ラヴちゃん
今朝、訃報が入りました。7月6日に、土谷病院に会いに行ったとブログに書いていますが。晩々舞のラヴ子ママです。ラヴちゃんとは、彼がまだ18歳の時からのお付き合い。馬小屋というゲイバーに勤めていました。その時は、彼は失恋したと、坊主頭で、つなぎのジーンズを着た、本当にかわいい男の子でした。そのころからの、長い付き合いでした。数えてみると、43年。
やがて馬小屋で、当時の大ヒット曲、ジュディ・オングの「魅せられて」(1979年2月リリース)を、白い衣装で歌い、その妖艶さ、美しさ、歌のうまさでやんややんやのこちらも大ヒット。客が連日押しかけました。たくさんのファンがついて、独立。ラヴ子ママのお店はこれもいつも大ヒットで、なかなかお店に入れない、お店に入るために待機するお店があったりして。フィリピンパブをしたときには、大きなお店がこれもまた大盛況で。ラヴちゃんは語学の天才。英語もフランス語もペラペラ。この時は、英語だけでなく、タガログ語も駆使して、フィリピンから来たダンサーたちを上手に使っていました。
ラヴちゃんと私は、お店のママと客だけでなく、少々変わった関係なのかもしれません。ラヴちゃんの恋はよく聞かされていました。まさかというような大物俳優、野球選手、歌手、企業の大物の方たちとの付き合い、でもいつも彼は「おかまの恋は、破滅の恋だから」と言っていました。今より、少し前の時代。今なら、性別適合手術をうけて、好きな人と結婚をすることもできるのですが。
ペットショップをしていた時には、飼ってた猫を預かってもらったことも。
あのHIV、エイズパニックで世界中が右往左往した時。私たちは「広島エイズダイアル」を立ち上げ、研修会を開催し、電話相談に、陽性の人のケアに、と忙しくしていました。その時の研修の一つ、同性愛について、彼が講師を務めてくれました。知らなかったこともいっぱいあって、それは勉強になりました。
でも、何といっても、最高に感謝していることは。当時、私の患者さんである高校生。彼女は元は男性。GIDで戸籍上も女になることが悲願でした。高校を卒業する時早く女になるためにお金を稼ぎたい、だから大学にはいかない。お金を稼ぐためには、との相談を受けて、よく話しあった末に、私はその彼女をラヴちゃんのお店に連れて行ったのです。ラヴちゃんは、じっと彼女を見て、分かったと言いました。私はなんの説明もしていなかったのですが、察してくれたようです。そして、電話を一本。やがて、広島で一番のゲイバーのママがお店に現れました。ラヴちゃんは、私のお店よりも、このママに所で働きなさいと言いました。ママは彼女を見て即、私に「わかりました。ちゃんと預かります。」と言って下さいました。
ラヴちゃんは、30年以上腎不全で血液透析を受けていました。模範的な患者さんでした。そして、腎がんが肺に行っているとわかってすぐ、アッという間の訃報となってしまいました。
先日の岡山の曹源寺での蓮の花です。ラヴちゃんに捧げます。
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