兄の前夜祭
昨日は、兄のお通夜。いえ、キリスト教ですので、通夜とは言わず「前夜祭」でした。こんなコロナの時代ですので、できるだけ少人数でという義姉の意向もあり、ほとんど友人たちには知らせることなく、ごくごく身内だけの集まりでした。もし知らせると、大勢の人が集まってくる、密になることを防ぎたくてと。私の子も来たがったのですが、遠慮して。東京から孫一家4人。出雲から3人。私たち広島から3人。そしてお姉さん。儀式というより、兄のそばで、兄の思い出等みんなで和気あいあいとお話をするという会でした。
義姉から、これまでの経過のお話。
みんなで思い出話。兄とお姉さんのなれそめや、結婚をお姉さんの父親から猛反対されたこと。同じ大学の、同じゼミの先輩後輩。お姉さんの卒業と同時に結婚して上京し、共に働いたこと。化学者としてとっても優秀だった義姉が、兄の転勤に伴って、仕事を辞めてついて行ったこと。今の世なら、いくらでも別居結婚はあったのですが。一人東京に残るといった姉に、私たちの母が怒ったと。残るのなら、離婚してからにしなさいと。初めて聞いて、びっくりしました。新幹線の鼻の樹脂や、ボート単独世界一周の堀江健一さんのボートのグラスファイバーなどもお姉さんが作ったこと。それらは、もちろんあの時代ですから義姉の業績でなく、会社の特許になっています。孫たちはそんなおばあちゃんのことを知らなかったと言っていました。
兄は、化学の仕事が好きで、頑張っていたのですが、同時に高校野球や社会人野球の審判もしていました。庭で、おっきな声で「ストライーーク」等の練習をするものだから、ご近所の騒音になるからやめて、と娘が言ったこと。高校野球の審判をしていた時に、すごい選手がいて、監督に「あの彼は違いますね」と言ったら、「彼はプロに行く選手です」と言われたこと。その彼は城島選手だったこと、これは私が直接兄に聞きました。まだ何人もの後のプロ野球選手を中学、高校時代に、これは、と、見ていたこと。
勿論、根っからのカープファンで、がんが悪くなっても、すべてのカープの試合をテレビで見ていました。そんな話を尽きることなく話しました。
兄の一人娘一家。美男美女の一家。
私の二人の子からのそれぞれの弔電。
そんな前夜祭でした。今日はお葬式。牧師はわたしの次兄が努めます。そして、火葬場には行きません。お葬式が終わると、そのまま大分大学の医学部の白菊会のお迎えで出発します。医学生のための献体をすることになっているそうです。
『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。
広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
| 固定リンク
コメント