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被爆者の森・続き

6月25日のブログに書いた被爆者の森。平和大通りの鶴見橋の近くの大通りの両側に、各都道府県から送られた木が立派な大木になっています。前回は大通りの北側にしか行きませんでしたが、今回、南側に行ってみました。広島県のもみじや、香川県のオリーブの木などが確かにありました。写真のできが悪く、ぶれたり、見えなかったりするのもあって、一部ですが。やはり竹屋小学校の子どもたちが木の解説をしています。ただ、その解説が県の名札と反対側にあるのもあって、同時にうつすことができないのも多くて。

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 季節になると、花を咲かせたり、梅やヤマモモやサクランボなど、実がなるものはどうなのか、これまでなった実はどうしていたのでしょう。興味があります。平和公園内のイチョウは銀杏の実をたくさんつけるのがあって、そのうち、実はきれいになくなっています。今度その季節に来てみましょう。

平和公園に来られた時にもし時間があるなら、この辺りまで足を延ばして、ご自分の県木を探したり、鶴見橋を渡って被爆シダレヤナギを観たにして下さると、いろいろと感じる所があると思います。

平和大通りには、所々ベンチだけでなく、すべり台やブランコがあったりして、ウォーキングも一休み。久しぶり、何十年ぶりかにブランコに乗りました。

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「8.6ヒロシマ平和の夕べ」よびかけとこれまでの発言の訴え

「8.6ヒロシマ平和の夕べ」のフライヤー。スマホでは字が小さくて読めないという方がおありです。部分部分の場案内もします。本来なら、真っ先に載せるべきでした、よびかけ文。今年は縦書きです。そのまま載せますね。

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母の胎内で被爆し、原爆小頭症の方たちのことも何とか入れたいと思いました。今年は75周年。フライヤーに載せたいことが多くて、短い文になりましたが。思いを感じて頂ければ嬉しいです。

それから。裏面の右に呼びかけと並んで入れました。これまでに登場して下さった方々の発言の一部です。これまでの積み重ねとして読んで下さいませ。

これも、小さくなりますので、部分部分に分けて写真にしました。それでも、字が小さいですね。すみません。それぞれをクリックしていただくと、大きくなります。

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この中の、小林圭二さん、中沢啓治さん、小野瑛子さんがすでに亡くなっています。

どんなにひどい社会となり、つらくとも、続けていくこと。マンネリとの批判もありますが、闘い続ける方の発言を聞き続けること、そのスタイルは変えないで行きたいと思います。よろしくお願いします。

 

 

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「8.6ヒロシマ平和の夕べ」平和講演は森達也さん

「8.6ヒロシマ平和の夕べ」の、今年の平和講演は、森達也さんです。

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フライヤーの画像とは別に、ネットから、私の好みでかってに頂きました。森さんは、笑っている画像がほとんどないのです。やっと見つけた一枚です。

 若い人の圧倒的人気がある森さん。私は、先日の「i-新聞記者-ドキュメント」を映画館で観て、唸りました。東京新聞の望月いそこ記者に密着し、望月さんを排除しようとする官邸とあくまでも食い下がり続ける彼女との闘いが、あます所なく描かれました。また、望月さんの取材の場での、伊藤しおりさんの柔らかな笑顔、籠池さん夫妻もむしろ闘う人よりも楽しい人として魅力的に描かれるなど、時の人のルポの底に人への愛があふれていると思いました。

フライヤーの森さんについての所を切り取って載せようとしましてが、それだと小さくなってしまって。だから、転載しますね。

森達也(もり・たつや)

平和講演~「核をもってしまった世界」を問う~

1956年、広島県呉市生まれ。(何と、呉出身の方です!)TVディレクター。ドキュメンタリー作家。「広島・長崎は終わらない。焼け爛れた人々、放射能障害に苦しむ人たち、悲しみ。その実相を、世代を超え世界へ伝えるべき」(16年「現代思想」8月号)。98年、映画「A」が国際的に高い評価、01年続編「A2」、12年ドキュメンタリー映画「311」、16年「Fake」、19年「i-新聞記者ドキュメント」を発表、第93回キネマ旬報文化映画第1位。著書に「放送禁止歌」「下山事件」「東京番外地」「死刑」「アは愛国のア」、共著「戦争の世紀を超えて」ほか。

その元の文を読んでみました。現代思想8月号特集〈広島〉の思想、「自発的プロパガンダの連鎖を斬って」より。その初めの部分を転載します。

「あなたは不思議に思ったことはないだろうか。アメリカ人の多くが広島と長崎に投下した原爆について、いまだに「戦争を終わらせるためには正当な手段だった」と主張することについて。だからこそ、彼らは謝罪をしない。オバマ大統領が広島を訪れることが決まったとき、謝罪の言葉を述べるかどうかは大きな焦点になったけれど、期待はできないとの見方が大きかった。(そして実際謝罪の言葉は述べなかった)。もしも謝罪の言葉を述べたなら、原爆投下は正当な戦争行為の延長であると信じる多くのアメリカ人たちからの強い抵抗が予測できるからだ。


 広島と長崎への原爆投下は、明らかに国際法違反だ。確かに呉は軍事拠点であったけれど、ならば軍需工場や港湾施設を通常爆弾で破壊すればよいだけのはずだ。この時点で日本は戦争を継続できる状態ではない。ガソリンは欠乏して松の樹脂で戦闘機を飛ばし、迫るB29に対して竹やりで応戦しようとしていたのだ。そして、その状況を、アメリカは十分に把握していた。

 つまり、広島・長崎への原爆投下は、正当な戦争行為の延長では絶対にない。」

「戦後70年以上が過ぎている、なぜいまだに、原爆は正当な戦闘行為の延長などと本気で主張できるのか。統計を見ると、年齢層が高い国民ほど、謝罪は必要ないと主張する傾向が強い。その理由は何か。」

 そして、森さんは、一本のアメリカのドキュメンタリー映画「アトミック・カフェ」を見て、それが腑に落ちたと言われます。そして、それを指導する学生たちにも必ず見せると。

 この辺りを今度の講演の中でも、しっかり語って下さるでしょう。その結果、

「だからこそ、広島・長崎の実相を、家族を奪われた子どもの叫びを、全身の皮膚が焼けただれながら死んでいった市民たちの苦悶を、今も放射能の後遺症に苦しむ人たちの悲しみを、世界に伝えることは重要だ。日本のためだけではない。核兵器という大量破壊兵器を保持してしまった世界のために」

と書かれています。森さんの骨のある講演を聞くことができること、とても楽しみです。皆さん、期待しましょうね。

 

 

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「8.6ヒロシマ平和の夕べ」のフライヤーです。

「8.6ヒロシマ平和の夕べ」のフライヤーをアップします。ことは被爆75年。フライヤーも時間をかけて、力が入っています。こんなぎっしりの、見るのもしんどいという人もいるかもしれないけれど。でも、こんなに読む所があるのをもらったらうれしいという方も。

 まあ、見てみて下さいませ。もし、このフライヤーの現物が欲しいという方がいらっしゃいましたら、どうぞ、ブログのコメント欄に住所氏名を書いてくだされば、アップしないで、お送りします。フェイスブックでもいいですけど、それだと、自動的にアップされてしまいますので、それでもいい方はどうぞ。

表面です。クリックして下されば大きくなります。

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裏面です。呼び掛け文は短く、でも、その右の、これまでの平和の夕べに登場して下さった方々の発言を載せています。これでも、この会の歴史少しずつわかっていただけるかと思います。

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いよいよ、会に向けてまっしぐらです。皆様、どうぞよろしくお願いします。このフライヤーと、会について、これから、少しずつ書いていきますね。

 

 

 

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「被爆者の森」

今日、私はドック入りで。マンモの痛みと胃カメラの苦しさと痛み、くたびれております。おまけに少し怪しい所があるからと追加のCT。結果はお楽しみで、すぐにはわからないという気持ちの悪さ。ぐったりです。まあ、他人のドックの結果なんて、大方の人にはどうでもいいことなので。

ウォーキングの話です。

この前、鶴見橋のたもとの被爆枝垂れ柳を見てブログに書いて、それを見た竹田さんが、お兄さんが学徒動員で被爆したのが鶴見町で、この橋を渡って比治山に逃げたというコメントをして下さって、そのお兄様の手記を転載させて戴くという、そんなことがありました。

 その鶴見橋の、柳と反対側の平和大通りに「被爆者の森」があります。夜で真っ暗ですみません。

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標識は懐中電灯を当てて、何とか読めるように撮れましたが。

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碑は私が撮ったのは真っ黒で書いてあることが読めないので、ネットから戴きます。

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 夫によると、1990年、被爆45年、確か新潟県か青森県だったかの被団協から県の木を決めたので、その記念に広島に植えて下さいと苗を送って来たのだと。それで、宮崎さんと近藤さんと河野が話し合って、これを広げたらどうかと、当時の被団協の理事長の伊藤サカエさんに話し、全国に呼び掛けようということになったと。

県被団協として、広島市に場所の提供をお願いして、全国の木で「被爆者の森」を作ろうと。

「被爆者は全都道府県にいる。修学旅行生に、広島で出身県の『県の木』と対面してもらえば、身近に被爆者がいることを肌で感じてもらえるのではないか。みどりの下で被爆体験の証言を聞いてもらえば、しばしの憩いにもなる。全国の被爆者にとっても、広島の心をつなぐためのシンボルとなる。」

すると、日本被団協がすぐに動いてくださって、全国から木の苗が送られてきたのだそうです。

 広島市は、建設の理解を示すも、適地探しは難航したそうです。当時の荒木市長は「平和公園と連関して」といろいと努力て下さったそうですが、結局今の地になったと。少し平和公園と離れていて、修学旅行生がここまで来ることはないのが残念です。(核兵器のない明日を願って~広島県被団協の歩み~)

  30年前、ほんの一メートル足らずの木々が、もう立派な大木になって、森を作っています。

その一部を。

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竹屋小学校の子どもたちが木の解説を付けています。よく調べています。

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この時は、平和大通りの北側しか行けませんでしたが、今度南側に行きますね。そこには、広島のもみじとか、香川のオリーブの木とかがあるはずです。

 

 

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平和の詩・平和のバトン

昨日の「沖縄慰霊の日」。毎年この日に読まれる「平和の詩」が楽しみです。今年の詩も心打たれました。県立朱里高校の高良朱音さんの「あなたがあの時」。以前、知花昌一さんに案内してもらって行ったチビチリガマを思い出しながら聞きました。

高校生を初めとして子どもたち、若い人たちに「平和」をどう伝えていけばいいのか。ずっと課題として私たちに突き付けられています。

何より素晴らしいことの一つが、毎年の沖縄の平和の詩でしょう。広島の平和公園には、困難な状況の中でも、多くの先生たちが児童生徒たちを連れてきて下さっています。こんな時代でも、ヒロシマは平和教育のお役に立てているのでしょう。

 同じ日に重なりましたが、昨日、「平和のバトン」が届きました。

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これまで、「8.6ヒロシマ平和の夕べ」で証言して下さった被爆者の方々が、基町高校の生徒さんが描かれた絵画をスライドにして見せて下さいました。

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そのお話の中で、被爆者の皆さんが、何度も何度も生徒さんにお話しをし、ダメだしをし、少しでもあの時に近づくようにという、双方がすさまじい努力をして、一枚の絵が出来上がるということを知ってきました。そして、この高校生の絵を描くプロジェクトを指導して下さっているのは、どんな先生なのだろうか、いつか先生のことも知りたいと思ってきました。

 この本には、証言をされる被爆者の話、それを描く高校生の姿があますことなく書かれています。それに、私が知りたいと思っていた教師のことも。先生は、特別な指導はせず、生徒のしたいように任されているとのことでした。でも、私は、そこに「したいようにさせる」ことのすごいエネルギーと、寛容さを観ました。

 この本は、なんと今年の「青少年読書感想文全国コンクール」の中学校の部の課題図書に指定されたということです。多くの子どもたちが、これを読むはず。そして、「平和」を考えるはず。この平和に逆行する政治の中で、久々に明るいニュースでした。

 

 

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こいわしの天ぷらと親水の道のウォーキング

昨日遅く帰宅したら、夫が沢山の小いわしの天ぷらを作ってくれていました。これの半分くらいの生姜煮も。小いわし全部で280円だったと。夫の天ぷらは、こんがり香ばしくて美味です。

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大分に行ったりしていて中断していたウォーキングを再開。遅かったので、近場で短距離をということにして。本川の舟入側の川沿いの、それも歩道ではなく、もっと川におりて、親水の道を歩きました。

 川はちょうど満潮で、水面から30センチくらいしかない所も。川で魚がぽちゃんと跳ねます。魚釣りをしている人もいました。チヌが釣れるのだと。私たちも釣りをしようよというのですが、夫はうーん、だそうです。せっかく川沿いに住んでいるのにもったいない。子どもの小さい時には、結構釣りをしていて、カレイだとか、おっきなウナギが釣れたこともありました。もう何十年も釣りをしていません。

親水の道は、橋の下も潜り抜けて、ずっと続いています。こんな道、これまで知りませんでした。

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ウォーキングを初めて、いろいと知らなかったことを改めて知ることができました。川風が気持ちいいし。それでもうっすら汗をかいて、運動になります。明後日ドックで、それに向けて体重を落とさなければと頑張るつもりだったのですが、どうもうまくいきませんでした。メタボと言われそう・・・。

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見蘭牛瓦焼きそば

昨日深夜広島に帰り着きました。ちょっと大変でした。廿日市インターを降りる少し前から視野がおかしくなって。片頭痛の発作の前兆です。ヂラヂラ、ギザギザがだんだん大きくなって、見えにくくて。でも、家に近くなってからで良かったです。帰るとすぐに鎮痛剤を飲んで、倒れ込むように寝てしまいました。ぐっすり、朝まで一気に。今朝はもう全く大丈夫です。私の片頭痛は、無理してるよという警告でもあります。

 でも、今回、兄に会えたし、兄の一人娘も関東から帰って来ていて、彼女の結婚式以来20年ぶりに会えたし。兄は、ほとんど食べなかったのが、私がもっていったお寿司も、姉からことずかったぶどうも、私が焼いてもっていったぶどうパンも、少しずつ食べたので、ほんとうにうれしかったです。我が家の庭の片づけもできたし、行ってよかっです。

 ところで、高速道のSAのレストラン、まだ本格的に復旧していなくって。高速に乗る別府湾SAで食事をしてから帰ろうと思ったら、あらまあ、トイレと自販機以外は、午後3時で閉店していました。本当は、下松SAのレストランで食べたかったのですが、そこは6月いっぱい閉店だそうだし。


結局、美東のSAで瓦焼きそばを食べました。それも、私のは見蘭牛の豪華なの。これ。美味でしたが、疲れていたのか、半分しか食べられませんでした。瓦に面した所は、ぱりぱりして余計美味でした。

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 別府湾SAでは、すごいでっかいアジサイが満開でした。これを観られただけでもよかったかな?

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そうそう、別府の我が家の二階から、ごみ袋とサングラスで赤くてきれいな日食を見ましたよ。

さて、今日からまた日常生活の一週間の始まりです。

 

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1億2千万円は政党交付金。

大分、別府にいます。今から大分市の兄の所に行きます。入院していたのですが、病院には面会に行けず、退院の報せがあったので、会いに来ました。


ここには、昨年の12月の義母の三回忌で帰って来て以来です。ゴールデンウィークに帰るつもりだったのが、コロナのために諦めたのですが、とても久しぶりなので、庭がとても悲惨な状態になっていました。夫は帰るとすぐから、今朝も起きるとすぐから木々の剪定をしています。私は、ラベンダーに蔓が巻き付いて、枯れて行っているのを蔓を切ったりして救済に手がかかりました。この家を建てた時に鉢植えのを二本買って植えたのが、代替わりしながら生き続けています。

それから、ガクアジサイがきれいに咲いていました。これは、やはりこの家を建てた時に、私の父がアジサイアジサイと苗を探して植えてくれたものです。花が咲いてみると、アジサイでなくガクアジサイでした。でも、とてもきれいな色で、私は、初めてこれが咲いてているのを観ました。だって、この時期にここに帰ってくることはこれまでなかったものですから。

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今朝の中国新聞を私は見ることができないからと配慮してくださったのでしょう。県北の友人がラインで送ってくれました。広島市内のとは版が違うけど、たぶん同じ内容でしょう。今日も、河井夫妻の記事が一杯。その中の一部です。

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 河井杏里氏にわたったお金、1億5千万円の内の1億2千万円は政党交付金だったと。やはりそうなのですね。ということは、税金ですね。我々の血税がこんなことに使われていたということですね。

昨日、大分に向かって車を走らせながら、しまった、ブログに書き忘れてことがある、明日書かなければと思ったこと。

(削除しました。)

 ほとんど食べられない兄に、パンを焼いてきました。姉からはぶどうを託りました。少しでも食べてくれると嬉しいのですが。今日の夜には、広島に帰ります。高速道も、SAも、とても空いていました。帰りもきっとそうでしょう。

 

 

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河井夫妻の逮捕に思うこと。

遅ればせながらになってしまいますが。河井克行、案里夫妻の逮捕について。もう、色々と言われているのですが。私の想いを少し。

 二人が買収のお金を持って回って、押し付けたとのことですが。でも、もらった側も、お金を受け取ると違法になることはわかっていたはずです。選挙違反です。特に地方議員は、自分の身分が問われることにもなるという思いはなかったのでしょうか?それが不思議です。報道によると、議員の40人もがお金を受け取っていたと。だれもが受け取らなければ、犯罪は成立しませんでした。その意味で、広島の政界は腐っているといえますね。県議会の自民党の議長がさかんに河井夫妻と強引に杏里さんを立てた中央を「だから言ったでしょう」と責めていますが、自らの足元の仲間たちが金を受け取っていたとの反省があれば、その反省の言葉も言わなければならないはずです。恨みつらみだけを言う姿は、醜いと思いました。

それから。河井氏がなぜ違法なことと思わないのかが不思議です。よろしくとお金を配ったら、それは選挙違反でしょう。よろしくと言わなかったら、違法にならない?いえいえ、案里氏の立候補の直後から配っているのですから、当然それはよろしくお計らい下さいの意味だと、子どもでもわかります。

昨日の中国新聞の一部です。「権力バック慢心か」と見出しにあります。はい、今の安倍政権の元では、何をしても罪に問われない。森、加計、桜、たとえ強姦をしても、安倍さんと仲良しであれば罪は問われない、そんな雰囲気の中で、安倍氏と仲良しの自分は何をしても守られるとのおごりがあったのかもしれません。

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それから、もう一つ。ずっとテレビの特番を見ていましたが、誰も、どこの局も、岸田氏のコメントを取っていませんでした。中国新聞にわずか。

「離党したとはいえ、これまで自民党に所属し、なおかつ広島から選出された国会議員。逮捕は誠に残念だ。」自民党の岸田文雄政調会長(広島1区)は18日夕、党本部で報道陣の取材に「政治、自民党の信頼回復のために努力しなければいけない」と答えた。


これだけです。岸田氏は、この参議院選で、まさかと思える行動をしました。この写真です。

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広島の自民党の人たちが、案里氏の立候補に反対しているのに、安倍総理と共に、案里氏の選挙カーに乗って応援したのです。これには、たまげました。だって、溝手氏は岸田派の重鎮。その溝手氏を裏切るかのように、案里氏を応援した。そして、結果は、自らの派閥の重鎮が落選という、結果になってしまった。まるで他人事のように「信頼回復のために努力しなければならない」といえる?こんな選挙をしている候補を応援して申し訳なかったと頭を下げなければならないはずなのに。広島の自民党関連の人たちは、この岸田氏の行動に少しは文句でも言ったのかしら。影でいろいろ言っているのは聞いていますが。

 ま、私は自民党支持者ではないので、あくまでも岡目八目ですが。

それにしても、中国新聞、すごかったですね。

一面。当然トップですよね。

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2面、3面。

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5面の社説、18面のビンゴ版、そして22.23面。

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そして、冒頭の26.27面。どの記事にも貫いているのは、河井夫妻だけでなく、安倍政権の責任を問うていること、筋が通っています。字が小さくて読めないでしょうが、見出しの雰囲気だけでも感じていただければと、載せました。今日もまた、1.3.22.29面にとても興味ある記事が出ていて、読むのに時間がかかります。

今日は、私は診療後大分に向けて車を走らせます。新聞を持って行って、寝る前に読むつもりですが・・。疲れて読めないかも、です。

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昨日のブログへ視覚障がいの方からのご意見です。

昨日のブログ、一例としてマッサージ師さんのことを書いて、ずっと心配していました。多くのマッサージ師さんに悪いことをしてしまったのではないかと。そんな時、私の友人の視覚障がい者の方から、メールが来ました。許可を得て、ここに転載させていただきますね。


河野先生、ブログ読ませていただきました。


マッサージ店でのお話。


あのマッサージ師に腹が立ちました。


ほんとにひどいですね。


さぞ驚かれ、ショックだったと思います。


私はこのマッサージ師がその性暴力で職を失­ったとしても、「障碍者だからかわいそう」­とは思わないです。


そのマッサージ師は視覚障碍者ですよね?


もしかしたらこのマッサージ師から被害に遭った方が他にもいるかもしれませんね。


その被害に遭った女性たちも声­をあげたかったけど、「視覚障碍者が職を失­ったらかわいそう」と思ったのかもしれませ­ん。


被害者にそう思わせて、そう思われるのがわ­かっていて、それを見越してこんな卑劣なこ­とをする人、障害を理由に訴えられないだろ­う、訴えられるリスクが自分は低いと見込ん­でいての狡さ、そこに腹が立ちます。


そういう人は二重に赦せないです。


人のやさしさと同情心に付け込んでいるから­。


そういう人は訴えていいです。(河野先生が­声をあげれなかったことを責めているのでは­ないですよ。)


その人がもし職を失って、その後も雇ってく­れるところが見つからなくても、マッサージ­師の国家資格を取り消されても(警察に訴えられて逮捕されて有罪になったら資格は取り消され­ると思いますが)、それはかえって良いこと­だし、大人なのだから自分のした犯罪への報­いです。


それは障碍者だろうが、健常者だろうが、関­係ありません。


かえって彼が働くこと、反省せずそのような­ことをしていることは懸命に頑張って仕事を­している多くの視覚障碍者のマッサージ師の­評判を 落とすことになるでしょう。


障碍とは関係なく、人としてやってはいけな­いことだし、日本国民なら法律で裁かれ、罰­せられるべきと私は思います。


視覚障碍者が仕事をしていくこと、就職すること­がどんなに大変か、それを克服するために多­くの人たちが頑張ってきました。


彼の犯罪はそれらをぶち壊す行為です。


こういうとんでもないのがいる一方で、視覚­障碍者の女性のマッサージ師が男性客から被­害に遭うことがあるということも耳にします。


私はそのような話を何人かから聞きました­。


それから視覚障碍者女性は「見えないからば­れないだろう。誰がやったのかも顔がわから­ないから訴えられないし捕まらないだろう」­ということで性被害に遭うことがわりと多い­です。


ですから周囲の見守りと視覚障碍者への声かけと困っているようなら手助けがとても大切です。


視覚障碍者女性は防犯ベルを持ち歩くことと、その使い方をきちんと習っておくことと、日ごろからサポートしてくれる友達、いざとなったら助けにとんできてくれる仲間をつくること(健常者の友達も、支援者、障碍者の仲間)が大切だと思います。



私は自分の人生の中で生かせる役立てられるような性教育を受けれなかったので、そしてもし何かあったら助けを求めていいし、どのようにして防犯すればよいかとか教えてもらえなかったので、大人になってから苦労しました。


ほとんどの視覚障碍者女性がそうだろうと思います。


私はそういう教育や話し合いの時間が盲学校を卒業する前の若い子たちに必要だと盲学校の先生に話したことがありましたが、取り合ってもらえませんでした。


私はそういうことをちゃんと学びたいし、考えたいです。そして協力者が増えたらいいと思っています。



ありがとうございます。私に足りなかったものをしっかり補填して頂きました。私は、女性のマッサージ師さんが被害に遭うということを確かに聞いたことがあります。でも、今回、それを失念しておりました。

 それに、性教育のこと。私は、常々障がいのある人もみんな性教育を受けるべきと言い続けています。それは、障がいのある方たちだって、恋愛したり結婚したり、人との付き合いはあるわけで、それに障がいゆえに、情報が偏ったりすることもあるからです。勿論、伝える方法は工夫したり、時間をかけたりしなければなりませんが。そして、女性だけでなく、男性だって。同性や異性との付き合い方を学ぶべきでしょう。

考えてみれば、私に対していやな行為をした彼は、意に反してそんなことをされた女性がどんないやな気持になるか、それは自分が職を失うことになるかもしれないような行為なんだということを学んでいなかったのかもしれません。

 そんなことも気づかせて頂いたありがたいメールでした。本当にありがとうございました。まだ飛び飛びになるかもしれませんが、この件についてこれからもお話したいと思います。

 昨日、一日中家にいて、講演の資料作りをしました。先日作ったのが、まだ気にいらなくって、作り直しです。それを作りながら、晩御飯用にお赤飯を作りました。以前、もち米を戴いてていたので。写真は、姉の家へのお裾分け用に詰めたものです。栗も、赤飯用に買っておきました。美味でした。

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「密室」で二人っきりになること

 今日は、色々と迷った挙句、「密室」の危険性について書きたいと思います。

 産婦人科医療では、診察の場合、決して男性医師と患者さんの二人っ切りになってはならないと、厳しく教育されています。必ず、看護師さん等に立ち合ってもらうようにと。それは、診察がとてもプライベートの場を見る、触るということから、犯罪につながり易いことによります。犯罪を犯すかもしれないというよりも、もしも患者さんが犯罪の被害を訴えた場合、医師の側は反論がとても難しい、えん罪に巻き込まれないためにという因子が強いようです。

 私は、性犯罪の被害の女性を診察することがとても多いのですが、世の中には、とても無防備に「密室」がしつらえてあることに気づかなければと思います。

 例えば、リンパマッサージなど、施術してもらうのに、ほとんど裸でなければならない時は、密室でも仕方がないかもしれません。でも、多くはリンパマッサージの施術者は女性ですから、さほど問題にはならないでしょう。もしも、施術者が男性であったら、ほとんど裸の女性と男性とが一体一で長い時間向き合い、体を触られるという行為は、ともすれば犯罪に結びつきやすいと考えます。そんな時は、完全な個室にしないでほしい、たとえ大部屋でカーテンで仕切る場合でも、一部施術してもらう人の体は見えないようにしての、どこかが外から見えるようにしてはいけないのかと思います。

 マッサージと言うのは、あくまでも一例をあげてのことで、お前はマッサージ師を犯罪者呼ばわりするのかと叱られるかもしれません。でも、実際、マッサージに限らず、個室の現場での被害がとても多いということを知って頂きたいのです。ほとんどの人はそうではないのですが、そんな人が紛れ込んでいる可能性もあるということです。

 そもそも、リンパでなく、服を着てマッサージしてもらうのに、完全に密室にしなければならない理由ないでしょう。

 以前、夫と二人で行っていたマッサージで、そこは沢山のベットが並んでいますが、完全にカーテンで仕切られるようになっていました。夫と私との間は、いつもはカーテンは開けていたのですが、その時には、マッサージ師さんが、カーテンをさっと閉めてしまいました。そして、施術してもらっている時に、後ろ向きになっていた私の手にその人の性器を握らされてしまったのです。

 えっ!!何!?ととまどいました。どうしよう、声を上げようか、手を振り払おうか、夫との間のカーテンを開けようか、激しくあれこれ考えても、結局なんにも行動できませんでした。それは、その方が障がいのある方というのもあったと思います。彼が職を失うようなことになってはかわいそうだとも思いました。でも、突然、考えもしないことに遭遇すると、急に行動はできないものだとよくわかりました。まさか、この私が、何にもできなかった、後で、私はどうすればよかったのか、どうして何もしなかったのかと、自分に嫌悪を感じました。私は、もう年寄りだからいいようなものの、同じようなことをその人はしているのではないか、それを見逃してしまってはいけなかったと後悔しました。

 それは、乗り物の中でちかんに遭った時でもそう。とっさに行動はできないものです。

もう一度、今回、マッサージを例に挙げて申し訳なかったのですが、 世の中には、「密室」や「個室」を売り物にしている業種が結構あります。その必要があるのかどうか、利用する時には、考えたほうがいいと思います。密室で目撃者もいない所から、被害を訴えてもなかなか難しいことなのですね。


私は、性教育の講演をする時に、特にこのごろ、SNSによる被害が多いので、「密室に二人っきりになること」の危険性を必ず話すようにしています。明日は、それについて話しますね。

先日の晩御飯、夫が作ってくれたそうめん。ミカンの缶詰を買ってたのとシイタケを煮たのは私です。おくらとなすとキューりのはテレビでやっていたのですって。おいしかった~。

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不倫報道・トイレでセックス!?

ある高校生が当院を訪れた時。彼女は、初めての性交の直後でした。その相手も高校生。そして、話を聞いて愕然としたのは、その性の場が公園内の公衆トイレであったということです。トイレの床に体操服か何かを敷いて、そこでと。私、思わず言いました。

「初めてのセックスがトイレだなんて。あなたはかわいそう過ぎる」といいました。だって、性って、排せつではないんだよ、と。他の高校生、駐輪場の壁に寄りかかって、下半身だけを脱いで、立った姿勢でほぼ強姦のようなセックスがあったと。

 性って、下半身のものではない。全身の触れ合いだし、それは、心と心との触れ合いだと思うのです。

 今回の報道での、六本木ヒルズの多目的トイレで、短時間でそそくさと、というのを読んで、先述の高校生のことが頭に浮かびました。「性は排泄ではないっ」と。

 いろいろな人が、今回のことについてコメントしているのも読みました。

「性の相手の女性は被害者ではない、彼女たちも加害者だ」とか、「べらべらしゃべる女なんて」と。待って下さい。もし、彼女たちが心身共に満たされる扱いを受けていたら、彼女たちはしゃべったりしないでしょう。「相手の女性も心を持った人間である」ということを忘れているのではないでしょうか。行為に及んでいた男性も、そんなコメントをする人達も。自分が単に男性の性欲とされることに、疑問や嫌悪を持ったからこそ、しゃべったのでは?


 私、結婚している人でも、他の人に心惹かれることはありうると思うのです。家族のある人が妻以外の人を好きになって、泥沼のトラブルになったほかの何人かの報道もありました。結果的に、妻もその女性も傷つけることになっているとのこと。何と。自分自身がおかれている立場を考えるなら、どうすればいいのか、しっかり苦しんで考えて、それから行動すればいいものを。突っ走ればいいものではないし、ばれなければいいものでもありません。

 ただ、今回の場合、そんな一人の女性に心惹かれてというのではない、単なる性欲の問題だから、まだ罪は薄いという人もいました。そんな。単なる性欲の対象とされた女性の立場は?


 私は、この度の男性におごりをみます。自分の性欲は、だれかに解消してもらうべきもの。手軽に、トイレで下半身だけ、まるで排泄のように。女性には、少額のお金を渡せば、それで納得してくれているもの。そんな行為を繰り返される女性が自らに対して情けなく、相手に疑問や怒りを持ち始めても当然と思います。

 これまでに書いたことでもありますが、クイズ番組に出演して、多くの人をうならせた東大生も、女性を妊娠させて、中絶せざるを得なかったという報道。それも、二人の東大生が。これも、しゃべった女性は、自分が人として扱われなかったことへの怒りだったのだと思います。

 昨日、緊急避妊を求めてきた女性は、彼が「コンドームがない方が気持ちがいいから」と言って、応じたと。カップルの双方、学生です。妊娠しても産んで育てることはできないと。それは二人とも分かっていることでした。

「いい?妊娠しても産むことができない時に、コンドームもなしでする男性は、あなたに対して、とても失礼な人だということを知りなさい。あなたは、大切にされていないよ。彼は、あなたがしんどいことになるよりも、より気持ちがいいことを優先させている」

「それはダメだと言わなければ。彼の要求をそのまま受け入れてあげることは、自分がしんどいことに繋がっているんだよ。だから、こうしてアフターピルを求めてきている。でも、アフターピルも100%ではないからね。」

 今、多くの男性たちは、ちゃんと教育を受けていません。東大生だって。女性はいかに妊娠しやすいか、避妊の大切さ、何より性は心のふれあい、性欲を満たすためだけのものではない、自分が大切にされていなと感じるセックスはとてもみじめだということも。まったく学んでいないままに特権階級のような大学生活や社会人となっています。そして、人の命を扱う、医師になろうとしています。人の心を大切にすることを知らない医師に。この国は、性教育がなされていない、とてもみじめな国になっているということを、現場で痛感しています。
昨日のバラ、京都の寺尾さんが送ってくださった、アフリカのバラということでした。こちらです。

https://afrikarose.com/

自分が映るのは、ちょっと恥ずかしいけれど。バラたちも、だんだん開いてきました。

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若い患者さんに言っていること

今日は、日ごろの診療の場で若い患者さんたちに言っていることを少しお話したいと思います。

昨日は、午前中は緊急の患者さんの診察、諸手配。午後、電話当番。当番をしながら今度の講演の資料作り。次々と講演がキャンセルとなる中で、唯一実行するからとの連絡が来た所の講演です。ありがたいことで。この際だから、これまで使ってきたデータなどを新しく作り直しました。常にアンテナを高くして、新しい情報をお届けする、もちろん、これまで私が保って来た基本は変えませんが。

 中でも、伝えたいこと。

 若い人というのは、色々と知らないこともあって、しんどい状況になってしまうこともあるものです。それが若さのゆえんでもありますが。そんな時に、大人の側は「助けを求められる大人であるか」ということなのですね。


お母さんには言わないで。と言われることがよくあります。「言いません!」と言います。当方としては、守秘義務がありますので、もちろん、患者さんのことは誰にも言いません。たとえ親にも。「ああ、これ保護者に告げたほうがいいなあ」と思うことがあっても言えません。でもね、

「一人で解決できない時には、だれかに助けを求めていいんだよ」と説得します。みんなが助けてくれる。言うのが嫌で、一人で何とかしようとして、もっとしんどいことになって、結果的にはもっと心配かけることになってしまうこともあるからね。中には、私の患者さんで殺されてしまった人もいるよ。そんな時、どれだけ親がつらい思いをするか。私は、何にも知らなくって、彼女を助けてあげることができなかった、というのは、親として本当につらいことなのだからと。

 たとえ親に言えなくっても、誰か一人、大人のSOSを求められる人を探してほしいと。助けてもらっていい。そして、いつかは、あなたが困った人を助けてあげられるような、そんな大人になってと。

 そんな説得をすることもあります。勿論、それはよほどギリギリの所に追い詰められた人の場合です。ほとんどは、助けを求められた当方で対応しますが。大人の側には、特に子育てをする方は、自分が「助を求められる保護者であるか」ということを常に自分に問うてほしいと思うのです。

とってもしんどいことになった娘さんを「階段から突き落としてやろうかと思いました」

という人もいました。ああ、それだから、こんな親だから、ここまでSOSが言えなかったんだねと思いました。 

それから。今、話題になっている「沢山の女性と不倫をしていて、それがばれてしまった人」について。その人はとてもきれいな人と結婚していて、子どもさんもあるということですが。どんな人と結婚していても、これは関係ないことです。この報道で不快感を覚えました。その週刊誌も買って読みました。

 私が持った不快感。そして、それは若い患者さんに言ったことが、そっくり当てはまることなのですが。「性」は「排泄」なのか、ということです。

 この項、もう少し続きます。

 素敵なバラがと届きました。それも、六本木から!冷蔵で。お水の代わりにジェルに茎を浸けてありました。ちょっと落ち込んでいるので、それを見透かしたように送っていただきました。全てが美しいので、真上から撮りました。ありがとうございます。大切に長持ちさせますね。

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「8.6ヒロシマ平和の夕べ」で原発のお話をしていただく樋口英明さん

今年の「8.6ヒロシマ平和の夕べ」では、原発について、樋口英明さんにお話しいただきます。

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皆さんすでにご存じのごとく、樋口さんは、福井地裁の裁判長として、2015年5月、大飯原発3・4号機運転差し止め判決、2015年4月には高浜原発3・4号機運転差し止め仮処分決定を出しました。こののち、2017年 名古屋家裁部総括判事で定年退官。2018年秋から市民向けの講演活動を開始されました。

 樋口さんは、2019年10月に広島の「ひろしま・ふくしまを結ぶもみのきイベント」で講演してくださいました。お話します。わたしが「大飯」をを止めたわけ。その時の講演録がこれです。

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「危ないものは、止める」。この本を読んで、なんとわかりやすくお話くださるのだろうかと思いました。原発の危険性について。この本のすべてを皆さんにお伝えしたいと思いました。でも、それを当日お話いただくのですから。どうぞ楽しみにして下さいというしかありません。ただ、ご講演の初めに、原発訴訟の裁判官についてと、一番最後の方に「原発と原爆について」お話されています。そこの一部だけ引用させていただきたいと思います。

 「3.11後、原発の運転を差し止めた裁判長は、3人です。広島の野々上さん(火山事象(火砕流)を理由に差し止めた)、私、それから大津の山本善彦さん、その3人だけです。差し止めなかった裁判官はどれだけいるかというと、16.7人ぐらいで、圧倒的に違うんですよ。その16人と私とで、どこが違うのか。私は原発は非常に怖いと思っています。(だから差し止めた)。そう思っていない人は、差し止めない。非常に単純です。 」

「先ほど言ったように、原発と原爆は非常に似ています。核エネルギーを使って、死の灰を生み出します。恐ろしいぐらいに似ている。しかも厄介なのは、原発の方は水と電気で冷やし続けないと爆発する。必然的に大事故になる。非常に厄介なものです。原子爆弾を広島と長崎に落とされた、福島であれだけの大事故を起こしたにもかかわらず、その原発を外国に売りに行こうという。この神経は理解不能です。私は「責任」というものを考える時、案外みんな、みんなというのは政治家も含めてですが、自分の「責任」がどこにあって誰に対して責任をもっているのかということを、明確にわかっている人が日本には少ないんだな、と感じています。私自身は、自分の「責任」がどこにあって誰に対して責任を負っているか、明確にわかっています。この「責任」を明確にわかっている人といない人とでは、分かっている人の方が、はるかに幸せだと思います。私は、自分の責任が明確にわかっていたので、それに従って裁判官生活を送ることができました。それは、非常に幸せな裁判官生活だったと思っています。ただ、それで私の責任が全うできたとは思っていません。原発の危険性を知ってしまった以上、それを皆さんに伝えるのが、私の責任だと思っています。」

どうぞ皆様、樋口さんのお話も楽しみにしていてくださいね。なお、ご紹介した冊子は、まだ在庫があるそうです。

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鶴見町で被爆した竹田昭義さんの手記③

一昨日、昨日と記録している竹田昭義さんの被爆記の続きです。吉田に何とかたどり着いて、やけどの闘病、しかし後でわかることですが、放射能との闘いの日々でもありました。

 蚊帳の中で寝ていると、祖父母たちのヒソヒソ話が聞こえてくる。「誰々さんが広島市内に被爆した知人を捜しに行き、帰って3日目に亡くなった」などと言っている。私に聞かすまいと気を遺っているのがよく判る。しかし、そんな話が毎日のように繰り返されるのである。どうしても耳に入る。事後に市内に入った人でも、そうだ。まして私は直爆、もう助かりようはないなと覚悟した。自分でも意外なほど冷静に、先生や友人に遺書を書いて枕の下に置いた。 

 父母も時々、様子を見に来てくれていた。「時々」とは、父母が冷たい言い方のように聞こえるかも知れないが、実はそうではない(注1)。原爆投下の日、私の弟も中学1年生(廣島県立第二中学校=現・観音高校)で建物疎開作業に動員され、爆心からわずか500メートルの中島新町にいた。父と伯父がたぶん2日後から、ほとんど毎日焼け跡を捜し回っていたのである。やっと本人の弁当箱を見つけ、遣骨代わりにとその辺りの砂を詰めて持ち帰ってきた(この弁当箱は、父が高齢になった後、私が原爆資料館に寄託した)。弟は級友の実家である舟入町の唯信寺までいっしょに逃れ、2日後の8日、苦しい息の下「天皇陛下万歳」と叫んで絶命したという。この事を知ったのは、随分あとになってからであった。本川沿い2中の慰霊碑には、弟を含め全滅した2中1年生、3百数十の名前が刻まれている。

 寝ていると、8月15日に祖父が「日本が負けた」と慌てたように帰って来た。まさかそんな事が…絶句。寝床の中で涙がとまらなかった。

 そうこうして夏も終わりに近づき、9月に入るころには、やけども少しはよくなり、何とか寝床から起きあがることができるくらい身体も回復してきた。そこで父の郷の根野村(いまは安芸高田市八千代町=私の現住地)に移ろうという事になった。大八車に布団を敷いて寝かされ、ジリジリと陽が照りつける中、舗装されていなかった現在の国道54号線をゴトゴト十数キロ、3時間半ばかり運ばれた。痛いのと、暑いのと眩しいのと、頭がぐらぐら揺れるのが辛かった(注2)。 

 秋になると、ようやくやけどの治療をしなくてもよくなり、外に出て歩けるようになった。学校に連絡をとると、校舎はもちろん焼失。翠町の寮に詰め所があるのが判った。やっと寮を訪ねる事ができたのは、もう年末近かった。「江波町の旧陸軍病院で授業を再開している。明日から出て来い」という。住む所もないのに、ちょっと待って下さいと返事、その日は帰った。年が明けて、皆実町にあり焼け残った縁類の家の2階が借りられる事になった。それも骨組みだけの吹きさらし、雨戸、障子、ガラス戸もなし。その辺りに散らばっていた障子、ふすまの使えそうな物を集め、一間だけどうにか住めるように囲った。江波の仮校舎もひどいものだった。もちろん窓ガラスなし、寒風が通り抜ける冬、あるだけ着込み授業に出た。その後、父兄の方が風船爆弾用の紙(割合に丈夫なものだった)なるものを手に入れ、ガラス代わりに張ってもらい少しは寒さ凌ぎになった。

 どのくらいたってからだっただろうか、廃墟だった元の雑魚場町の跡地にバラック校舎が再建され、ようやく、まずまず普通に学校生活が送れるようになった。有り難かった。

この後、手記には、やはり学徒動員で被爆した奥様のこと、二つのがんの闘病、原爆への忌避、平和への思いなど切々と書かれています。80歳までどなたに勧められても、ガンとして話さなかったご自分の被爆体験記は貴重で、あまりにもったいないことです。この後の弟竹田雅博さんの解説も含めて、「8.6ヒロシマ平和の夕べ」の参加者の方々にお配りしようかとも考えてます。

竹田さんご兄弟に感謝します。

これは、現在の鶴見橋です。やはりウィキペディアから戴きました。

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昔、比治山に鶴が飛来しており、江戸時代にはこの橋の東側、被爆柳がある辺りにその鶴を見るための「鶴見小屋」が設置されていました。ここに橋はなく、渡し船で渡っていたようです。明治13年、1883年、ここに木製の橋が作られ、鶴見小屋から鶴見橋と名付けられたそうです。その後、何度も建て替えられ、現在の橋は、1990年に作られました。広く、明るく、美しい橋です。75年前の惨事の面影は、わずかにたもとの被爆柳が示してくれているだけです。
 

 

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鶴見町で被爆した竹田昭義さんの手記②

広島一中の生徒で学徒動員中鶴見橋付近で被爆された竹田昭義さん。

 鶴見橋は1880年に木造の橋が架けられました。広島に原爆が落とされた当時、橋の西側では広島女子商業学校や県立広島第一中学校など12校の1936人が建物疎開作業に動員されていました。(ヒロシマ用語集より)

 昭義さんは、自らの被爆については決してしゃべられず、しかし、80歳になって初めてこの文をしたためられ、弟である竹田雅博氏に託されました。まるでその一年後の自らの死を予感されたかような行動でした。たまたま、私が夜ウォーキングをした時の鶴見橋とそのたもとに生き続けている被爆柳について書いたのがご縁で、この文を雅博さんが送ってくださったものです。以下、竹田昭義さんの文の一部を転載させていただきます。


私の、ヒバク 


      竹田 昭義 (たけだ・あきよし 2010年8月30日、記/1930年8月5日生まれ、2011年8月13日没。享年81)


 


 1945年8月6日、午前8時15分(これは後から知った事で、その時は正確な時刻の認識はない)突然、バリバリバリという轟音と、何もかも一瞬見えなくなる強烈な閃光を左前方から感じた。熱いーッ、と思った時、もう頬の皮膚がベロリと縮れて垂れ下がっていた。


 空襲や爆撃があった時は「指で目と耳を押さえ、地面に伏せろ」と教えられていた。とっさにその通りに行動、次の瞬間、地面をずるずるーッと数メートル引きずられた。爆風のためか、立ったままだった友人は京橋川まで十数メートル跳ばされたと、あとになって聞いた。


当時、私は旧制の廣島県立第一中学校(現・国泰寺高校)3年生。前日5日に15歳の誕生日を迎えたばかりだった。8月6日は建物疎開(焼夷弾攻撃による類焼を防ぐため、一定地帯の建物を壊す)の作業に動員され、爆心から東南へ1.5キロの鶴見町にいた。原子爆弾が炸裂したのは、作業はまだ始まらず整列して先生から注意事項の説明を受けていた時だった。


 しばらくして目をあけると、煙と埃か1メートル先も見えない。さっきまで一緒に整列していたはずの友人たちの姿もない。逃げなければと立ち上がり閃光の反対方向と思われる鶴見橋を探すと、何とか見つかった。だが粉塵で向こう岸が見えない。鶴見橋は、当時は木橋。途中で壊れ落ちているかも知れない。しかし、渡るしかないと意を決し、すすむ。幸いこの時、橋はまだ無事だった。電車通りを横切って比治山へ登った。登るにつれて粉塵から上に出た。やけどは頬だけでなく左耳、首、肩もやられていると気づく。当時廣島一中は、校則で夏でも長袖の冬と同じ服。その肩が焼けて破れていた。胸に墨で名前を書いた白布が縫いつけてあったが、黒い名前の部分だけ焼け落ちていたのが奇妙だった。


比治山から見下ろすと広島市内は粉塵の底になり、どうなっているのかまったくわからない。その中からゾロゾロ、ゾロゾロ人が登ってくる。作業着、カーキー色の服、女子学生の白いセーラー服(下は、もんぺ)。皆それぞれ、やけどやケガ。中でも女子学生は無残だった。半袖の服がぼろぼろになり、髪や腕、胸まで焼け爛れた人もいた。 


 まるで亡霊のような姿が粉塵の闇の中から次から次へと現われて来る様相は、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』と重なって思えた。


 反対側の段原(だんばら=町名)に降りると、そこは別天地だった。山の陰だったためか、家々もほとんど無事のようだった。そこから下宿させてもらっていた広島駅方面、尾長町の叔母の家に向かってひたすら歩いた。


 叔母の家にたどり着いたのは、何時ころだったのかよく憶えていない。私の部屋は2階。重傷を負っているのに、なぜかとにかく“虎の子”のカメラ(そのころは貴重品)が気になった。やけどで熱が出始めていたが、何とか2階へ上がろうとした。しかし、階段に壁が崩れ落ちており、諦めるしかなかった。


 そのうち市の中心部から火の手が迫ってくる。消火の水も人手もなく叔母と3、4歳だった従弟、私の3人が近くの広場にゴザを敷き、近所の人たちと一緒に家が焼失していくのを、ただ茫然と眺めていた。そのころにはとっぷり日も暮れ、ゴザの上で一夜を明かした。誰かがくれたトマトが、やけどで火照った身にとても美味かった。思えばこの日、被爆後まだ何も口にしていなかったのだ。


 翌8月7日、叔母が矢賀駅まで行けば芸備線に乗れると、どこからか聞きつけて来た。40キロほど離れた高田郡吉田町に叔母と私の母の実家があり、何とかそこまで行こうという事になった。矢賀駅まで1キロくらいだったか、とぼとぼと歩いて向かい、ようやく満員の汽車に乗ることができ吉田口駅に着く。そこから母の実家までは約7キロ、やけどで熱があるのに炎天下を歩くのが、とても辛かった。


 途中通る吉田町の中心部に病院があるのを知っていた。「叔母さん、ぼくは母の実家まで行かんと、吉田病院に入院させてもらう」と叔母に言った。しかし、病院に着いて驚いた。私などよりもっとひどい、全身焼け爛れた人がトラックでどんどん運び込まれているではないか。もちろん病院には入りきれず、前庭で力なく蹲くまったり、寝かされたりしている。仕方なく、やはり母の実家に身を寄せる事になり、また歩いた。


 祖父母たちが、やけどで腫れ上がった私の顔を見てびっくり。すぐに寝かせてくれ、蚊帳も吊ってくれた。蚊よけよりも、やけどに蝿がたかってウジが湧かないようにするためである。お陰で同じ場所で被爆した友人たちより、あとあとケロイドが比較的に軽くてすんだ。

 
この後、つらい闘病生活、学校生活の再開などが続きます。鶴見橋の周辺のことまでにしようかと思いましたが、それでは、昭義さんの被爆について、中途半端すぎると思いますので、明日にもう一度続きます。

昨日に続いてやはりウィキペディアから。1955年頃比治山から見る初代の鶴見橋です。


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鶴見町で被爆した竹田さんのお兄様の手記①

昨日のブログ「鶴見橋と被爆シダレヤナギ」を読んで、「8.6ヒロシマ平和の夕べ」のスタッフの一人、竹田氏からメールが来ました。

竹田氏のお兄さんはお二人。共に被爆され、下のお兄様は、広島二中の学徒動員で本川の川岸で被爆、舟入のお寺まで逃げ延びてそこで亡くなったと。そのお兄様のお名前は広島二中の慰霊碑の裏に掲載されています。爆心地にあったお兄様の弁当箱は、原爆資料館に寄付されています。

 上のお兄様は、広島一中の生徒で、やはり学徒動員で被爆、今の安芸高田の田舎に帰りついて療養し、生き延びられたと聞いていました。そのお兄様が、なんと、鶴見町で被爆され、鶴見橋を渡って比治山へ逃げられたのだと。

 お兄様は、ずっと自分の被爆のことをしゃべられなかったのだそうですが、亡くなる一年前に初めて被爆のことを書かれたのだそうです。

その竹田さんのメールと、お兄様の被爆の手記の一部をここに転載させていただきます。

ブログ、鶴見橋の被爆柳を拝見しました。上の兄は、鶴見橋付近で被爆しました。

被爆した2人の兄のうち被爆後を生きた上の兄は被爆をほとんど話すことがなく、どこでどのように被爆したのか、私は兄が81歳で亡くなる1年ほど前まで知りませんでした。聞こうとすると不機嫌になるため、話題にしませんでした。2010年8月に「平和の夕べ」の企画で、路面電車内で被爆した米澤鐵志さんと、原爆ドームすぐ前に家があり、一家全滅した福島和男さんのお話を聞くことになりました。当時、中学校1年生の福島さんは、早朝に郊外の工場へ出かけ家族のなかで一人だけ生き残りました。

福島さんに証言を依頼する際に、福島さんが兄と同じ中国新聞社に勤め、後輩として兄と親しかったことがわかり、兄に了解を得ておかなければと「福島さんにお願いすることになった」と話しました。すると意外にも、「福島くんが話すのなら、ぼくも出なければいかんな」と言いました。その日、特別運行した被爆電車にいっしょに乗車、中島本町のフィールドワーク、そのあとの証言の会にも参加し、後日、「福島くんの話は率直で、よく伝わっていた」と感想をのべていました。

その秋に私が帰省したとき、「こういうものを書いてみた。人に見せるつもりはないが、お前は読んでおいてくれ」と、A4で4枚ほどを渡されました。その最初の部分です。半年後、福島第1原発の大事故。直後から「原爆と同じ、大変な事態だ」と焦燥感を顕わに、毎日のように私にメールを送ってきました。

しかし、兄はその夏に急に他界。「他人に見せるつもりはない」と渡されましたが、没後に、ある冊子に掲載してもらい、その後に広島原爆死没者追悼平和祈念館に収納しました。福島さんも、何年か前に亡くなられたとのことです。(竹田雅博)

ウィキペディアから、被爆直後の広島市内。写真上部真ん中が鶴見橋。その向こうに比治山が見えます。手前の川が二股になっている所の橋が、原爆投下の目印とされたというTの字の相生橋です。今もTの字の橋がかかっています。

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明日、お兄様の手記を掲載いたします。

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鶴見橋と被爆シダレヤナギ

昨夜のウォーキングは韓国語の教室があって遅くなったので近場でとリクエスト。夫から「鶴見橋まで行こう」と。

平和大通りをひたすら東へ。鶴見橋が近づいてくると、

「このあたりはね、女子生徒がたっくさん建物疎開の学徒動員で働かされていて、本当にひどい目に遭った所」と夫。鶴見橋を渡った所に「被爆柳」があります。

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手前の幹が枯れていて、その向こうに、新たな幹が育っています。被爆後75年生き抜いた大きな枝垂れ柳です。一束の折り鶴が供えられていました。

幹にかけられていました。

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鶴見橋にこのような説明版が取り付けられています。

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「鶴見橋(爆心地から約1.7キロメートル)
被爆当時、この橋の西側では動員学徒や義勇隊の人びとが、焼夷弾などによる延焼を防ぐため、建物疎開作業に従事していました。人類史上最初の原爆投下により、この作業に動員されていた多くの人びとが犠牲になりました。原爆の強烈な熱線により欄干などに着火しましたが、すぐに消し止められ、多くの被災者がこの橋を渡って比治山などに避難しました。シダレヤナギもかろうじて被爆に耐え、今日まで生き続けています。」

昨夜の鶴見橋です。

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この橋の西側には「被爆者の森」があります。これについては、河野に聞いたエピソードなどがあります。またお話しますね。

 

 

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「8.6ヒロシマ平和の夕べ」沖縄からは仲村未央さん!!

「8.6ヒロシマ平和の夕べ」では、広島、福島と共に、沖縄を決して忘れません。昨年は、沖縄からは高里鈴代さんに来ていただいて、沖縄の、とりわけ女性がおかれている状況について熱く語ってい戴きました。

今年は、仲村未央さんにお出でいただきます。この写真は、仲村さんのホームページから戴いています。

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仲村未央さんは、1972年、沖縄が本土に復帰した年に生まれました。琉球大学卒業後、琉球新報社政治部記者、沖縄市議会議員、県議会議員として、子どもや女性の貧困、非正規労働問題、県外埋立土砂条例の制定に取り組み、沖縄戦の被害調査を国が一度も実施していないことなどを明らかにし活躍されました。沖縄平和運動センター副議長、止めよう辺野古!沖縄市民会議共同代表なども務めていらっしゃいます。

昨年参議院議員選挙に立候補のために県議を辞職されています。

私は、広島で仲村未央さんの講演があった時に参加してお話を聞きました。

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それは、力強く、分かりやすくお話して下さり、ああ、この方に参議院議員になってほしかったと心から思いました。その時のお話は、ここに詳しく書いています。

http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2019/11/post-0cb7f7.html


昨日は、沖縄県議会議員選挙でした。仲村未央さんは、再度県議選に立候補、トップで当選されました。おめでとうございます。パチパチ!!これからも、さらに力を発揮して活躍されることと思います。


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「8.6ヒロシマ平和の夕べ」では、熱い沖縄から熱い広島に来て頂きます。今、辺野古や宮古を初め、玉城県政の元で置かれている沖縄や人々の状況などを存分に話していただけることと思います。ご期待くださいね。皆様、ぜひ聴きに来て下さいますように。

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「時を超えた兄弟の対話~ヒロシマを描き続けた四國五郎と死の床でつづった直登の日記~」

今日土曜日の診療は午後3時までの受付。少し患者さんが増えてきて、4時に終了。その後、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に直行です。フェイスブック友だちの高山さんの投稿で知ったので。

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「時を超えた兄弟の対話」の企画展が行われています。~ヒロシマを描き続けた四國五郎と死の床でつづった直登の日記~。しばらくコロナの影響で閉館されていましたが、再開してると。

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入口はマスクのチェックと手の消毒、体温チェックがされました。

四國さんの絵画や日記帳、はがきの展示、直登さんの日記。それらが展示してある部屋で、映像が流れます。

映像はここでも見られます。

https://www.hiro-tsuitokinenkan.go.jp/Movie/d_2020_jp.html

遠方の方はこれで、でも近くの方は、本物の前で、大きい画面で観た方が絶対にいいと思います。

客は私一人でした。ずっと一人です。だから、誰はばかることなく、大泣きしました。

沢山の四國さんの絵画、実際の日記、被爆直後の広島の各所と今。中でも、直登さんの死の日まで書き続けた命がけの日記。被爆の様子、何とか命からがら自宅まで帰り着く様子、けがをした足が腐っていくつらさ、無念さ、お母様の嘆き、それらがひしひしと伝わってきます。

シベリアから、これも本当に命からがら帰還した五郎さんは、家に帰り着くなり弟の死を知り、お母様にその様子を泣きながら話してもらい、その日記を夜通し読みます。

もう、これ以上は私が書くことでなく、映像を見てもらった方がいいですね。

会場に、四國さんの絵と共に、詩が展示してありました。それを読んで会場でまた大泣きしました。その写真を撮りたくて撮りたくて。勿論、その写真を使うのでなく、詩を覚えきることができなくって。帰って必死で探しました。見つけました。

その詩を心を込めてここに転載させていただきます。著作権の問題があるかな?きっと四國さんは許してくれると、かってに転載します。ごめんなさい。

弟への鎮魂歌(抄)


弟よ 人間の死にはさまざまあるが 流失する血液を うつろなわが目でたしかめつつ死ぬのではなく
洗面器に吐いた血は すばやくきみの目から とおざける おふくろがいて 頭髪は抜けおちれば 鏡をひたかくし たとえ医者も看護婦も 薬もなくても うち割られ くされてゆく片足を よっぴて 抱きしめてくれる おふくろが いたのだから 炎の下を這いながら目撃した 一瞬に消え去る死と 家屋の下で 焼き殺される死の そのどれでもない おふくろの両腕の中できみは死ねたのだから
 弟よ 少年といってよいか 青年とよんでいいのか 18才のきみのからだが 小学校の校庭に たとえまぐろのように積みあげられ 石油をかけて 焼かれたとしても けっしてきみはひとりぼっちではなかったのだから きみとしっかりおりかさなっているのは 妹のような可愛いおかっぱの児 昔話をしたらとまらなくなる 働き者のとなりのじいさん 世話ずきで陽気だったおかみさん きみの手をつかんではなさない男の児 おっぱいの香りもうせぬあかんぼたち みんなみんなきみと一緒なんだから まして悲しみと怒りにみちたたかぶりにかこまれて きみは炎になったのだから  
 


それから、この映像は、ナレーションは映画監督であり俳優である塚本晋也さんが、五郎さんと直登さんの日記の朗読などは女優の木内みどりさんが努められています。その木内みどりさん、このナレーションを収録してその直後、広島のホテルで亡くなられました。四國五郎さんの絵本「おこりじぞう」の朗読、反原発の活動、れいわ新選組の司会の活動など、様々な活動をなさった最後の仕事が、広島の地でのこの映像の、四國さん兄弟の日記の朗読であること、胸を打ちます。合掌。ぜひ皆さん、会場に行って見て下さいませ。私一人だったなんて、寂しすぎます。

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河井夫妻と、長田屋の再開。

広島の方はもう、とっくにご存じですが。昨日の中国新聞のトップ記事です。

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今か今かと待ち続けて。どうなってるの?立件はされると言われているのだけれど、まさかこのまま逮捕はなく、在宅起訴とか?などと思っていたけれど、どうやらこの国会が終わってからの様です。考えてみれば、検察という組織も、その時の政権を守る一つの組織なのかもしれないとさえ思いました。

 あんな大がかりな選挙違反をやらかして。以前にも書きましたが、私は知りたいのです。金を配る、買収というのは、本当に禁じられた選挙違反で、たった一人に金を渡しても怖いことなのに、100人超え、2000万円を超えているのですって。どうしてこれがばれないで乗り切れると思ったのか、いえ、ばれても平気と思ったのか、それが知りたいのですね。安倍首相の側近だから、ばれたとしてもうまく乗り切らせてくれると思ったのか。「もり・かけ・さくら」のように。

 それに、本当に河井夫妻だけで終わるのか、だって、河井夫妻に1億5千万円ものお金を渡したのは、党中央、本部なのですね。それが買収の資金に使われて、でも、広島の検察の捜査は、河井夫妻、そこまで止まりなのでしょうか。

 そんなことを思いながら、待ち続けております。

昨日は、待ちに待った、長田屋が再オープンでした。オープンの日に絶対に行こうと思っていたので、行きましたよ。夫ともに。4月18日から休業されていて、これまで長かったですね。お店の中には、アクリル板が張り巡らせられていて、感染予防に並々ならぬ工夫がされているのがよくわかりました。

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まずまずのお客さんでした。ただ、海外からのお客さんがまだ当分望まれないので、厳しいでしょう。店主さんは、一年はかかるでしょうねと言っていました。私の所も一緒、患者さんは減ってね、というとびっくりされて。みんなそう。影響を受けていない所は、ほとんどないよねとという話です。

私の注文は、言わなくても分かってもらって。うどんの肉玉イカ天ネギかけです。

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おいしかったあ。夢中で食べました。

さあ、負けないで、お互い頑張りましょうね。助け合ってね。

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「8.6ヒロシマ平和の夕べ」のプログラム

昨夜、ウォーキングで「8.6ヒロシマ平和の夕べ」の会場に決まったRCC文化センターまで行ってきました。夜の会場です。iPadなので、きれいな写真でなくってすみません。京橋のライティングがきれいでした。

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8月6日を中心として被爆75周年の大会が様々開かれるのですが、今年は新型コロナの影響で、多くの会が中止や変更を余儀なくされています。「8.6ヒロシ平和の夕べ」のスタッフも全大会や分科会にいろいろと参加してきた「原水禁世界大会」もウェブですることになったとの発表がありました。

http://gensuikin.peace-forum.com/2020/05/31/75gensuikintaikai-20200531/

その一部です。詳細は、ぜひ上記ホームページを覗いてくださいませ。

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さぞかし苦悩された上での苦渋の決断だろうと思いますが、とても残念です。世界大会ともなれば、海外からの参加者も多く、仕方がないことなのでしょうか。

 私たちの会も窓を全開にして、外でしているのと同じような環境で何とか実行したいと思っています。どうぞよろしくお願いします。

「8.6ヒロシマ平和の夕べ」の決定しているプログラムは、4月21日からのブログでお知らせしていますように、次のごとくです。


森達也さん  平和講演  ~「核を持ってしまった世界」を問う~(映画監督)

早志百合子さん 被爆体験と私の想い

樋口英明さん  原発事故を考える(元裁判官)

岡内章二郎さん  草笛演奏(草笛奏者、被爆二世)

仲村未央さん 沖縄から

宇野朗子さん 鴨下全生(まつき)さん  福島から

まとめ  米澤鐵志さん(広島電車内被爆者)

コーディネーター 河野美代子(広島被爆二世 産婦人科医)

皆様、ぜひ参加してくださいませ。無事、安全に開会できるように全力を尽くします。お待ちしますね。

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今年の「8.6ヒロシマ平和の夕べ」について

今年の「8.6ヒロシマ平和の夕べ」についてのお知らせです。大変お待たせしました。

今年は被爆75周年。この節目の年に、私たちは、「反戦・反核」をどう訴え、闘いを進めるか、さんざん議論してきました。多くの被爆者が「核兵器廃絶」の思いを抱きながら、思いを果たせず、次々と亡くなっている今、私たちはこれからをどう生きていけばいいのか。

 そして、今年は例年以上に力を入れて「平和の夕べ」に取り組んできました。その内容がほぼ固まり、演者の方たちの了解をえ、準備万端整えた所に、この新型コロナの攻撃が起こりました。それは瞬く間に、世界に広がり、席巻しました。多くの方たちが命を奪われ、職も奪われ、学校や仕事にも行けない状況が続きました。

 あれよあれよという間にこのような状況となって、私たちは頭を抱えました。オリンピックを初めとして、多くの行事やイベントが延期や中止を余儀なくされました。

何より戦争や核に反対し、人々の命・生きることを大切にしようという目的の私たちの会のために、参加の人々の健康を損なうことになってはいけないと。

 そんな中、少しずつコロナの攻撃も収まりつつ、人々の活動も復活してきました。できるかもしれない。

 これまでYMCA文化ホールには、さんざんお世話になりました。毎年人々が一杯集まり、熱気に満ちて議論をしました。しかし、そこは地下です。窓がなく、換気ができません。密を避けるという何より大切なことが満たされません。他意はありません。それだけの理由です。

 場所を探しました。そして、行きついたのがここです。

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RCC文化センターです。駅から近く、川沿いにある美しい建物です。そこの7階の7-34号室です。

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一面窓です。窓からのぞくとこんな景色です。

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川沿いからの入口です。

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反対の正面の入口です。

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勿論、皆様の健康を守るべく、最大の注意を払いながら会を決行しようと思います。もしも、これからの事態で会を中止、または変更しなければならなくなったなら、どうぞ、その節はご容赦下さいませ。

今、急いでチラシを作り替えています。もうすぐ出来上がります。出来たら、真っ先に皆様にご報告しますね。演者の方々も心よく、引き受けて下さっています。楽しみにしてくださいね。

 皆様、今年も広島の暑い夏に集いましょう。語り合いましょう。行動しましょう。広島でお待ちします!!

 

 

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のんた寿司も長田屋も再開です。

今日日曜日午前中は、クリニックで書類書き。それも、本来なら書くべき書類ではない書類です。特別養子縁組に関して、家庭裁判所が家庭訪問をして、直接当事者や家族に会って、養子縁組に関しての事情の聴取と意思の確認をすること。それは、家裁の大切な義務です。しかし、「コロナのせい」で、県を越えての出張はできないので、それを当事者に書いてくださいと、書類がドサッときたと。当人も家族も、それぞれにかなりの質問が記されています。

 ああ、これは無理だわ。こんな書類など書いたこともない人に書くようにというのは、不可能。心も痛いでしょうし。事情を聴かれ、口頭で質問に答えることはできますが。その場合、その通り、思いの通りを答えればいいので恐れることはありませんからね、といつも励まします。それを今回は書くようにと。

 では、今度いっしょに書きましょうね。ということでの今日でした。

 時間がかかって書類を仕上げましたが、コロナのためにこんなことになるのかと、大切な要件でも、出張はしてはならないものなのかと、釈然としません。

 その後は、場所を変えて「8.6ヒロシマ平和の夕べ」の会議。今年の8.6は75周年。それに向けてのメニューを考え考え、中身は出来上がっているのですが。コロナの関係で・・。でも、諦めたくなく。

 会議に直接集まった人と、県外からはZOOMでの参加のウェブ会議。会議は順調に進めることができました。近々、私たちの思いと決めたことをお話できると思います。

 今晩は、夫と「のんた寿司」へ。長い間閉鎖されていましたが、今は午後7時までの時短で再開されています。私たちが行っていたのは、「おんまく」か「のんた」かだったので、おんまくがなくなった今、のんたが再開されてほっとしました。しかし、午後7時まで、ラストオーダーが6時半までというと、忙しいです。明日からは、午後8時までにするそうです。食べかけの写真ですみません。今は、回転寿司だけど回転はしていません。全て口頭か、タブレットで頼みます。

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そうそう、お好み焼きの長田屋も6月4日から再開するそうです。心配していましたが、ホッとしました。

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 そして、夜はウォーキング。ウォーキングも5月2日からですので、約ひと月になります。歩き続けて、なんと足がむくまなくなりました。朝から晩まで足首がほっそりしています。足の筋肉がついてきたということなのでしょうか。これからも頑張りましょう。

あ、YMCA外語学院、韓国語の教室も再開です。明日は久しぶりに皆さんにお会いします!!

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