劇団民芸「泰山木の木の下で」に怒っています。①
11月27日、日曜日の午後、「広島文学資料保存の会」主催の朗読劇「神戸ハナという女の一生」を観たと、その日のブログに書きました。
http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2022/11/post-e0818b.html
そのブログの最後に、「ちょうど時を同じくして、この「神戸ハナという女の一生」を発展させた「泰山木の木の下で」の劇団民芸公演が市民劇場で上演されます。私は、3日の土曜日に観に行きます。」と書いています。小山祐士作のこの演劇。私の好きな劇団民芸。主演の日色ともゑさんは、若い時の「アンネの日記」でその演技を見ています。「神戸ハナという女の一生」がとてもよかったので、私は期待して観に行きました。
しかし、その演劇を見終わったとき、いえ、その上演途中から、私には何とも言えない不快感、もやもやが残りました。最後には、怒りともいえる気持ちにもなりました。以来、「泰山木の木の下で」について書かれたものを読みあさりました。もちろん、当日のパンフレットも買って読みました。
「神戸ハナという女の一生」の時に第二部で講演して下さった岩崎文人広島大学名誉教授が「小山祐士戯曲集をぜひ読んでみて」と言われたのを覚えていましたので、その全集も買いました。アマゾンでの中古ですが、それでも高価でした。それは、泰山木の木の下でについて、私が間違えた思い込みをもってはいけないという思いもありました。全集の第四巻に「泰山木の木の下で」が収録されています。その台本を読みました。
「神戸ハナという女の一生」は、元はラジオドラマとして書かれたものです。それをこの度、朗読劇として上演されました。それと泰山木との違い。それは、なんといっても、木下刑事の描き方の違いです。泰山木では、その刑事は、被爆者で、両親が爆死し、彼は施設で育ち、しかも子どもが「奇形児」であると。その奇形児を彼は育てることから逃れ、江田島で妻一人が育てています。私は、まず「奇形児」に引っ掛かりました。奇形児は、せめて障害児に言い換えはできないものかと思いました。劇の中で、何度も何度も「奇形児」と言われ続けました。さらに彼は、妻にその子を押し付けておいて、売春婦の元に通います。その売春婦は、顔にケロイドを負っています。その設定も、私はすごくいやでした。
もやもやした私は、板倉勝久さんに電話をして尋ねました。板倉さんは、高校の演劇部の先輩で、RCCドラマグルーブでもご一緒していました。そして、この度の朗読劇では木下刑事の役を演じられました。
板倉さんは、泰山木は見なかったと言われました。私が尋ねたのは、朗読劇には、木下刑事が被爆者でかつ「奇形児」の父親であることは書かれていたのかということです。それを、あえて削られたのか、又ははじめっから書かれていなかったのかと。そしたら、はじめから書かれていなかったそうです。それに、演出かつハナの役をされた土屋時子さんが「木下も被爆者としたらいいのではないか」と考えられたと、でも、それは岩崎先生が強く反対されて、結局それは採用されなかったと。それで、小山祐士さんが、ラジオドラマをたたき台にして戯曲を書く時に木下刑事の役をそう設定されてのだとわかりました。
さらに、私が観劇中にはきっと聞き逃していたのでしょう。台本を読んで、木下刑事の「奇形児」は、実は無能児であると知りました。であるのなら、なおさらです。劇中では、その子は「5歳」でした。その時代に無能児がそこまで生きていたら、それは世界中の奇跡です。私は大学病院時代に何人もの無能児の赤ちゃんを見てきました。が、その子たちはみんな数日以内に亡くなりました。今、無能児の子をなんとか生かして、臓器移植のドナーとしたらどうかという論議もありますが。
そして、被爆直後には、無能児があちらこちらで生まれたという話も聞きます。でも、その子を育て続けることは不可能です。台本には、その育てている子のことを「サル顔」という言葉も出てきます。
わかっていただけるでしょうか。被爆者がなぜ社会から差別され続けてきたか。被爆者と結婚すると「奇形児がうまれる」というこの偏見にどれだけ被爆者やその子たちが苦しめられてきたか。
せっかく「岩崎夫人」が、中絶を思いとどまって元気な赤ちゃんを産んだという、暖かい設定もあるというのに。
被爆者や二世が、とたんの苦しみの中で産む選択をしてきた、私も含めた多くの人の歴史があります。今、この現代に、この演劇を全国でして回って、それがいまだに続く被爆者差別を扇動することにならないでしょうか。
私は、観劇から10日経った今もなお、怒りがふつふつと沸き上がるのを抑えられません。まだまだ言いたいことがたくさんあります。それは、パンフの中にもあるような、この演劇をほめそやす人たちについても。「広島の人々が背負った「罪」」というタイトルで、劇評を書いた人。顔一面にケロイドのある女性が「売春してしか生きていくことができない女性」と書いています。それを何十回も顔の手術を受けながら、強く生き抜いてきた女性たちに向かって言えることでしょうか。また、彼はこうも書いています。「人々は、原爆の呪いにかかった時から、白黒つけることができないグレーの世界を生きていかなければならなくなる。それが原爆の十字架を背負いながら、戦後を生きるということなのだ。」「原爆と関わった人々は、罪を背負ってグレーの世界を悶えるように生きていかなければならない。社会はその生き方に黒白をつけるより先に、抱えているものの重さを知れ。」何が罪を背負ってですか。大きなお世話、あなたに言われたくないわ。下品だけど、私はそう思いました。
劇中にうたわれた「救いのない歌」についても。
また、明日に続きます。
『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。
| 固定リンク
コメント