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ABCCの内部情報を流出させた日本人職員について②

 ABCCの原爆小頭症の名簿を記録して、秋信さんに届けたのは、山内(旧姓楠本)幹子さんと言います。平尾さんは、その山内さんに2017年、お体がもう悪くて、長い間座っていることもできない状況で、でも、記憶はしっかりしていらっしたそうですが、長いインタビューをしていらっしゃいます。この論文は、そのインタビューをもとに書かれました。

 昭和19年に父親がトラック島に召集され、彼女と食べ盛りの三人の弟はたべものがなく、本当に苦しい生活を送っていたそうです。(これについては、彼女自身が「日本民主主義同盟広島支部の「ひろしま24号」に手記を寄せています。空腹と、空襲警報が出た時の恐怖がとてもリアルに描かれています。)


 1945年8月6日、彼女が行っていた山中高女の1年生と2年生の生徒らは、朝から建物疎開の作業に当たっていて、原子爆弾によって雑魚場町(今の国泰寺)でほとんどが死亡しました。

 しかし、弟と共に尾長の下宿に住んでいましたが、8月6日の数日前、食べるものがなく、衰弱している二人を訪ねて来た母親が江田島に連れ帰り、食べ物を口にさせたと。ここのあたりが、多くの人の運命というのでしょう。彼女が学校に帰ろうとした8月5日に、地元の友人が「じゃがいもを分けてあげる」と言い、そのために一日帰るのを遅らせたと。6日に帰ろうとしたときに、空襲警報が鳴り、船の出発が遅れました。その時に、切串港から大きな火球を見ています。急いで防空壕に逃れるも、爆発音と爆風は対岸の島迄届いたそうです。

 その40分後から、重症者たちが船で島に運ばれてきたそうです。同級生の姿もありました。ひどく傷ついたもの、遺体となって帰って来た人もいました。

 「学校は焼けてしまって。江田島から見ると毎晩赤々と焼けているんですね。広島が。それで母が行かせてくれなかった。5日目に広島の火が消えて、ようやく行かせてもらったら、学校も何もなかった。(学友も)全部亡くなりました。全部。もう全然・・・・。2年生で助かったのは2人いたんですけど、早く亡くなりました。1年生でひとりいたんですけど、早く亡くなられました。」

5日目の市内に入った山内さんは、入市被爆者となりました。

実は、私は2017年2月20日のブログで、江田島の切串の港のすぐそばに、慰霊碑があるのを写真に撮って書いています。

Img_3865

慰霊碑の裏に書かれている文章です。「昭和20年8月6日、世界で初めて原爆が投下されて多数の犠牲者を出しました。その一部の遺体がその後間もなく来襲した枕崎台風により鷹の巣の砂浜に漂着し、その幾多の人々の現状は想像に絶する過酷なものであった…そられの無縁仏のご冥福をお祈りしたい・・・」

戦後学校は安浦に移転しました。同級生が336人だったのが、被爆を免れ再会できたのは、30人くらいになっていました。しかし、その学校では、また、激しい飢え、ノミ、シラミ、南京虫に悩まされました。水道もなく、みんなお腹を空かして、ぼんやりしていたそうです。そして、学校へ自分の娘がいないかと探しにきた家族に、なぜあなただけ生きているのかと激しくののしられたりします。


また明日続けますね。

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