「はだしのゲン」・中沢啓治さん
中沢啓治さんの「はだしのゲン」が、広島市の小学3年生の平和教育の教材、平和ノートから削られるというお話。ついにか、と思いました。全国から先生方のお力でもあるのですが、修学旅行で平和公園に多くの生徒さんたちを連れて来て下さる姿を観ます。学校によっては、資料館の見学だけでなく、被爆者の方たちからその体験を聞く事も行われています。やはり、直接に体験した方のお話しを聞くのは、何よりも迫ってくるものがあります。でも、みんながその体験を聞くことができるわけではなく。それに、広島市の方が、却って直接話を聞く事がされていなかったりもします。
今回、教材から削るというのは、さもありなんと思いました。広島市のますますの右傾化に伴ってのことでしょう。わかりにくいだのというのは、屁理屈であると、これは誰でもわかること。そうではなく、明らかに右派からの圧力であると、私はそう思います。もう沢山の方がこれについて言及されているので、同じことは言いませんが。
私が知っていることは。あの漫画の中のゲンの体験は、中沢さんの体験そのものであるということです。被爆だけでなく。中沢さんから直接聞いたことですが。お父様は、あの戦時中に、がんとしてこの戦争は間違っていると言い、逮捕されていました。帰って来られた時には、痩せこけて、歯もがたがたであったと。お父さんが非国民でつかまってしまった後、お母さんのご苦労はいかばかりであったことでしょう。
長い間、毎年平和公園でお花見をしていました。一年に一回のお花見を楽しみにしていたみんなで、積る話をしていました。こちら向きの真ん中が中沢啓治さんです。
右の方の小さな男の子の右側が中沢さん。ある年のお花見で、李実根さんが「はだしのゲンに朝鮮人が出てくる。あれは、誰に話を聞いたのか?」と中沢さんに尋ねました、中沢さんは、僕です。と言われました。隣にね、朴さんがいて、とっても良くしてもらいました。と。あの時代に、お父さんの心は、人を差別してはいけない事をしっかりと啓治さんに教えたのです。そんな育て方をされたからこその「はだしのゲン」なのですね。
そして、あのひどい原爆を体験した中沢さんは、線香の匂いが嫌いでした。だから、自分が死んでも、ぜったいに線香やお経はいらないと、固く言われていました。
2011年、「8.6ヒロシマ平和の夕べ」でお話し頂いた時、チェルノブイリの、甲状腺がんになった少女のことを心から可哀そうだったとおっしゃいました。
その年に体調を崩された中沢さんは、翌年の8.6には平和の夕べに、講談「はだしのゲン」の神田香織さんに会うために会場に来て下さいました。神田さんも会場の皆さんも大喜びでした。
あの被爆の惨事を、どう子どもたちにつたえたらいいのか、漫画を書きながら、とても苦しまれたと。奥様にもお話しを聞きました。うーん、面白くないねえと奥様もいい、友達を登場させて、ストーリーを面白くする事を思いつかれてたと。そんな苦労をして、身も心も絞るようにして書かれたゲンです。
「英語ではだしのゲンを読む」講座の最終回には中沢さんご夫妻がいらっしてくださいました。
もう、大分お体がつらくなられていましたが。「ゲンが英語をしゃべったねえ」と、とてもうれしそうにおっしゃって下さいました。世界中の言葉に翻訳され、世界中の人たちにゲンが愛されている事を実感なさったようでした。
人を愛し、権力ととことん対峙し、まっすぐに生きたた中沢さんは、ゲンそのものです。そんなゲンが疎ましい人たちが、今回の事を企てたのでしよう。見え見えですよ。これから、ますます「はだしのゲン」は、世界中に羽ばたいていくでしょう。私もこれからもその一役を担おうと思います。
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