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鶴見町で被爆した竹田昭義さんの手記③

一昨日、昨日と記録している竹田昭義さんの被爆記の続きです。吉田に何とかたどり着いて、やけどの闘病、しかし後でわかることですが、放射能との闘いの日々でもありました。

 蚊帳の中で寝ていると、祖父母たちのヒソヒソ話が聞こえてくる。「誰々さんが広島市内に被爆した知人を捜しに行き、帰って3日目に亡くなった」などと言っている。私に聞かすまいと気を遺っているのがよく判る。しかし、そんな話が毎日のように繰り返されるのである。どうしても耳に入る。事後に市内に入った人でも、そうだ。まして私は直爆、もう助かりようはないなと覚悟した。自分でも意外なほど冷静に、先生や友人に遺書を書いて枕の下に置いた。 

 父母も時々、様子を見に来てくれていた。「時々」とは、父母が冷たい言い方のように聞こえるかも知れないが、実はそうではない(注1)。原爆投下の日、私の弟も中学1年生(廣島県立第二中学校=現・観音高校)で建物疎開作業に動員され、爆心からわずか500メートルの中島新町にいた。父と伯父がたぶん2日後から、ほとんど毎日焼け跡を捜し回っていたのである。やっと本人の弁当箱を見つけ、遣骨代わりにとその辺りの砂を詰めて持ち帰ってきた(この弁当箱は、父が高齢になった後、私が原爆資料館に寄託した)。弟は級友の実家である舟入町の唯信寺までいっしょに逃れ、2日後の8日、苦しい息の下「天皇陛下万歳」と叫んで絶命したという。この事を知ったのは、随分あとになってからであった。本川沿い2中の慰霊碑には、弟を含め全滅した2中1年生、3百数十の名前が刻まれている。

 寝ていると、8月15日に祖父が「日本が負けた」と慌てたように帰って来た。まさかそんな事が…絶句。寝床の中で涙がとまらなかった。

 そうこうして夏も終わりに近づき、9月に入るころには、やけども少しはよくなり、何とか寝床から起きあがることができるくらい身体も回復してきた。そこで父の郷の根野村(いまは安芸高田市八千代町=私の現住地)に移ろうという事になった。大八車に布団を敷いて寝かされ、ジリジリと陽が照りつける中、舗装されていなかった現在の国道54号線をゴトゴト十数キロ、3時間半ばかり運ばれた。痛いのと、暑いのと眩しいのと、頭がぐらぐら揺れるのが辛かった(注2)。 

 秋になると、ようやくやけどの治療をしなくてもよくなり、外に出て歩けるようになった。学校に連絡をとると、校舎はもちろん焼失。翠町の寮に詰め所があるのが判った。やっと寮を訪ねる事ができたのは、もう年末近かった。「江波町の旧陸軍病院で授業を再開している。明日から出て来い」という。住む所もないのに、ちょっと待って下さいと返事、その日は帰った。年が明けて、皆実町にあり焼け残った縁類の家の2階が借りられる事になった。それも骨組みだけの吹きさらし、雨戸、障子、ガラス戸もなし。その辺りに散らばっていた障子、ふすまの使えそうな物を集め、一間だけどうにか住めるように囲った。江波の仮校舎もひどいものだった。もちろん窓ガラスなし、寒風が通り抜ける冬、あるだけ着込み授業に出た。その後、父兄の方が風船爆弾用の紙(割合に丈夫なものだった)なるものを手に入れ、ガラス代わりに張ってもらい少しは寒さ凌ぎになった。

 どのくらいたってからだっただろうか、廃墟だった元の雑魚場町の跡地にバラック校舎が再建され、ようやく、まずまず普通に学校生活が送れるようになった。有り難かった。

この後、手記には、やはり学徒動員で被爆した奥様のこと、二つのがんの闘病、原爆への忌避、平和への思いなど切々と書かれています。80歳までどなたに勧められても、ガンとして話さなかったご自分の被爆体験記は貴重で、あまりにもったいないことです。この後の弟竹田雅博さんの解説も含めて、「8.6ヒロシマ平和の夕べ」の参加者の方々にお配りしようかとも考えてます。

竹田さんご兄弟に感謝します。

これは、現在の鶴見橋です。やはりウィキペディアから戴きました。

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昔、比治山に鶴が飛来しており、江戸時代にはこの橋の東側、被爆柳がある辺りにその鶴を見るための「鶴見小屋」が設置されていました。ここに橋はなく、渡し船で渡っていたようです。明治13年、1883年、ここに木製の橋が作られ、鶴見小屋から鶴見橋と名付けられたそうです。その後、何度も建て替えられ、現在の橋は、1990年に作られました。広く、明るく、美しい橋です。75年前の惨事の面影は、わずかにたもとの被爆柳が示してくれているだけです。
 

 

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