広島市の平和教育について④
「はだしのゲン」の代わりに平和ノートの収載されたのは、「いわたくんちのおばあちゃん」です。2006年に主婦の友社から出版されたものです。絵本では、小学4年生の岩田君のおばあちゃんの被爆体験が語られます。
岩田君のお母さん、岩田美穂さんのお母さん、綿岡智津子さんは被爆当時16才の高校生でした。両親と三人の妹の6人暮らし。被爆前日の8月5日に家族みんなで写真を撮ります。でも、その写真に写っていた智津子さん以外の5人はみんな原爆で亡くなってしまいました。以来、智津子さんは家族のだれとも一緒に写真を撮らなくなりました。
缶詰工場に学徒動員で行っていた智津子さんの被ばくのところからの文です。漢字や文章は正確に転写していますが、行替えはしていません。
「八月六日午前八時十五分、世界で初めて人の上に原子爆弾が投下されたのです。目がくらむような光。そのしゅんかん、大きな音とともに工場がくずれ落ちました。ちづこさんは、がれきの下じきになりました。何が起こったのかわかりませんでした。近くから遠くから
「だれかー」「助けてー」「先生ー」。泣き声、うめき声。たくさんの声が重なり合って聞こえてきます。「明るい方へ行け!」だれかがそうさけぶのを聞いてちづこさんは一心にはい出ました。たちこめる土けむりの中、動ける人はみんな思い思いの方向へバラバラとにげ出していきます。
わたしもにげなくちゃ!ちづこさんは家に帰ろうとしました。しかし、原爆が落とされたのは、ちづこさんの家の近く。こちらに向かって沢山の人たちがにげてきます。だれなのかわからないくらいひどいやけどをした人。爆風でふき飛ばされたり、ガラスが全身につきささったりして大けがをした人。たいへんな姿のたくさんの人たち。家には帰れん。どこに逃げたらええん?やがてちづこさんは思い出しました。(略)山の方にある親せきの家。道という道も分からない中、ちづこさんは歩きました。ふり向くと、真っ赤にもえる町が迫ってくるようです。歩いて歩いて歩いて歩いて最後は倒れこむようにその家にたどり着きました。
(中略)
次の日。ちづこさんは家族をさがしに広島の町にもどりました。町は無残にこわれはてたくさんの死体ががれきといっしょに転がっています。私の家はどこ?丸いドームの鉄わくを残し、くずれかけたコンクリーの建物。そんな建物の残がいと市内を流れる川を目印に家があった場所をさがします。ここらへんかもしれん。すべてが真っ黒で炭のようです。何か焼けずに残っているものはないかと手でそこらじゅうをほりました。やがてあらわれたのは、こげた体が二体。
この大きいのは、お父さん?そばの小さいのは・・ひろちゃん?。焼けてしまった体。その大きさではんだんするしかありません。見覚えのあるタイルがわずかに焼け残っていました。
間違いない、ここはうちの台所。そこにうずくまるようにしてなくなっていたのはお母さんと末っ子のきみちゃんでした。あのしゅんかんお母さんはとっさに小さなわが子をそのむねにかばったのでしょう。強く強く抱きしめたのでしょう。
二人のむねが合わさったところだけ、ほんの少しだけ洋服のぬのが焼け残っていたのです。これはお母さんが着ていたブラウス、これはきみちゃんが着ていたワンピースの花もよう。
ちづこさんは泣きました。小さな二まいの布の切れはしをにぎりしめずっとずっと泣き続けました。
あの朝、ちづこさんと一緒に笑顔で家を出たかよちゃんは、それっきり見つかっていません。かよちゃんといっしょに作業をしていた女子中学生は七百人ほどいたといわれていますがだれひとりとして生き残ることができませんでした。
八月六日。ちづこさんはひとりぼっちになりました。」
この、悲惨な迫力のある文章。絵については、悲惨なところ、例えば被爆した人が逃げている所や、死体が転がっている所等は、ほとんど描かれていません。これを読む子どもたちへの配慮でしょうか。これについては、いろいろな論があるでしょう。原爆資料館から被爆した人形がすべて取り除かれた、それと通ずるものがあるのでしょうか。
では、この読んでいて胸が詰まるようなこの文章が、平和ノートには、どのように書かれているのでしょうか。平和教育のの一つとして「被爆の実相を知る」とされていますが。
(まだ続きます)
『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。
| 固定リンク
最近のコメント