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長島愛生園

市場さんの案内での曹源寺、牛窓から、この橋を通って長島愛生園へ。来るまで、市場さんの車には、地元の歌手の方の歌が流れています。長島愛生園についての歌です。邑久長島大橋。これができたのは、なんと、1988年。ついこの前です。長島愛生園が作られたのは、1930年。1931年にはらい予防法が作られ、強制的に隔離政策が取られました。1943年には、治療薬プロミンによる効果が発表され、世界的には、ハンセン病は治る病気とされたのに、日本では、いつまでも隔離政策が取られ続け、らい予防法が廃止されたのは、なんと1996年です。今に至るまで、患者さんは、ずっずっと差別に苦しまれてきました。

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車を停めて、広い園を案内していただきました。市場さんは、ここ、愛生園の看護学校の教師を長い間していらっしゃいます。

ハンセン病の患者さんを収容する桟橋。ここで、両親、家族、社会とのお別れの場です。

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患者さんは、直ぐ前にある「回春寮」に入ります。ここで、すべての荷物は没収され、消毒風呂に入れられます。全身、クレゾールで消毒されたと。

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 医師の診察後、軽症の人はこの大部屋で暮らします。今、ベッドは一つだけおいてありますが、ここに沢山のベッドが並べられていたと。

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納骨堂。ここで亡くなっても、地元で引き取られなかった遺骨は、この共同墓地に納骨されています。県の資料によると、療養所で亡くなられた入所者3242名の内、3089柱をお祀りしてあります。(2022年6月1日現在)

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そして、本当に許せなくて胸が痛むのが、この水子供養。ここに収容された方たちは、結婚が推奨されました。しかし、子を産むことは許されず、不妊手術、堕胎、または生まれて来た子を殺めるなどで、本当に悲しい思いを強いられました。

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こうして家族とも別れ、隔離されたのは、大人だけではありません。子どもたちも沢山。小学生も中学生も。そして、この高校の跡を見せてもらった時、胸の痛みはどうにもならなくなりました。

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教職員室。上の写真の左側の建物です。床が朽ちているので入れませんでしたが。

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この後、歴史館、さざ波ハウスなども案内していただきました。さざ波ハウスでランチをとるつもりでしたが、お客さんが多くてかなわず、残念でした。

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歴史館には、さまざまな患者さんの生活の写真等も沢山。いろいろな才能のある人たちが。素晴らしい絵を描く方、役者さんもいて、劇団を作って演劇の発表会をしたり、音楽家は楽団を作って演奏会をしたり、陶芸家もその作品が残されていますし、文学にたけた人は小説や歌の発表もしています。

何よりも大切なのは、これは決して過去の事ではなく、今も100人を超える方たちが、この療養所で医療を受けながら、生活もしていらっしゃるということです。

 2001年5月、裁判所は、「らい予防法は憲法違反であった」と、国の責任を認めています。

時間の関係で、歴史館の二階にはいけませんでしたが。そこには、子どもたちの作文等が展示してあると。それは観れませんでしたが、県の資料に子どもたちの詩や作文がありますので、最後に、そこから引用させて頂きます。

おかあちゃん 小学四年

 わたしはよるねるとき、おかあちゃんのことをおいのりして、ねます。そしてまたふとんをかぶってねるときにまたおかあちゃんのことをおもいだします。そうすると、めからなみだがでてきます。おかあちゃんもきっとおもいだして、わたしとおなじようにないてくれるとおもいます。
 いまごろは、おかあちゃんは、なにをしているだろうなと思うこともあります。わたしはおかあちゃんが元気でいるように、こんやもいのっています。

  中学一年

さんばしへ行って海をみた
冷たい風が
 私のほおをなぜていく
むこうの方をみると
青い青い海が
ずっと向こうまでひろがっている
その青い海が太陽に照らされて
きらきらまばゆく
かがやいている
 私はこの海を
どこまでもいけば
母のいる土地へ行けるのだな
と心の中でつぶやいた。

友だち  小学六年

てすりに
 もたれている友
目かくし
 しようと思って
そっと
 後ろにまわったら
手紙をもって
 泣いていた。


 



散歩 中学一年

 あんまり淋しかったので、私は一人で散歩に出た。どこをどう歩いたのかわからないうちに、海岸に来ていた。砂浜に腰を下ろしながら向こうの海を見ると、月の光に美しく光っている。私はいつの間にか故里のことを思い浮かべていた。今頃母は何をしているだろうかと思うと悲しくなって来る。
 つぎつぎに懐かしい思い出をたどっていると、いつか涙が出る。私はたまらなくなって、「お母さん」と大きな声で読んでみた。答えがあろうはずはない。
 波が静かに寄せる音がするだけだった。私は淋しさをまぎらすために、月見草を摘んでは海に投げた。小石を拾っては投げた。
 でもさびしさは私の胸ふかくこびりついて、どうにもならない。かえって益々さびしくなるばかりである。漁火もさびしげに揺れていた。月も寂しげに私を照らしているようだった。私はいつまでもいつまでも月を見ていた。

市場さん、大切な所を案内して下さってありがとうございました。

この後、岡山市内に移って、「みどり岡山」の総会で講演をさせて頂きました。ものすごく充実した岡山の二日間でした。何もかも市場さんのおかげです。心から感謝します。

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コメント

被爆78年:願平和 点滴穿石 私も6月初めに長島愛生園へ、広島の高校生の紹介で行ってきました。全国に13か所の国立ハンセン病療養所、瀬戸内海には邑久光明園・大島青松園と3か所が、歴史資料館の学芸員さんに先生も廻られた色々な施設を案内して頂きました。特に「患者収容桟橋」には・・・。沢山の資料を頂きましたがその中より:「手と手から」患者収容桟橋についての記述、「入所者にとってこの桟橋は社会や家族との別れの場所でした。お父さんやお母さんに二度と会えなくなる自分を想像してみて下さい。入所者は患者専用の列車や車で運ばれてきました。「収容の途中、歩いた場所を真っ白に消毒された」と入所者は言います。そんな光景を見た市民は「ハンセン病は恐ろしい」と思い患者を嫌ったのです。(盈進中学高等学校ヒューマンライツ部より)
まさにここから差別の構造がうまれ、そしてそれを消し去ることが、現在も出来ていません。JR岡山駅から赤穂線にて「邑久駅」で下車、そこからバスで約一時間、
バスの本数が少なくて大変でしたが是非訪れて欲しいと思います。先生、8・6は間もなくですね。

投稿: 小倉っこ | 2023年8月 1日 (火) 11時44分

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