ああ、米澤鐵志さん・・。
訃報が届きました。米澤鐵志さん。
電車内被爆者。満員電車で被爆し、奇跡的に生き延びて‥。一昨年まで毎年「8.6ヒロシマ平和の夕べ」に参加して下さって、最近ではまとめの役をしてくださっていました。ここの所、コロナのことがあるし、そして今年は少し体調が悪くて、と、お目にかかることができないままでした。悲しい・・。
2011年8月、被爆電車に乗って証言をしてくださいました。その時のことを私のブログに書いていますので、転写します。
被爆電車・平和学習
昨日は、平和の夕べの最後の企画、被爆電車・平和学習を行いました。
広島駅から、被爆電車に乗りました。被爆した電車は今二台だけ現役で動いています。その一台を貸し切りしました。駅前から原爆ドーム前までの約20分運転して頂きました。沢山の皆様に集まっていただきました。
中では、電車内被爆者の、今、おそらくただ一人の生存者といわれている米澤鐵志さんの説明を受けました。
米澤さんは、広島駅前で乗った電車が八丁堀の福屋デパートの前に差し掛かったところで、被爆。 米澤さんが被爆した辺りの風速は約220メートル。ほとんどの木造家屋は、吹き飛ばされ、約30メートルも舞い上げられ落とされたこと。当然電車のガラスは吹っ飛んで窓際にいた乗客にびっしり刺さったこと。電車を運転していた女性は一瞬にして真っ黒に焼かれて即死したこと、などなど・・・・。
そこから白島に向かって逃げたこと。その途中で見た人々の姿。さらにそこから迫ってくる火に追われるように逃げますが、途中から米澤さんもお母様も激しい頭痛と嘔吐に襲われひどく吐いたこと。
20分はアッという間でしたが、それでも、ここで被爆して、この道をこっちに逃げたなどとてもリアルに実感できました。
その後は原爆資料館東館の研修室に場所を移し、そこで二時間のお話をして頂きました。そこから新たに加わった人たちもいて、超満員。通訳のいらっしゃる外国人の方も含めて、後ろには追加の椅子を出し、さらに立ち席も出てしまって、申し訳ないことでした。
米澤さんは、お母様と命からがら当時疎開していた田舎に戻り、戻ってからのひどい急性症状。それによりお母様は亡くなり、被爆はしていなかったのに、お母様の母乳を10日飲んだだけの一才の妹がやがて髪が抜け、紫斑が出て亡くなってしまったこと。ご本人もひどい状況から奇跡的に立ち直り、元気になったことも語られました。
すでに何回もお伝えしていますが、このようなことをリアルに語ってくださる方たちはもう少なくなっています。今回の米澤さんのお話を聞くことができて、とてもありがたいことだと思いました。
これですべての企画が終わりました。無事に終えることが出来たこと、参加してくださった皆様に感謝申し上げます。それから、広島ブログの方たちも多く参加してくださり、それぞれに記事を書いて下さってありがとうございました。(以下略)
もう一つ、2013年10月2日、米澤さんの二冊目の出版記念会に私が寄せたメッセージについて書いています。それも転写します。
「米澤さんの出版を祝う会」
9月29日、京都で米澤さんの「出版を祝う会」が開かれました。私は広島での講演があって行くことができませんでしたが、出席した関西の仲間が写真と共に報告を送ってくれました。沢山の方が駆けつけて、お祝いをしたと。本は大変な反響を呼び、ひと月ですべて売り切れて、今、増刷をしていると。
以下、私がその会に送ったメッセージです。
米澤鐵志さんは、私たちが行っている「8.6.ヒロシマ平和の夕べに」毎年参加し、そして被爆電車に乗り、その時の体験を話して下さいました。毎年、この関連企画「被爆電車と平和教育」は大好評で、被爆電車はいつも満員です。
11才の少年が満員電車に乗っていて被爆し、その後も過酷な人生を生き抜いたというお話しは、何回聞いても涙なしでは聴くことができません。一緒に電車に乗っていたお母様もその母乳を飲んだ妹も亡くなってしまって。被爆の地獄を見た11才の少年の心中は如何ばかりだったかと思います。
私は、米澤さんと川一つ隔てた町で育ちました。原爆の廃墟の中で、落とし穴を掘っていると、ぞろぞろと骨が出てきました。被爆直後に生まれた私は、そんな廃墟は知っていても、現実に被爆した現場を知りません。
米澤さんが体験した、そのお話しはとっても貴重であり、聴く人の胸を打ちます。もう、三度核は使ってはならないとの思いを強くします。でも、その体験を証言して下さる被爆者は、次々と癌にかかり亡くなってしまっています。米澤さんと同じ町に生まれ育ったはだしのゲンの中沢啓治さんも亡くなってしまいました。
そして、今、米澤さんの「本」ができました。中沢さんが「はだしのゲン」を残したように。今、米澤さんの体験や思いは、子どもたちに広く伝えることができるようになりました。本ができると聞いた時、思わず、ああ、良かった!!とつぶやきました。
米澤さんには、これからも、命の続く限り、みんなに、特に子どもたちにお話しをして上げて戴きたいのです。戦争とはどんなものなのか、原爆の投下がどんな状況を作り出すのか。「あの本の米澤さんだよ、本物に会って話を聞いたよ」。その体験は、一生残り続けるに違いありません。
今日は、駆けつけたい思いで一杯なのですが、ほかに予定があり、残念です。広島の地から、想いを馳せますね。
米澤さん、どうぞ、これからもお元気で。そして、これからも「8.6.ヒロシマ平和の夕べ」にはお元気な姿を見せて下さいね。
「8.6.ヒロシマ平和の夕べ」実行委員 産婦人科医
河野美代子
米澤さんの二冊の本です。
米澤さんは、一緒に電車で被爆したお母さんもその母乳を飲んだ妹さんも被爆からほどなく亡くなりました。11歳だった少年が、奇跡的に生きた後、生き抜くのがそれは大変だったことでしょう。そして、彼は活動家になりました。私が、李実根さんにお話しを聴いた、プレスコードで原爆を語ることができなかったとき、福屋の屋上からビラをまいた話。どうやって逃げたか、ということ等を詳細に話を聞きました。そのビラを持って行ったのが少年だった米澤さんだったと。もっともっと話を聞いておきたかったです。
ご冥福をお祈りします。
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