「8.6ヒロシマ平和の夕べ」③早志百合子さん続き
8.6ヒロシマ平和の夕べで話して頂く被爆者の方は、早志百合子さんです。昨日のブログで、なんと早志さんのお写真を載せていませんでした。つい、「原爆の子」や映画「ひろしま」などの画像に力が入ってしまいました。
はい、最近の早志さんです。ネットから戴きました。とってもお若くて素敵な方です。
早志さんの前に、「原爆の子」がおいてあり、その右側にあるのが、「原爆の子その後」です。
長田新広島大学教授と作文を書いた子どもたちとの会「原爆の子ともの会」は、1961年、長田先生がお亡くなりになると自然消滅しました。1972年、執筆者の再開、集いの会再結成。「原爆の子きょう竹会」と命名されました。早志百合子さんがその代表を務められます。
そして、1990年から、原爆の子の執筆者にその後の原稿の依頼をされます。早志さんは、その前書きに「原爆の子」「執筆者が、原爆体験後、どう生きて来たかを書きつづることで、原爆というもの、戦争というものの悲惨さ、愚かさを、後世に伝えていくことを決めた」と書かれています。
しかし、執筆依頼に対し、「つらくてとても書けません」とのお返事も多くありました。集まった手記を編集し、1999年、「原爆の子その後」を自費出版されました。それは広島市内のすべての中学校の図書室や様々な公共施設に寄付されました。それがマスコミにも取り上げられると、読みたいという希望もたくさん寄せられ、あっと言う間にすべてなくなってしまったということです。そのままその書けませんのお返事も載せて、2013年8月6日「原爆の子その後」が再出版されました。
子どもの時に被爆した方たちが被爆後の苦難に満ちたその後をどんなに生き抜いていったか、それらがつぶさに書かれています。両親が原爆でなくなって親戚に見を寄せた子は、遠足のお弁当を作ってと頼んだところ、ごはんにみそを塗っただけのお弁当を渡されたとか。それから、多くの方が結婚にあたって、相手の親から被爆者であることを理由に反対をされています。破談になってしまった方は、それをばねに、なにくそと頑張って生きたと。
元の「原爆の子」と照らし合わせて読むと、本当によく生きてこられたと胸が詰まります。
早志さん、よくぞこの本の出版をしてくださったと、感謝します。
早志さんの手記には、特にABCCで裸にされ体を調べられたことのトラウマが強く怒りと共に書かれています。
今、早志さんは、健康体操の主催者としてお忙しくされています。これは、「原爆の子その後」の中に書かれていますので、私が書いてもいいと思いますが、この体操を編み出し、今はNPO法人の代表をされていますが、全国に4000人もの会員がいらっしゃいます。今年は創立20周年だそう。その一部、お写真をフェイスブックから戴きます。全国大会の様子です。
被爆であれだけの苦しみを負い、がんの手術も受けながら、今のお元気な姿に感動しっぱなしです。
こんな早志さんに今年の平和の夕べでお話いただく予定です。早志百合子様、私たちのお願いを受けて下さってありがとうございます。どうぞよろしくお願いします。コロナが収まって会が開けますように・・。
『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。
広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
| 固定リンク
コメント