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私の3.11

昨日は2011.3.11から11年。様々な所で、多くの供養やイベントが行われたとの報道に接しました。私は、帰宅が夜中になってしまったので、なんにもできませんでしたが。それでも、この11年つらつらと思い出しました。11年間私は何をしたのだろうかと。

 私にとっては、東京の娘からものすごい地震があったとクリニックに連絡があってから始まりました。それから、仕事の合間合間に見るテレビでの、これはすごい津波。震えあがりました。今ここでどれだけの人が命の危機にさらされているのだろうかと。

 その後、たくさんの東北の方たちに接しました。特に、原発の事故による放射線に逃れて広島に保養に来られたり、私自身が東北に行ったり。8.6ヒロシマ平和の夕べにも毎年来て戴きました。本も沢山読みました。その一部、手元にある本を。

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多くのブログも書きました。

http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-29ec.html
神田山荘で。福島人たちと。
http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-3ee0.html
福島からの親子たちと宮島へ。
http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-01e8.html
福島の女性たち

2011年の後半からの福島・原爆・原発・8.6関連です。


 



2012年の同じく


 



2013年です。


 




この後、中学生で原発の事故による被曝をし、大学生で甲状腺がんになった男性の支援など、いろいろとありましたが。


私達は何をしているのだろうと。こんなむごい原爆の被害に二度も遭い、福島の原発の事故にも逢い、それでもなお地上の核兵器はなくすこともできず、原発すら、止めることもできず。ましてや、こんな状況なのに、今だに新しくそれも瀬戸内海に原発を作ろうとしていることも止められず・・。

いつぞや、「ヒロシマの運動には原発がなかった」と言ってのけた人がいました。冗談ではない。それはあなたが反原発の運動をした来なかっただけであり、または知らないだけなのだと、偉そうに、と怒って反論したこともありました。ずっと昔から、被爆者運動の師、森滝市郎さんのころから、反原発の運動に駆け回っていられたものだし、2013.01.20のブログ、三村昴先生の涙の大演説を見ても分かるように、核の平和利用などあり得ないのが、原則なのに、まだ止められないでいる。私は、島根原発や伊方原発や、大分の地熱発電や愛媛の風力発電などの見学にもせっせと行ったし伊方原発阻止の訴訟の原告にもなっています。それでも、私達の運動は弱いものです。強大な権力とお金のある人達に負け続けています。

一緒に始めた原君や中村周六さんも亡くなってしまったし、「8.6ヒロシマ平和の夕べ」に来て下さった小林圭二先生も、中沢啓治さんも、那須正幹さんも亡くなったし。

ころからどうしたらいいのだろうかと、あれこれ考えていて、結局朝を迎えてしまいました。それが、私の3.11でした。


 


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