再び広島市「平和ノート」について②
昨日の日曜日、高齢の被爆者、森下弘先生に会いに行きました。先生には、今年の「8.6ヒロシマ平和の夕べ」でのお話しをお願いし、了承して頂いています。これまでの私たちの活動の歴史や資料等をお送りしていましたが、改めてお会いしてお願いしたかったのと、確認したい事があったこと、チラシに使うお写真を撮りたかったのと、そんな理由があったからです。
先生は、おうかがいしたことには、「ちょっと待って」と立ち上がって、すぐにその件の資料をもって来られます。
私たちがこの度の平和の夕べでお話しを伺いたいのは、被爆体験だけでなく、重症の火傷や放射線障害に痛めつけられながら、その後、どのように立ち上がり、そして子どもたちへの平和教育に取り組んでこられたのか、そのお話しなのです。これまでも、平和の夕べの中で伺って来たのは、被爆者の方たちの揺るぎない闘いについてです。
今のように、平和教育がつぶされようとしているこの時こそ、平和教育の原点に立ち返って、初期の頃の先生たちのお話しをお聞きしたいのです。被爆教師の会の先生方が、自らの体がつらい中、「核兵器廃絶」を求めて、血がにじむような活動を続けてこられたことを存じています。でも、今はそのほとんどの先生方が亡くなってしまいました。石田明先生、空辰男先生・・。森下先生に早くお話しをうかがいたいと願っていました。今、先生が持っていらっしゃる沢山の貴重を資料をどうするのか、それも課題になっています。先生は、もうご高齢ですが、でも、会場に来てお話しくださると、言って下さいました。
私たちのスタッフの一人、Tさんのお兄さんは、森下先生と同じ一中で、一緒に鶴見橋のたもとで被爆したはずとのことを聴いていましたので、そのことをうかがうと、さっと「広島一中の被爆のアンケート」を持って来て下さいました。その中に、まぎれもなくTさんのお兄さんのアンケートがありました。それには、とても詳しく、被爆の前後のことが書かれていました。
それから、先生たちが苦労して作られた、高校生用の平和教育の副読本も見せて下さいました。
これに収録されている一つの詩を転載しますね。第二節 長崎の証言から。
写真の中の友 峡 草夫
三人写っている中で
真ん中に威張っているのが 生きている俺
右と左にかわいらしくくるくる頭で立っているのが
死んだ二人の友
まだ二十前の俺を挟んで
懸命にすましこんでいる
俺より四つ年下の二人の友
一九四五年春の写真。
その一九四五年に二人は死んだ
一人は八月九日に
一人は十日後に。
八月九日に死んだ一人を
十日後に死んだ一人が
泣きながらかついできた
八月九日。
親もとにいて徴傭されるよりましだろうと
まだのびきっていない柔らかな手を
懸命に力ませながら
機関車の掃除をしていた二人。
三百キロはなれた親もとに
毎日手紙を書いていた
まだ数え年十六歳だった彼ら。
弾丸と兵隊ばかりを牽いて
地ひびきを立てて走っていた機関車
徴傭がこわいばっかりに その機関車を磨いていた
かわいらしいくるくる坊主の頭の二人。
八月九日死んだ一人を
十日後に死んだ一人と俺が
呆けたようにうろうろと
運んで焼いた屍の街
そして
十日後に死んだ一人を 俺一人が
よろよろと運んで焼いた
灰色の街。
一九四五年の写真。
一九四五年に死んだ 俺より四つ年下の写真。
彼等を俺が焼いた 屍の街の灰色の記憶
俺が焼いた 彼等の骨の色のような
灰色の記憶。
しかし さようなら 俺より四つ年下の
写真の中の二人
俺はお前たちに
俺の「決心」をおくろう
それは
お前たちを殺した灰色の
お前たちの骨の色のような
その記憶をくり返さぬためにする
俺の唯一の決心。
さようなら
二人の俺の友だち。
(本名、森年房。国鉄出身で全日自労長崎分会の教宣
部長であったが、一九六二年八月七日、がんで亡くなった)
平和ノートから、どんどん被爆の実相が削られて、そして、何より「核廃絶」ではなく、「核軍縮」へとその教育の方向を変えようとしてる、それがまざまざと見えてくるのです。
この項、まだ続きます。
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