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学術会議で熱い議論が行われたこと

学術会議の首相による6人の任命拒否についての論議される中で、「学術会議」そのものについての見当違いの批判なるものがなされています。私は、学術会議での「熱い、感動する議論」がなされたことを以前ブログに書いたことがあります。学術会議とは、こういう所だったんだと、改めてそれを読み返して感動しています。今回、それを再現しますね。2013年1月20日のブログです。初めを端折ります。

「今日の学習会で戴いた中に、広島大学の三村教授の資料がありました。さらに調べて、東京新聞のウェブ版に見つけました。


『日本学術会議の総会は1952(昭和27)年10月23日、東京都内で開催された。


 政治主導で原子力研究の再開を目指す自由党の衆院議員、前田正男(39)の提案に賛成したのは阪大教授の伏見康治(43)と学術会議副会長の茅(かや)誠司(53)だった。2人は政府内に原子力問題を検討する委員会の設置を共同提案し、総会の了承を求めた。


 後に学術会議会長を務め、参院議員にもなった伏見は戦前、阪大で原子核物理を専門とする若手研究者だった。終戦直後、連合国軍総司令部(GHQ)が研究室にあった原子核の実験装置「サイクロトロン」を破壊した現場にもいた。その時の心境を自叙伝「時代の証言」の中で「爆破をぼうぜんと眺めた。涙を流した」とつづっている。


 伏見もエネルギー源として原子力の平和利用を夢見ていた。戦後、海外の論文を読みあさり、研究仲間からも助言を得て「日本にも原子炉はできる」と確信していた。茅は伏見の出身校、東大理学部の学部長だった。


 「工業発展に原子力発電は不可欠だ」。会場でそう説明する伏見に、丸坊主の男が発言を求め、激しく反論した。広島大教授の三村剛昂(よしたか)(54)だった。


 三村は広島原爆の被ばく者。爆心地からわずか1・8キロの自宅を出た瞬間、放射能と爆風を浴びた。崩壊した家屋のがれきに埋まり、2カ月ほど生死をさまよった。首筋にはまだ痛々しいやけどの痕が残っていた。


 「私は原爆をよく知っている。その死に方たるや実に残酷なもの」と三村。「発電、発電と盛んに言われるが、政治家の手に入ると、25万人がいっぺんに殺される」とまくし立てた。


 「米ソのテンション(緊張)が解けるまで、いな(否)世界中がこぞって平和的な目的に使う、こういうようなことがはっきり定まらぬうちは日本はやってはいかぬ。こう私は主張するのであります」「原爆の惨害を世界中に広げることが日本の武器。文明に乗り遅れるというが、乗り遅れてもいい」


 感情むき出しで訴える三村の目には光るものがあった。後に「涙の大演説」と語り継がれた。総会では三村に支持が集まり、原子力研究の再開を目指した阪大教授、伏見らは提案を撤回。結局、学術会議内に臨時の委員会を設け、議論を続けることになった。』

 東京新聞では三村教授の演説はここまでですが、小出先生の著書の中にありました。以下引用します。

『1952年10月24日になって、「原子力委員会を政府に設置すること」、つまり原子力研究を始めようとするいわゆる「茅・伏見提案」がなされました。これに対し、自らもヒバクシャである広島大理論物理研究所長だった三村剛昴さんが、広島の惨状を話した後、以下のごとく「声涙共に下る」大演説をされました。

「だからわれわれ日本人は、この残虐なものは使うべきものでない。この残虐なものを使った相手は、相手を人間と思っておらぬ。相手を人間と思っておらぬから初めて落とし得るのでありまして、相手を人間と思っておるなら、落とし得るものではないと私は思うのであります。ただ普通に考えると、二十万人の人が死んだ、量的に大きかったかと思うが、量ではなしに質が非常に違うのであります。しかも原子力の研究は、ひとたび間違うとすぐにそこに持って行く。しかも発電する―さっきも伏見会員が発電々々と盛んに言われましたが、相当発電するものがありますと一夜にしてそれが原爆に化するのであります。それが原爆に化するのは最も危険なことでありまして、いけない」。』

 これまで様々な科学者、学者を見てきました。金にまみれて権力にすり寄り、みずから権力者であることに生きがいを見出しているかのような、そんな科学者。一方、自らの正義感で、信念をまっすぐに貫く科学者の姿も。これらの姿に接すると、本当に元気が出ます。

 私自身、後輩たちに勇気と元気を分けることができるような、そんな存在であり続けたいと思います。」


 
この中には、いろいろなことが示唆されます。それぞれの異なる立場にいる学者さんたちが、本当に命がけで議論をする所。政府に忖度する人ばかりが集まった所では、こんな議論はあり得ないでしょう。

本音を言えば、「広島の運動には、原発の運動がなかった」と知らない所で断罪する人がいます。こんな終戦直後、まだ自らの被爆のケロイドも治らない体で、涙の訴えで「核の平和利用」に反対した広島の学者さんがいたということも知ってほしいという思いもあります。

学術会議、昨年秋には、学術会議主催でのシンポジウム「岡崎性虐待事件から見えてきたもの—学術に何ができるか—」に参加しました。岡崎性虐待事件とは、当時未成年の女性が、中学2年生から継続的に実の父親に性的虐待を受けて来たというもの。その地裁での判決が、父親無罪ということで、社会が衝撃を受けました。それらについても、学術会議主催でのシンポジウムが行われたのです。

このようなことも学問の自由が縛られたら、できなくなるでしょう。

官邸の介入は許されるべきではないと私も思います。

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