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「被爆者の森」

今日、私はドック入りで。マンモの痛みと胃カメラの苦しさと痛み、くたびれております。おまけに少し怪しい所があるからと追加のCT。結果はお楽しみで、すぐにはわからないという気持ちの悪さ。ぐったりです。まあ、他人のドックの結果なんて、大方の人にはどうでもいいことなので。

ウォーキングの話です。

この前、鶴見橋のたもとの被爆枝垂れ柳を見てブログに書いて、それを見た竹田さんが、お兄さんが学徒動員で被爆したのが鶴見町で、この橋を渡って比治山に逃げたというコメントをして下さって、そのお兄様の手記を転載させて戴くという、そんなことがありました。

 その鶴見橋の、柳と反対側の平和大通りに「被爆者の森」があります。夜で真っ暗ですみません。

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標識は懐中電灯を当てて、何とか読めるように撮れましたが。

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碑は私が撮ったのは真っ黒で書いてあることが読めないので、ネットから戴きます。

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 夫によると、1990年、被爆45年、確か新潟県か青森県だったかの被団協から県の木を決めたので、その記念に広島に植えて下さいと苗を送って来たのだと。それで、宮崎さんと近藤さんと河野が話し合って、これを広げたらどうかと、当時の被団協の理事長の伊藤サカエさんに話し、全国に呼び掛けようということになったと。

県被団協として、広島市に場所の提供をお願いして、全国の木で「被爆者の森」を作ろうと。

「被爆者は全都道府県にいる。修学旅行生に、広島で出身県の『県の木』と対面してもらえば、身近に被爆者がいることを肌で感じてもらえるのではないか。みどりの下で被爆体験の証言を聞いてもらえば、しばしの憩いにもなる。全国の被爆者にとっても、広島の心をつなぐためのシンボルとなる。」

すると、日本被団協がすぐに動いてくださって、全国から木の苗が送られてきたのだそうです。

 広島市は、建設の理解を示すも、適地探しは難航したそうです。当時の荒木市長は「平和公園と連関して」といろいと努力て下さったそうですが、結局今の地になったと。少し平和公園と離れていて、修学旅行生がここまで来ることはないのが残念です。(核兵器のない明日を願って~広島県被団協の歩み~)

  30年前、ほんの一メートル足らずの木々が、もう立派な大木になって、森を作っています。

その一部を。

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竹屋小学校の子どもたちが木の解説を付けています。よく調べています。

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この時は、平和大通りの北側しか行けませんでしたが、今度南側に行きますね。そこには、広島のもみじとか、香川のオリーブの木とかがあるはずです。

 

 

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