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「8.6ヒロシマ平和の夕べ」・福島から「被曝の安全量はない」

「8.6ヒロシマ平和の夕べ」は毎年「福島を忘れません。」いえ、3.11の震災、原発事故が起こる前から、原発の問題は、必ず取り上げてきています。今年は、鴨下美和さんにお願いしました。鴨下さんは、これまでの平和の夕べで語って頂いた鴨下全生さん、ローマ法王に会いに行き、抱きしめられたあの彼のお母さんです。鴨下さんのお話しは、あまりに胸を打つので、どうか私のこのつたない報告ではなく、ぜひ動画を見て下さいませ。

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「なぜ、男性は悲しい時笑うのでしょう。幼い時から男は泣くなと言われ続け、本当に悲しい時、自虐的に笑いながら話すのだということを知りました。」お連れ合いは、厳しい差別の中で家族と離れ離れになって暮らすそのつらさで、だんだんと壊れていったと。ああ、広島に避難している、平和の夕べで証言をして頂いた渡辺さんも、そう語っていらっしゃいました。それから、ローマ法王に会いに行った長男の全生さんの心からの叫びも、動画の中で再現されています。ぜひぜひ見て下さいませ。

https://iwj.co.jp/wj/open/archives/517863

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小林憲明さんが描かれた「ダキシメルオモイ」の複製をもってきて下さいました。左の鴨下さんの絵を見た下の子が、これは嘘だといったと。お母さんは、こんなに笑っていないものと。原発事故の前のお母さんを描いてくれたのだと、夫が言ってくれたと。ローマ法王と全生さん。そして、右は、やはりこの会でも証言して下さり、「災害からの命の守り方」の著者でもある森松明希子さん。今年の会にも参加して下さいました。そして子ども脱被爆裁判を中心になって闘って下さっている水戸喜世子さんもいらっして下さいました。

ここに、鴨下さんが原告である伊方原発運転差し止め等裁判の意見陳述要旨をここに再現させて頂きます。

本日は意見陳述の貴重な機会を与えていただき御礼を申し上げます。私は原告の鴨下美和と申します。現在東京に住んでいます。先月、私は、ふるさとの福島県いわき市の共同墓地にいました。墓地の中央には、大きな、白い石の十字架。やっと、訪れることができた懐かしい風景に、自然と涙が溢れました。しかしその足元の土には、今でも数千Bq/kg 注 1 の放射性物質が含まれているのです。

11年前の原発事故当時は、その数十倍から数百倍の汚染があったにも関わらず、私たちの住んでいた福島県いわき市注2 には、一度も避難指示が出されませんでした。私は、放射線被曝を逃れるために子どもたちを連れて避難した、いわゆる自主避難者です。家があった場所は、爆発した原発から南に40km。事故当時、長男は8歳、次男は3歳。彼らを放射線被曝から守るためには、無理をしてでも、避難するしかなかったのです。放射性物質を扱う施設で実験を行う私と夫は、大学の研究室で出会いました。そこでは遺伝子を扱う実験のために、放射性物質を使用することもありました。その際は、研究棟とは別棟の放射線管理区域注3 に指定された建物の中で、細心の注意を払って実験を行いました。今でいうガラスバッジ注 4を付け、自分が被曝しないための操作はもちろん、間違っても管理区域の外へ放射性物質を持ち出さないために、厳
しく管理された中で実験を行っていました。

 あの事故が起きるまで、研究室はもちろん、病院や、原発の敷地内であっても、放射性物質はそのように厳密に管理されてきました。(現在でも、この原則は、全国の放射性物質を扱う施設では厳密に守られている。もちろん飲食厳禁である。) だから福島県いわき市内にある共同墓地。水石山という、市街地に近い山の中腹にある。

私たち夫婦にとって、自分の家や、子どもたちが遊ぶ場所に、大量の放射性物質が降り注いだこと、そしてそれが全く管理されないまま、風雨で移動し、子どもたちが吸い込んだり、素手で触れられるようになってしまったことは、心が壊れる程の恐怖でした。

過酷な避難生活

避難生活は困難を極めました。始めは私の実家のある横浜へ。次は夫の親が暮らす東京へ。親族とは言え、そう長く居候もできませんから、その後はアパートやホテルを転々とし、4月の末にやっと避難所に入り、夏には古い官舎の避難住宅へ。賠償金の出ない私たちには、避難の継続のためのお金が必要なので、夫は4月には福島へ戻って業務を再開しました。週末には、車で250km の道のりを飛ばして、私たちに会いに来てくれましたが、日曜の夜、別れのたびに、4歳の次男が布団にもぐって、声を殺して泣くので、胸がつぶれる想いでした。当時、夫が電話越しに、シンチレーションディテクター注5 の音を聞かせてくれたことがあります。チチチチという検出音が、やがてチ―――という鳴りっぱなしの甲高い音に変わります。生活空間にあってはならないものがそこにある。その危険を知る夫にとって、そこで働くことがどれだけのストレスであったか、想像に余りあります。

誤解と無理解に起因するバッシング

放射能は目に見えません。仮に測定機器があっても、知識と事故前の数値を知らなければ、その危険性はわかりません。国の避難指示が無かったこともあり、いわきは汚染などしていない、全く問題がない、と信じている周囲の人たちの中で、除染や被曝防護を訴え続けた、唯一その危険を知る夫は、罵声を浴び、差別を受け、次第に孤立し、頭のおかしい人と、思われるようになっていきました。更に、身近な若者の突然死が二度続き、それに関わってしまったこともあって、夫は心身共に壊れていきました。会うたびに髪が減り、皮膚が年寄りのようになり、やがてろれつがまわらなくなりました。見るに見かねた私は、夫に仕事を辞めて一緒に暮らすことを提案し、事故から2年後に、夫も避難者となりました。

否定しがたい放射線被曝被害

避難所や避難住宅では、うちの子に限らず、鼻血を出す子が多くいました。それも、見たことのない程、酷い鼻血です。吹くような、吐くような勢いで、鼻血が両鼻から出たり、それが喉をまわって口からも出る。綿やティッシュでは追い付かず、洗面器やレジ袋で、流れ出る血を受ける子どもたち。それが30分経っても治まらない。深夜に、若い母親から、どうやったら娘の鼻血を止められるのかと相談を受けたこともあります。結局、息子は手術で鼻血を止めました。テレビでは環境大臣までが、原発事故と鼻血の関係を否定しましたが、科学は現実に起きていたことを否定できるものではありません。実際に、岡山大・熊本学園大・広島大らのプロジェクトチームによる疫学的調査でも、当時の鼻血には有意差があることが認められています。中通りで暮らす友人からは、息子の学校には紫斑病の子が多く、入院してしまった子もいる、という話も聞きました。小児甲状腺がんを患った子どもたちが原告となった裁判注6 も起きています。政府に選ばれた学者たちが、事故との因果関係を否定したとしても、現実に小児甲状腺がんに罹患している子どもたちが、福島県内だけで300人を超えていることは、動かしようのない事実です。

放射線被曝に安全量はない

安全な放射線被曝などありません。電離放射線注7 の人体への影響は、確率的です。少しの追加被曝なら大丈夫なのではなく、低い確率ではあっても、確実に放射線被曝被害は起きている。でも、そのような被害が起こりうることを、政府は完全に無視してきました。殆どの人は、11年前の原発事故によって、今も東日本の広い範囲が、100Bq/kg 注 8 以上の汚染土壌となってしまっていることを知りません。事
故前であれば、黄色いドラム缶に入れて、厳重に管理しなければならないレベルの汚染が、今も東北と関東に広がっているのに、その危険をきちんと伝えず、被曝させ放題。こんな無責任極まりないこの国に、原発を動かす資格などあるでしょうか。
 今、私たちは、低線量被曝注9 によって病気を発症しても、原因は不明のまま。おそらくは生活習慣のせいと片付けられます。そんな『運の悪い人』が、静かにじわじわと増えている。セシウム137の半減期注 1 0 は30年。今ここにいる全ての人が亡くなったあとも、福島原発からばらまかれた放射能は、静かに生命を蝕み続けるのです。



蹂躙される基本的人権

 そんな福島の放射能汚染が、全く元通りにならないままなのに、政府の勝手な判断によって、避難住宅の提供も打ち切られました。私たちは署名を集め、内閣府や各省庁と話し合いをし、無用な被曝を避ける権利を求めて訴え続けましたが、官僚たちは壊れたレコードのように、全く答えにならない文言を繰り返すばかりでした。国が聞こうとしないのなら、と、国連や、ローマ教皇にも直接訴え注 1 1 ました。しかしこの国は、国連の勧告注 1 2 にも正面から向き合わず、ローマ教皇の説教注13 も聞き流してしまいました。そして6月の最高裁判決注 1 4 では、国にはこの事故に対して責任はないという、無責任極まりない判決が出されました。正義は、私たちの人権は、一体どこに
あるのでしょう。『原発事故の避難者は、十分な賠償金をもらって、新しい家に住んで贅沢な暮らしをしている』というような、事実とは全く異なる風評によって、私たちは、いじめや差別に遭いました。息子は当時受けた過酷ないじめによって、今も心を病んでいます。仮に多額の賠償金がもらえていたとしても、それで奪われた人生を取り戻せるものでも無いのに、ただひとこと、『辛い』と言葉をもらす自由さえも奪われるのです。原発によって歪められたお金は、人に幸せをもたらすことはありません。

被害者の声は未来への警告

私たち被害者は、その属性を知られるだけで、差別に晒されます。被害を訴えれば、復興を妨げる風評加害者だと攻撃されます。ましてや顔と名前を出して訴訟など起こせば、隣人や親せき、時には家族からも攻撃され、それまでの生活を失います。それでも、被害者が声を上げるのは、あまりの不正義と理不尽があるから。そして同じ苦しみを持つ人がたくさんいるからです。黒い雨を浴びた方々や、小児甲状腺がんに罹患した子どもたちが裁判を起こしたのも、同じ苦しみにある人たちがいたから。私たち被害者の声は、未来への警告です。この陳述の冒頭に述べた共同墓地には、まだ墓石の無い草地があります。そこが、いつか私が眠る場所です。死んだら福島に帰れる。そう決めた日から、少しだけ心が楽になりました。帰りたい、という言葉をずっと封印してきた11年。生まれた場所ではないけれど、夫と結婚し、初めて家を建て、子どもたちが生まれ、たくさんの幸せを育んできた福島が、今でも私のふるさとです。願わくは、私たちのような思いをする人が、二度と出ないように。これ以上、原発によって国土が汚染され、人々の暮らしが歪められないように。祈りを込めて、私は、伊方原発の再稼働に反対します。
ご清聴ありがとうございました。

 鴨下さん、心のこもった訴えを本当にありがとうございました。参加の皆さん、心打たれたことと思います。まだまだ苦しい闘いの日々が続くことと思います。どうぞ、お子様たち、お連れ合い、ご家族の皆様と共に安らかな日々が来ることを願っています。応援しますね。

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