内密出産について①
今日の木曜日は休診日、午前中クリニックのエアコンの一斉清掃を業者の方に頼んでいたので、一人クリニックに来て、作業してもらっています。私は仕事です。先日書いた原稿「生殖器のがん」のゲラが出来て来たのでその校正です。途中原稿を持ってゲートインに行って、モーニングを食べました。久しぶりです。
赤入れをして、スキャンしてPDFにして、送付。終了です。
ここの所、例の「内密出産」についてずっと考えています。それについて、少し書きたいと思います。自分自身を振り返りながら。
そもそも、「親に言えない」ということ。それは気持ちはわかるのです。私だって、高校生、大学生時代、何より母には何も言えませんでした。そもそも母は結構厳しい人で、何するのも「いけません」という人でした。 私に何か不祥事があると、それこそ烈火のごとく怒る人でした。
小学校の時から、先生に叱られると、それが必ず母の耳に入って(実は友達の一人が、自分の母親にそれを告げて、そのお母さんが私の母に言うという図式が出来上がっていました。)母からももう一度叱られていました。「あんた、先生に怒られたん?お母ちゃんに恥をかかせたね」と。だからもう一度母に叱られるということが憂鬱でたまりませんでした。どこかに消えてしまいたいとさえ思っていました。私は、小学校1.2年の担任にいじめられていました。なぜか自分でもわからないのですが、ひどい扱いを受けていたと思います。えこひいきがひどい教師でした。一生懸命がんばるのですが、それがかえって良くない様でした。先生にとって、私は生意気だったのかもしれません。なぜ怒られるのかわからないまま、廊下に立たされたり、運動場を走って来なさいと言われたり。母になぜ怒られたのか言いなさいと言われても、私自身がわからなかったのですから。わからんと泣くことしかできませんでした。
思春期に入ると、とにかく何も母に知られたくなかったのです。知られないようにすること、それが私の行動の基本になっていたのかもしれません。
そしたら、母は探るようになりました。私の日記を隠れて読んだり、文通をしていた人からの手紙を読んだり、こそこそと探られることが嫌でたまりませんでした。どうやって隠すか、それも私の課題になりました。大切なものはいつも持ち歩くこと、それしかありませんでした。私が友人関係のことなどで悩んだ時、どんなにしんどくても、SOSを求められる人はいませんでした。死んでも母に助けては言えませんでしたね。
熊本で出産した少女が「親には知られたくない」と言った、その気持ちは痛いほどわかるのです。だったら知られないようにすればいい。だけどそれは彼女の名前で出生届も出さない、内密出産とはならない、それが私の方針でもあります。
そんなことで、これからもぼつぼつと書いていきます。
今日は、これから熊野に姉を迎えに行きます。そして、お楽しみ、カープですよ~。負けても負けてもカープファン。タイガースファンのお気持ちも分かりますよ~。
『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。
| 固定リンク
コメント