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「8.6ヒロシマ平和の夕べ」②早志百合子さん

「8.6ヒロシマ平和の夕べ」では、必ず被爆者の体験を話して頂いています。「核廃絶」の悲願を果たせないままに無念の死を迎えている今、話して頂ける方たちが少なくなっています。でも、今年も素晴らしい方にお話しをしていただけることになりました。「早志百合子」さんです。

被爆で多くの子が殺されたり孤児になったりその後の原爆症や白血病などで次々と無念の死を迎えました。

そんな中を生き抜いている子どもたちに、自らも被爆者である広島大学の長田新教授が呼びかけ、自分たちの体験記を書いてもらいました。集まった多くの作文を編集し、1951年10月「原爆の子」を出版しました。

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現在出版されているのは、この文庫本です。

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子どもたちの悲惨な状況は、読んでいて、何度も胸が詰まります。

この本は、その後たくさんの言語に翻訳され世界中で読まれ、大きな反響を呼びました。その中に早志百合子さんの体験も収載されています。
早志さんは、9歳、小学三年生で被爆しました。爆心地から1.6キロの自宅は吹き飛ばされ家族みんな負傷、血みどろになりながら巻き起こる火事から避難しています。早志さんの体験記には、その時の死体や助けを求める人達の描写が子どもながら、しっかりと書かれています。早志さんは、その後は激しい嘔吐下痢などの原爆症に見舞われますが、生き抜きました。

 「原爆の子」に作文を寄せた子どもたちは、長田先生たちを中心に「原爆の子友の会」を結成し、集まりを続けます。

 長田先生は、さらに原爆の子を守る運動を展開され、「日本の子どもを守る会」を結成。それは日本の各地に「子どもを守る会」の結成へと展開されました。さらには、京阪神では、「原爆の子にこたえる会」が作られ、「原爆の子にこたえようー少年少女たちのねがい」という文集も作成されました。

さらに、被爆から8年、1953年、教職員組合が中心となって募金をし、映画「ひろしま」が製作されました。その映画製作には、「原爆の子友の会」の並々ならぬ協力がありました。その映画には、多くの被爆者が出演しています。早志さんも自らが逃げ惑った地での出演をしています。この場面などです。

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早志さんの活動はまだまだ続きます。明日に続けますね。

 

 

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