米澤鐵志さん追悼会・続き
今日の性教協の例会、沢山の方に来て頂いてありがとうございました。作って行った資料が足りなくなって、申し訳ないことでした。今日の内容については、また明日お話しますね。その前に、昨日の米澤さんの追悼会のお話しの続きです。
米澤さんは、10歳の時に、市内電車に乗っていて、爆心地から750メートル、今の流川のあたりで原爆に合いました。電車は黒焦げ、運転をしていた女性も真っ黒に焼かれて即死。窓辺にいた人達はガラスが全身に突き刺さり・・。米澤さんは、満員電車の中ほどで人々に埋まるようにしていたために、助かりました。お母さまとやっとのことで電車から脱出、熱風と火に追われながら逃げ伸びました。疎開していた志和に何とか帰り着いた、その翌日からお母さまも鐵志さんも40度の発熱、髪も全部抜け落ち、苦しみます。お母さまは、9月1日に亡くなりました。そして、そのお母さまの母乳を飲んだ一才の妹も被爆はしていないはずなのに、お母さまや鐵志さんと同じように髪は抜け、体にぶつぶつが出て、そして10月19日に亡くなってしまいました。
鐵志さんは、みんなが死ぬと思われていたのに、やがて健康を取り戻し、学校に行くようになって。でも、髪は抜けたまま、顔にはぶつぶつができたままで、みんなに「つるはげのテツ」等と呼ばれ、いじめられたそうです。
その米澤さんは、少年時代から亡くなるまで、反戦運動、労働運動に身を捧げられました。私も少年時代の米澤さんの事を、プレスコードの中、福屋の屋上からビラを撒いた方から聞いたことがあります。
その米澤さんの被爆証言が、ドイツ語に翻訳されて、亡くなったひと月後の12月に冊子が完成したのです。ハノーバーの市長から、米澤さんは招待されて、今年の5月にドイツに行く予定で、楽しみにされていたのだそうです。本はドイツ語と日本語の両方で書かれています。
この本を参加者は一冊ずついただきました。
おもて表紙。ここからはドイツ語が始まります。
うら表紙。こちらからは、日本語の証言が始まります。
この本を作るにあたって尽力された山本元大阪府議が話されました。この本のタイトルをどうするかになった時、ドイツの学生は、うら表紙にあるような長い名前はダメだと。では「はだしのゲン」を知っているかと尋ねると、これはみんな知っていると。それなら「つるはげのテツ」にしようとなったと。「はだしのゲン」と「つるはげのテツ」。つい、笑ってしまいました。本の中にあります。
「はやしたてるだけならまだしも、追い抜きざまに、そろばんで頭をなでたり、素手でさわったりして、「やっぱりすべるのー」「つるつるじゃのー」とからかうのでした。我慢していることもありましたが、ときには、「このやろう、おれは原爆でピカピカになったなんじゃ。おれが悪いんやない。アメリカが悪いんじゃ。もう一度言うてみい。許さんぞ」と言って、からかった子どもをたたきのめしたこともありました。」
山本さんは、さらにこの本をエスペラント語、英語、フランス語、韓国語等に翻訳すると。できれば、G7の広島で配りたいとおっしゃいました。そのために、自分のお金は全部使うつもりだと言われました。本の最後には、こう書かれています。
「核は人類はもちろん地球上のありとあらゆる存在、生態系と共存できません。直ちに核兵器を廃絶し、原発を止めるよう、また平和憲法を変えさせないよう叫び続けていくことを改めて決意し、さらに行動し続けていきます。」
わたしも、世界中の人に読んで戴きたいと思います。この会を準備して下さった皆様、ありがとうございました。米澤さんにはもう来て頂けませんが、これからも「8.6ヒロシマ平和の夕べ」は頑張って続けます。合掌。
『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。
| 固定リンク
コメント