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伊方原発広島訴訟の原告陳述

昨日に続いて伊方原発広島訴訟の、昨日の原告意見陳述を、許可を得てアップさせていただきます。陳述をした山本幸造さんは、我らが「8.6ヒロシマ平和の夕べ」の大切なスタッフです。陳述の中ではお父様の名前は出していませんが、関西では知る人ぞ知る市民運動のカリスマの山本善偉さんです。善偉さんは90才を過ぎても、「8.6ヒロシマ平和の夕べ」にも来て下さり、熱心に話を聴いて下さっていました。その姿を司会していた私は参加の皆さんにご紹介しました。それは、昨日のことのように覚えています。善偉さんについては、またいろいろなエピソードが報道されてもいます。機会があれば、ここにもご紹介したいと思います。幸造さんの陳述は、つい伊方原発というと海のことを考えがちですが、大切な「家畜の飼育」について思い知らされる大切な陳述であったと思います。

広島地方裁判所 御中

意見陳述要旨

山口県周防大島在住

原告 山本 幸造

私は山口県周防大島に住む山本幸造と申します。本日は意見陳述の貴重な機会を与えて頂きまして、まことにありがとうございます。

 私がなぜ原発を、特に私が住んでいる周防大島から直線約42kmの地点にある四国電力伊方原発を止めなければいけない、と考えるに至ったかをご説明します。

 私は大学を卒業後、東北大学大学院の博士課程を修了して、一般社団法人・家畜改良事業団に就職しました。ですから就職したときにはすでに30歳近くになっておりました。事業団では、黒毛和種(肉用牛)の産肉能力検定事業として種雄牛(種牛)造成を担当し、東広島市にある事業団の、広島産肉能力検定場の場長として定年退職するまで、種牛を育てる仕事に携わって参りました。ですから私は根っからの畜産業界の人間として、日本の畜産業の発展、畜産農家の繁栄のために働いて参りました。

 私の人生観、社会観が一変するほど衝撃を受けた事件が2011年の福島原発事故でした。事故の放射能に肉牛・乳牛が汚染され出荷できなくなったのです。生乳は毎日搾乳しなければなりません。牛が死んでしまうからです。毎日乳を搾って近くの川に捨てる酪農家の無念はとうてい言葉にできません。ある酪農家は、将来に絶望して自殺しました。この話は全国の畜産業界関係者にすぐ伝わりました。その酪農家は牛舎の壁面にチョークで、「原発さえなければと思います。残った酪農家は原発にまけないで願(ママ)張って下さい。」と書き残していたそうです。

 畜産業は地道で根気のいる仕事です。永年の営々たる汗と努力と辛抱が必要です。その営みが、たった1回の原発事故でふっとんでしまうのです。そして場合によれば絶望から人を死に追いやってしまうのです。「原発さえなければ」と書き残したその男性の気持ちが、私には痛いほどわかります。

 当然、福島事故で福島を中心に畜産業界も大変な被害、影響を受けました。皮肉なことに、東広島にある私の(産肉能力)検定場から出荷する肥育牛の競り値は上がりました。当時年間約500頭の肥育牛を、東京・品川にある東京食肉市場に上場(出荷)していましたが、事故前は「広島県産・検定牛」と言うだけで競り値は叩かれていました。東北地方の米沢牛、仙台牛、福島牛といった名だたるブランド牛にはかないませんでした。事故後は、逆に「広島県産」というだけで競り値があがったのです。というのは競りに強い東北地方のブランド牛は、放射能汚染の懸念から競り値が暴落したからです。人は風評被害といいますが、根も葉もなければ風評被害です。しかしこの場合、確かに肉牛や乳牛の放射能汚染はあったのです。これは風評被害ではなく実害です。結局のところ、価格の暴落、生乳の出荷停止などで最大の被害を受けたのは、畜産農家・酪農農家です。自然災害ならまだ気持の整理もできますが、聞くところによると、福島原発事故を調査した国会事故調報告は、「福島原発事故は人災である」と断じているそうです。人災で一方的に畜産農家・酪農農家が泣きを見る、こんな不条理はあってはなりません。

 父親は、1943年11月19日に神戸・三宮の東遊園地で開かれた学徒出陣壮行会の時、答辞を読んだほどの軍国青年でした。結局前線に行かずに済みましたが、戦後自分が軍国主義になんの疑問もたなかったことを痛烈に反省し、それが父親の戦後の原点だったように思います。西宮の、関西学院高等部の教師でしたが、同時に理不尽な権力と闘う市民運動の闘士でもありました。3年前に97歳で亡くなりましたが、8月6日広島原爆の日には広島にやってきていろいろな平和集会に参加しておりました。

 私自身はそうした父親の生き方にどこか反発も感じつつ、市民運動には全く無縁でしたが、父親が90歳になった時、ちょうど2011年、福島原発事故の年、猛暑に耐えられないので私に代わりに行ってくれというのです。私は引き受け、「8・6ヒロシマ平和の夕べ」という市民集会に参加しました。

 その集会が、2008年に被爆2世や被爆者を中心に平和を求めてヒロシマの継承と連帯を考え、反核・反原発を基軸に訴えている市民運動団体主催であることもはじめて知りました。私は大いにその趣旨に賛同して入会し、呼びかけ人の一人にもなりました。福島原発事故を目の当たりにして、自分もなにかしなければ、という思いがあったのかもしれません。反発を感じながらも父親の考え方にどこか共鳴していたのかもしれません。

2016年3月に「8・6ヒロシマ平和の夕べ」有志で福島第一原子力発電所事故5年後に、福島現地に視察に行きました。帰還困難区域の寺の住職さん、元小学校校長の方などに案内して頂いて、グランドに雑草が一面生い茂っている無人の学校、延々と続く汚染土壌の入った真っ黒なフレコンバックの山、津波対策の広範囲の湾岸整備工事、城壁の様な防波堤などを見せて頂き、衝撃を受けました。放射能について福島現地の人は、「本来は危ない」といっておられました。覚悟を決め居住を続けておられるように見えました。人が、特に子どもを連れた若い人たちが戻ってこないのは当然のことです。

 復興のかけ声とは裏腹に、事故から10年たった今でも、根本は何も変わっていません、後何年かかるかもわかりません。原発は、一度事故を起こすと取り返しが付かない事がはっきりわかりました。

2019年4月に、Iターンというんでしょうか、周防大島に越してきて、「終の棲家」と定めました。仕事の関係で田舎暮らしが長く、都会がどうしてもなじめません。瀬戸内海も好きです。そのころ、広島で四国電力伊方原発を止めようということで、裁判を起こしている市民グループがあることを知り、躊躇なく原告になりました。私は70歳になりましたが、残る人生を、この社会を少しでもよくするために使おうと決めました。原発をとめ、放射能のない安心して暮らせる環境、きれいな瀬戸内海を守るために使おうと決めました。

大量の「死の灰」(核分裂生成物)を環境にまき散らし、人びとを内部被曝させ、健康を奪い、死に至らしめるという点では原爆も原発も同じです。先日の「黒い雨」訴訟広島高裁判決も、ちょうどその一年前の地裁判決も「内部被爆は外部被曝と異なる危険性がある」と事実認定してくれました。

伊方原発は運転を続ける限り、いつかは重大事故を起こす可能性があります。南海トラフ震源域と中央構造線断層帯の真上に建っているというではありませんか。その時大量の「死の灰」を私たちの頭上にばらまくことでしょう。

裁判官のみなさまには、私たちの命を守るため、二度と福島原発事故のような残虐な事故を起こさせないため、伊方原発運転差止を命じていただきたい、と御願いする次第です。

ご清聴まことにありがとうございました。

私が買った時にはつぼみが一杯ついていたのに、全部落ちてしまい、全く花が咲かなかったハイビスカスが、ネットであれこれ調べて、鉢を大きいのに植え替え、肥料を週二回上げ続けてやっと咲きました。清楚なピンクです。


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次々と咲き続けてくれています。今やお花の世話が楽しみで・・。

 

 

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