を思いっきり叫びました。と、急に恥ずかしくなって、「もういいいですか?」と笑って尋ねました。そしたら、真ん中にいた人が、「あのね、これが終わるまで、帰らないで外で待っていて」と言われたのです。また本を読みながら待っていて、すべての人がいなくなった時に、何人もの男性が来られて、別の建物に連れていかれました。
そして、一つの部屋に入ると、あのね、あなたのお母さんが倒れて、病院に運ばれた。そして、寝台で運ばれている。この机がお母さん。運ばれている所について行きながら、お母さんに話しかけて。と言われました。私は、
「お母ちゃん、お母ちゃん、しっかりして。目を開けて。死んだらいけん。お母ちゃん!!」などと叫びながら机に沿って移動しました。一人の男性が私の顔を正面から覗き込みながら、ついてきます。覗かれる顔が近くて恥ずかしかったのを覚えています。
これも後で知ったのですが、その、顔を覗き込んでいた人が映画監督の白井更生さん。そばについていたお一人が、「原爆一号」と言われた吉川清さんでした。白井更生さんは、アラン・レネ監督の「広島モナムール」、日本の上映の題名は「24時間の情事」のチーフ助監督であった人。吉川さんは、現地制作ということでした。
そうして、私はちょっと暇だからと軽い気持ちでエキストラだと応募したのが、あれよあれよと、主役の娘さんの役をやってもらうということになりました。あれえ?試験に受かったら、大学はどうなるのかなあなどと思いながら。
映画は、「ヒロシマ1966」。

出演の所に長谷川美代子とあるのが、私です。はい、結局の所、主役ではなく主役のお友だちの役となりました。この話、しばらく続けますね。
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