「8.6ヒロシマ平和の夕べ」鴨下全生さんの講演①
暑いですねっ!!
今、別府にいます。私は、よく診療後の夜中に車で走るのですが、夜よりも明るい内が疲れないと思っていました。が、昨日は、カンカン照りの中、車を走らせるのに、すっかり疲れました。走行中はクーラーは効かせても、直射日光が体を直撃します。到着するとぐったり。帰りは夕方にしましょう。
到着して午後8時からリモートの会議。確かに、どこにいても会議ができるのは、リモートはいいのですね。久しぶりの友人たちと会えてうれしかったです。
今日から、「8.6ヒロシマ平和の夕べ」での、鴨下全生さんの講演の原稿を戴きましたので、それを二回にわたって掲載いたします。今のような状況で、広島に来るかどうか、お母様と共々ギリギリまでずいぶん悩まれました。その末に、いらっして下さって、本当にうれしかったです。また、その発言もとても貴重でした。残念ですが、スライドは出せません。写真は講演中の鴨下さんです。
ご紹介ありがとうございます。鴨下全生です。講演に先立ってお伝えしたいことがあります。
1
このコロナ禍で集会を開くことには、いろいろな意見があると思います。
残念なことは、既にその問題が分断の原因になっている点です。
沢山の集会や勉強会が、やむなく中止になったり、オンラインで行われたりしている中、集会をしたいのに諦めた人たちの中には、集会をしている人たちに腹を立て、正義を振りかざして攻撃する人もいます。この集会を動画で見ている人の中には、僕たちを軽率だと断じ、許せなく思う人たちもいるでしょう。本当は、政治がしっかりしていないせいで、このような分断が生じているのに、それを正すことなく、衝突してしまっていることが、僕には残念でなりません。
集会だけではありません。今、この国では、マスクをする、しない、とか、店を開くか休業するかなど、身近な場所で、ごく普通の人が、急に正義の剣を振りかざして、見ず知らずの人を攻撃することが、頻繁に起きています。
これは、原発事故後にも頻繁に見られた光景です。あの時と、同じような分断が、コロナ禍の今、様々な場所で起きています。僕らの周りには、沢山の正義があって、それは絶えず衝突を続けています。議論は大いにすべきです。でも、攻撃をしあってはダメなのです。僕らが対立している間に、政府は悠々と、とんちんかんなことを続けてしまう。
結局、何かを変えようとするには権力が必要です。
今、科学的に正しくないことをしている隣人に対して何か言ったところで、全ての元凶である政治を変えることはできないでしょうし、政府の的外れは止まらないと思います。もちろん、自分が思う正しいことを主張することはいいことですし、むしろ、それをやめてはいけないと思います。しかし、だからこそ、その労力は一番効果がある方法で使ってほしいのです。
2
去年の 11 月、ローマ教皇フランシスコは、この広島で核廃絶と世界平和を祈るスピーチをされま
した。その時の一節に、教皇の来日の目的が明かされています。
『私はつつしんで、声を発しても耳を貸してもらえない人々の声になりたいと思います。』
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僕は 18 年前に、福島県いわき市で生まれました。
福島の地図だとこの辺です。原発から南に約40Km。
原発事故後に避難し、今も東京で避難を続けています。
2011 年 3 月、大地震と大津波のあった翌朝に、僕は、避難のために住み慣れた家を離れました。
当時の僕は、よく状況が呑み込めず、これはきっとよくある週末の旅行だと思っていました。
おばあちゃんちに泊まって、日曜日には帰って来て、月曜日にはまたいつもの登校班で小学校に行くんだと。そう思って福島の家を離れてから9年。今だに放射能汚染は、なくならず、僕は東京で高校生になりました。
避難してからの日々は、福島にいた時とは全く違う、不安定な毎日でした。
住居を転々とし、転校先でもいじめられ、僕も弟も吐いたり鼻血を出したり、よく体を壊しました。
肉体的にも精神的にも苦しい事が多い日々で、気付いたら自尊心がボロボロになっていました。
更に政府による避難住宅の提供打切りなど、生活の不安も増え、苦しみは増すばかりでした。
やがて高校生になり、生きていくのがどうにも辛くなった僕は、ローマ教皇に手紙を書きました。
返事の代わりに届いたのは、教皇謁見の招待状でした。そこで僕はバチカンに行き、ローマ教皇に謁見し、改めてメッセージを伝えました。教皇からは励ましの言葉と祝福をいただきました。
また昨年 11 月にローマ教皇が来日した際には、原発事故の被害者として、2 分のスピーチの時間をいただきました。今から、その時のスピーチをお話しします。
僕は福島県いわき市に生まれました。
8歳のときに原発事故が起きて、被曝を逃れるために東京に避難しました。でも、父は、母に僕らを託して、福島へ戻りました。父は先生で、僕らの他にも守るべき生徒たちがいたからです。
母は、僕と3歳の弟を連れて、慣れない場所を転々としながら避難を続けました。
弟は、父との別れが寂しくて、布団にもぐって泣きました。
僕は避難先でいじめにも遭い、死にたいと思う程つらい日々が続きました。
やがて父も、心と体がボロボロになり、仕事を辞めて東京へ来ました。
それでも避難できた僕らは、まだ幸せなのだと思います。
この先、明日に続きます。
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