広島市の平和教育について⑤
改訂版の「平和ノート」、正しくは「ひろしまへいわノート~いのち・しぜん・きずな~」小学校1・2・3年の3年生の部分は「せんそうがあったころの広島」として学習1子どもたちのくらし、学習2引きさかれる家族~ちづこさんのお話~、学習3つたえたいこと~岩田美穂さんの取組~、そしてさがしてみよう広島市にのこるひばく樹木の構成となっています。
この中の2が「いわたくんちのおばあちゃん」の被ばく体験なのですね。
絵本に書かれた、ちずこさんのあの悲惨としか言いようのない、胸がふさがれるようなあの体験が、では、「へいわノート」にはどのように書かれているのでしょうか。私が昨日のブログで絵本から抜粋したところと同じ部分です。
「一人ぼっちになったちづ子さん
8月6日の朝、ちづ子さんは西観音町のかんづめ工場に向かいました。かんづめ工場に着いたちづ子さんが友だちと話していた、その時—ー。午前8時15分、世界で初めて、原子ばくだんが投下されました。大きな音とともに工場がくずれ落ち、ちづ子さんは、がれきの下じきになりました。なんとかがれきからぬけ出し、急いで帰ろうとしましたが、家の方を見てみると、目に入ってきたのは、まっ赤な火の海で、帰ることはできませんでした。
ちづ子さんは、少しの間しんせきの家ですごし、火の手が落ち着いてから、家族をさがしに行きました。町は焼けて、すべてがなくなっていました。やっとのことで家にたどりついたちづ子さんが見たものは、亡くなった家族のすがたでした。」
これだけです。この後は、「せんそうが終わり、ちつ子さんは、お茶屋さんを立て直し、新しい生活をスタートさせました。」と続くだけです。
ちづ子さんの被爆体験は、こんなものではないはず。絵本に書かれていた、
工場で下敷きになったちづ子さんたちのさけび声も、真っ赤な火の手から振り返りながら逃げた姿も、全身やけどやガラスがささったりの大けがをした大勢の人たちの姿も、がれきと一緒に転がっている沢山の死体も、そして何より家族の死体を見つけた時のこと。
「やがてあらわれたのは、こげた体が二体。
この大きいのは、お父さん?そばの小さいのは・・ひろちゃん?。焼けてしまった体。その大きさではんだんするしかありません。見覚えのあるタイルがわずかに焼け残っていました。
間違いない、ここはうちの台所。そこにうずくまるようにしてなくなっていたのはお母さんと末っ子のきみちゃんでした。あのしゅんかんお母さんはとっさに小さなわが子をそのむねにかばったのでしょう。強く強く抱きしめたのでしょう。
二人のむねが合わさったところだけ、ほんの少しだけ洋服のぬのが焼け残っていたのです。これはお母さんが着ていたブラウス、これはきみちゃんが着ていたワンピースの花もよう。
ちづこさんは泣きました。小さな二まいの布の切れはしをにぎりしめずっとずっと泣き続けました。」
これらは、何にも出て来ません。ただ、「ちづ子さんが見たものは、なくなった家族の姿でした。」だけですよ。それから、学徒動員で亡くなったもう一人の妹のことも。700人の女子生徒が亡くなったこともでてきません。
「へいわノート」には、ただ、絵本のあらすじが書かれているだけです。これでも、「はだしのゲンの代わりに、感動的な被爆体験の絵本を採用した」と言えるのでしょうか。子どもたちには、できるだけ被爆の惨状は知らせない方がよいとされているのでしようか。
まだ続きます。
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