鶴見町で被爆した竹田さんのお兄様の手記①
昨日のブログ「鶴見橋と被爆シダレヤナギ」を読んで、「8.6ヒロシマ平和の夕べ」のスタッフの一人、竹田氏からメールが来ました。
竹田氏のお兄さんはお二人。共に被爆され、下のお兄様は、広島二中の学徒動員で本川の川岸で被爆、舟入のお寺まで逃げ延びてそこで亡くなったと。そのお兄様のお名前は広島二中の慰霊碑の裏に掲載されています。爆心地にあったお兄様の弁当箱は、原爆資料館に寄付されています。
上のお兄様は、広島一中の生徒で、やはり学徒動員で被爆、今の安芸高田の田舎に帰りついて療養し、生き延びられたと聞いていました。そのお兄様が、なんと、鶴見町で被爆され、鶴見橋を渡って比治山へ逃げられたのだと。
お兄様は、ずっと自分の被爆のことをしゃべられなかったのだそうですが、亡くなる一年前に初めて被爆のことを書かれたのだそうです。
その竹田さんのメールと、お兄様の被爆の手記の一部をここに転載させていただきます。
ブログ、鶴見橋の被爆柳を拝見しました。上の兄は、鶴見橋付近で被爆しました。
被爆した2人の兄のうち被爆後を生きた上の兄は被爆をほとんど話すことがなく、どこでどのように被爆したのか、私は兄が81歳で亡くなる1年ほど前まで知りませんでした。聞こうとすると不機嫌になるため、話題にしませんでした。2010年8月に「平和の夕べ」の企画で、路面電車内で被爆した米澤鐵志さんと、原爆ドームすぐ前に家があり、一家全滅した福島和男さんのお話を聞くことになりました。当時、中学校1年生の福島さんは、早朝に郊外の工場へ出かけ家族のなかで一人だけ生き残りました。
福島さんに証言を依頼する際に、福島さんが兄と同じ中国新聞社に勤め、後輩として兄と親しかったことがわかり、兄に了解を得ておかなければと「福島さんにお願いすることになった」と話しました。すると意外にも、「福島くんが話すのなら、ぼくも出なければいかんな」と言いました。その日、特別運行した被爆電車にいっしょに乗車、中島本町のフィールドワーク、そのあとの証言の会にも参加し、後日、「福島くんの話は率直で、よく伝わっていた」と感想をのべていました。
その秋に私が帰省したとき、「こういうものを書いてみた。人に見せるつもりはないが、お前は読んでおいてくれ」と、A4で4枚ほどを渡されました。その最初の部分です。半年後、福島第1原発の大事故。直後から「原爆と同じ、大変な事態だ」と焦燥感を顕わに、毎日のように私にメールを送ってきました。
しかし、兄はその夏に急に他界。「他人に見せるつもりはない」と渡されましたが、没後に、ある冊子に掲載してもらい、その後に広島原爆死没者追悼平和祈念館に収納しました。福島さんも、何年か前に亡くなられたとのことです。(竹田雅博)
ウィキペディアから、被爆直後の広島市内。写真上部真ん中が鶴見橋。その向こうに比治山が見えます。手前の川が二股になっている所の橋が、原爆投下の目印とされたというTの字の相生橋です。今もTの字の橋がかかっています。
明日、お兄様の手記を掲載いたします。
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